血に錆びた刃
文字数 2,461文字
夕刻、女を宿舎に送った花房は資料室に向かう。
少し奥まった机では、春月が資料を広げ、何かを書き込んでいた。
「春さん、今いいですか?」
「何か困り事でもありましたか」
「もっと厄介な事ですよ」
顔を上げた春月は机の資料を手早くまとめ、花房はその向かいに腰を下ろして口を開いた。
「昼前、監察の大藪さんが来たんです、彼女を殺しに」
春月は眉を顰めた。
「対応管補佐の執行は指導教官の特権で、監察官は執行に立ち会うのが規則ですよね」
「えぇ」
「でも、大藪さんの口ぶりからして、あの子は特別だから構わない、みたいな様子でしたけど……あの子、どうして此処に来たんです? お昼に食堂に行った時には、向こうから勝俣さんに睨み付けられてても気付いて無いし……とても適正があるとは思えないんですけど」
春月は目を伏せ、何も言わない。
「それと、あの子が言うには、大藪さんに、前にも同じ様な事をされたらしんです」
目を瞠り、春月は花房を見る。
「春さん、あの子、一体何者なんですか? 対応官補佐を銃で脅すのが、監察係の仕事じゃないですよね」
花房は小首を傾げ、皮肉げに肩を竦めた。
「それとも、あぁやって脅すのも、何かの特別な研修ですか?」
「少なくとも、私はこの研修に監察係が関与しているとは承知していません」
「だったら……どうして彼女は此処に来たんです? 今すぐ現行犯執行が必要な犯罪者なら、此処には来ませんよね」
「えぇ」
「……春さん、本当に何も知らないんですか」
「新人研修を指示された以外は承知していません。彼女の身元も同じ様に……ただ、デルフォイが御託宣にも等しい判断を下した、そういう事なのでしょう」
「なら、判断ミスですね。身元が分からないにしても、あれは酷すぎますよ」
「そうでしょうね……しかし、わざわざ回りくどい手口で此処に連れて来たからには、その理由があるはずです」
「回りくどい手口?」
「実質は女人禁制の様な此処に、わざわざ男の身形 をさせてまで女性を入れているんですからね」
「まぁ、変な話と言えばそうですけど……でも、そんなにしてまで入れた人間を、どうして殺しに来るんですかね」
「彼女が何者か分かれば、はっきりするかもしれません」
終始伏し目がちな春月を前に、花房はいつに無く渋い表情を浮かべる。
「それはそうと、その大藪さん、放っておくとあの子殺す勢いだったんで、ちょっとだけ刺しておきました」
春月は顔を上げ、あっけらかんとした花房を見る。
「責任者の春さんの立ち会いも、代理の僕の承諾も無しに、勝手に対応官補佐を執行しようとしていたのが悪いんですけど、監察から苦情が来たら、代わりに申し開きしてもらえますか?」
春月は溜息を吐いて、再び視線を花房に向ける。
「大藪監察官の側に落ち度がある事は確かですし、私達は彼女が何者かも知らないわけですから、それは構いませんが……もしかしたら、彼女は一般の対応官補佐とは異なる扱いとの認識が、上層部には有るのかもしれません……今後は、あまり荒っぽい事はしないで下さい」
「分かりました。それじゃ、失礼します」
部屋を出る花房の背を見遣りながら、春月は眉を顰めていた。
一昨日、女を脅迫して男の身形を強いたのは大藪であり、桜田を名乗った背の高い女性は勝俣であろうと。だが、監察係の動向には手出しが出来ない。そして、今はそれを確かめる術すら無い。
何も出来ないからこそ、あの女の教育係を命ぜられた。だが、何も出来ないにもかかわらず、調べるべき事を見つけてしまった。その矛盾が、彼を苦しめる。徹夜仕事が出来ない代わりに得ていた力を失い、徹夜仕事を受けたところで苦労しなくなったのと同じ様に。
手にしていたペンをウェストコートの衣嚢 に戻し、まとめた資料を手に立ち上がる。直接確かめる事しか出来ないなら、手段を問わずそうすべきであると思い直したのだ。
ただ、何の罪もないであろう女の事を断りも無く探るのは気が引け、彼は地下へと向かう。
昇降機で階下へと降り、無機質な廊下の先に有る、女の居室となっている部屋の扉を叩いた。
「……浅葱さん?」
返答は無く、洗面所に居るのかとも考えたが、扉の奥に気配がある様に思い、彼は扉に手を掛ける。
「開けますよ」
左手首の認証端末で職権により解錠すると同時に、引き戸を引く。
「大丈夫ですか」
扉を開けて目にしたのは、低い机に伏せる格好で蹲る女の姿だった。
「どうされました」
「ちょっと、痛くなって……お薬……何処に行ったか、わかんなくて……」
女は僅かに上体を上げ、息をする事さえ苦痛な様子で呟く。
「何処が痛みますか」
「最初は、偏頭痛かと……でも、背中とか、腕も、痛くて……」
小さな呻き声を上げ、女は再び机に伏せる。喉の奥に吐き気がまとわりつき、耐え難い苦痛に見舞われていた。
「少しだけ辛抱して下さい、すぐ医務係に連絡します」
春月は認証端末から医務係へと緊急連絡を入れる。幸いにも、応答したのは医務官の池田だった。
『どうされました』
「浅葱さんが偏頭痛か、神経活動の過剰状態を起している様で、動けないほどの痛みを訴えて居ます」
『なら、常用している薬の有無、それと、鎮痛剤のアレルギーの有無だけ聞けますか』
春月は女を覗き込む。
「いつも使っている痛み止め、分かりますか」
「アイストップ……何処かに、あったはずで……」
辛うじて声を出したものの、喉の奥にまとわりついていた吐き気が込み上げて女は更に蹲る。
『春さん?』
「市販品で成分は分かりますか?」
『はい』
「常備しているのはアイストップです」
『なら、こっちの在庫で薬を持っていきます、そのまま其処に居て下さい』
池田は通話を切り、春月は蹲る女の傍らに膝を突く。
だが、出来る事と言えば、忌々しげに脱ぎ捨てられた背広の残骸を眺めながら、苦しげな呼吸が続く事を確かめる事だけだった。
少し奥まった机では、春月が資料を広げ、何かを書き込んでいた。
「春さん、今いいですか?」
「何か困り事でもありましたか」
「もっと厄介な事ですよ」
顔を上げた春月は机の資料を手早くまとめ、花房はその向かいに腰を下ろして口を開いた。
「昼前、監察の大藪さんが来たんです、彼女を殺しに」
春月は眉を顰めた。
「対応管補佐の執行は指導教官の特権で、監察官は執行に立ち会うのが規則ですよね」
「えぇ」
「でも、大藪さんの口ぶりからして、あの子は特別だから構わない、みたいな様子でしたけど……あの子、どうして此処に来たんです? お昼に食堂に行った時には、向こうから勝俣さんに睨み付けられてても気付いて無いし……とても適正があるとは思えないんですけど」
春月は目を伏せ、何も言わない。
「それと、あの子が言うには、大藪さんに、前にも同じ様な事をされたらしんです」
目を瞠り、春月は花房を見る。
「春さん、あの子、一体何者なんですか? 対応官補佐を銃で脅すのが、監察係の仕事じゃないですよね」
花房は小首を傾げ、皮肉げに肩を竦めた。
「それとも、あぁやって脅すのも、何かの特別な研修ですか?」
「少なくとも、私はこの研修に監察係が関与しているとは承知していません」
「だったら……どうして彼女は此処に来たんです? 今すぐ現行犯執行が必要な犯罪者なら、此処には来ませんよね」
「えぇ」
「……春さん、本当に何も知らないんですか」
「新人研修を指示された以外は承知していません。彼女の身元も同じ様に……ただ、デルフォイが御託宣にも等しい判断を下した、そういう事なのでしょう」
「なら、判断ミスですね。身元が分からないにしても、あれは酷すぎますよ」
「そうでしょうね……しかし、わざわざ回りくどい手口で此処に連れて来たからには、その理由があるはずです」
「回りくどい手口?」
「実質は女人禁制の様な此処に、わざわざ男の
「まぁ、変な話と言えばそうですけど……でも、そんなにしてまで入れた人間を、どうして殺しに来るんですかね」
「彼女が何者か分かれば、はっきりするかもしれません」
終始伏し目がちな春月を前に、花房はいつに無く渋い表情を浮かべる。
「それはそうと、その大藪さん、放っておくとあの子殺す勢いだったんで、ちょっとだけ刺しておきました」
春月は顔を上げ、あっけらかんとした花房を見る。
「責任者の春さんの立ち会いも、代理の僕の承諾も無しに、勝手に対応官補佐を執行しようとしていたのが悪いんですけど、監察から苦情が来たら、代わりに申し開きしてもらえますか?」
春月は溜息を吐いて、再び視線を花房に向ける。
「大藪監察官の側に落ち度がある事は確かですし、私達は彼女が何者かも知らないわけですから、それは構いませんが……もしかしたら、彼女は一般の対応官補佐とは異なる扱いとの認識が、上層部には有るのかもしれません……今後は、あまり荒っぽい事はしないで下さい」
「分かりました。それじゃ、失礼します」
部屋を出る花房の背を見遣りながら、春月は眉を顰めていた。
一昨日、女を脅迫して男の身形を強いたのは大藪であり、桜田を名乗った背の高い女性は勝俣であろうと。だが、監察係の動向には手出しが出来ない。そして、今はそれを確かめる術すら無い。
何も出来ないからこそ、あの女の教育係を命ぜられた。だが、何も出来ないにもかかわらず、調べるべき事を見つけてしまった。その矛盾が、彼を苦しめる。徹夜仕事が出来ない代わりに得ていた力を失い、徹夜仕事を受けたところで苦労しなくなったのと同じ様に。
手にしていたペンをウェストコートの
ただ、何の罪もないであろう女の事を断りも無く探るのは気が引け、彼は地下へと向かう。
昇降機で階下へと降り、無機質な廊下の先に有る、女の居室となっている部屋の扉を叩いた。
「……浅葱さん?」
返答は無く、洗面所に居るのかとも考えたが、扉の奥に気配がある様に思い、彼は扉に手を掛ける。
「開けますよ」
左手首の認証端末で職権により解錠すると同時に、引き戸を引く。
「大丈夫ですか」
扉を開けて目にしたのは、低い机に伏せる格好で蹲る女の姿だった。
「どうされました」
「ちょっと、痛くなって……お薬……何処に行ったか、わかんなくて……」
女は僅かに上体を上げ、息をする事さえ苦痛な様子で呟く。
「何処が痛みますか」
「最初は、偏頭痛かと……でも、背中とか、腕も、痛くて……」
小さな呻き声を上げ、女は再び机に伏せる。喉の奥に吐き気がまとわりつき、耐え難い苦痛に見舞われていた。
「少しだけ辛抱して下さい、すぐ医務係に連絡します」
春月は認証端末から医務係へと緊急連絡を入れる。幸いにも、応答したのは医務官の池田だった。
『どうされました』
「浅葱さんが偏頭痛か、神経活動の過剰状態を起している様で、動けないほどの痛みを訴えて居ます」
『なら、常用している薬の有無、それと、鎮痛剤のアレルギーの有無だけ聞けますか』
春月は女を覗き込む。
「いつも使っている痛み止め、分かりますか」
「アイストップ……何処かに、あったはずで……」
辛うじて声を出したものの、喉の奥にまとわりついていた吐き気が込み上げて女は更に蹲る。
『春さん?』
「市販品で成分は分かりますか?」
『はい』
「常備しているのはアイストップです」
『なら、こっちの在庫で薬を持っていきます、そのまま其処に居て下さい』
池田は通話を切り、春月は蹲る女の傍らに膝を突く。
だが、出来る事と言えば、忌々しげに脱ぎ捨てられた背広の残骸を眺めながら、苦しげな呼吸が続く事を確かめる事だけだった。