月季花の棘

文字数 2,093文字

 女が通されたのは、遮光幕の下ろされた薄暗い資料室だった。
「棚の資料には、あまり良い事が書かれていませんから、良く分からない報告書の束くらいに思っていて下さい」
 言いながら、春月は奥まった一角にある机に向かう。
「報告書を作る技能の判断に必要な、模擬報告書の作成をして下さい」
 端末機の電源を入れると、壁際の机から一冊の(つづり)を取り出した。
「例文と例題は此処に入っています。指定された書式で、千五百字程度にまとめて下さい」
 立ち上がった端末機の文章作成機能を呼び出し、春月は女を見遣る。
「質問を受け付ける事は出来ません。説明と例文を読んで、それらしい事を書いてみて下さい」
 女は困惑気味に、端末機の前に腰を下ろす。
「アプリケーションの挙動がおかしくなったなど、模擬報告書の本分にかかわらない質問はいつでもして頂いて構いません。作成が終了したらお知らせ下さい」
 春月は女に背を向け、自身の作業の準備を始める。
 女は綴を開き、書式の指定と例文に目を通す。

 例題は、デルフォイがインターネット上に性的な書き込みを繰り返している人物を発見し、書き込みの傾向を分析したところ、女性や幼児に対する性犯罪、あるいは衝動的な殺人に及ぶ可能性があると判断した為、分析官による最終判断を求めた、との前提が置かれた物だった。
 例題となっているインターネット上の書き込みを見て、女は首を傾げた。
 登場する人物も、作品も、全てが架空である。だが、その書き込みややりとりを見て、彼女は首を傾げていた。それは、何処にでも居る、何処にでも有る、単なるオタクの戯言ではないのか、と。
 学術論文のそれに少し似た文体で意見を記す為の手引きとなっている例文を眺めながら、女はごく簡潔に回答を作った。
 ――本事例の人物Aによる書き込みは、漫画・アニメを熱烈に愛好するいわゆる『オタク』と呼ばれる集団にしばしば見られる、作品および作中の登場人物への好意を極端に表現し、愛好の対象を同じくする他者と感情共有を図る為の表現であると考える。また、本事例の人物Aのアカウントに投稿された内容からは、実社会での動向が全く不明である事から、これを以て人物Aが犯罪行為に及ぶ可能性を論ずるのは情報不足であり、暴論である。

「……出来ました」
 女は顔を上げ、春月を見遣る。
 報告書の類を順に確認していた春月は、目を丸くして女を見た。
「では……採点が終わるまで、待っていて下さい」
 端末機の薄い画面をキーボードから取り外し、その内容を確認する。
 そして、ごく当たり前で、少しばかり辛辣な言葉に、胸を抉られる。
 多くの新人は、少しでも自己の評価を上げる為、当たり前の感覚を捨て、実在の無い対象への過剰な愛情や憎悪は実在の無関係な人間に向けられると回答する。そして、彼以外の上官の多くが、それを高く評価する。
 ――ハッキングと人斬りが出来なければ、お前はずっと平分析官だっただろうな。
 対応官に昇進が決まった時、当時の上司が苦笑しながら口にした言葉を思い出し、春月は眉を顰めた。
 当然の事が当然ではない世界で正義を貫く事が、どれほど無意味であるか、この三十年で理解しているはずの事を、彼はまだ諦めていない。
「……簡潔にまとめられていますね。ただ、強いて言うなら“オタク”の定義に根拠が欲しいところ、でしょうか」
「資料が無いので、そこは勘弁して下さい」
「それもそうですね」
 言いながら、春月は作成された文章を管理サーバーへと送り、端末の電源を落とす準備をする。
「花房君の手があくまで、執務室の方で待っていましょう……此処には、あまり良い物がありませんから」

 二人が執務室に向かうと、その扉の前に人影があった。
「あぁ、そっちに居られましたか」
 二人を見るのは、白衣を羽織った黒縁眼鏡の男だった。
「昨日の鑑定結果が出ましたよ。裏に要点は書いてあります」
「いつもありがとうございます」
 春月は差し出された紙の束を受け取る。
「では」
 黒縁眼鏡の男は踵を返し、昇降機の方へと姿を消す。
「……あの人も、お医者さんなんですか」
「えぇ。尤も、あの方は法医学の専門家ですがね」
 春月は執務室の引き戸を開け、女を中へと入れる。
「適当に座っていて下さい、おそらく、誰も来ませんよ」
 壁際の作業台の前に立ち、春月は紙の束に目を通す。
 昨日の夕方、女を宿舎に送り届けた折り、嫌な予感がするから使いたくないと渡された化粧水の鑑定結果である。
 医務課を通じて鑑定に出した時には、瓶に記されている成分がはっきりしている為、何かが混入されて居ればすぐに分かるとの事だった。
 その結果は、女の予感の通り。化粧品には添加されない水酸化ナトリウムが検出されていた。
「……部屋の中の、他の化粧品に、同じ様な感覚は有りませんでしたか。ハンドソープやシャンプーも同様に」
 春月は振り返り、女を見る。
 女は俯きがちに首を振った。
「いえ……特に……何も出して無かったですし」
「そうですか……」
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