悪行の輪郭
文字数 2,281文字
春月は、今すぐにでも兼定を呼び出して対応を協議せねばならないと思いながらも、緊急の呼び出しがこの事態を悪化させる懸念を覚えていた。
結局、出来る事といえば兼定の連絡端末に着信履歴を残す事だけ。
今の彼には、怯えきった女を落ち着かせる術も、彼女を守る術も無い。弾丸の盾になるにも、ただ一発の身代わりになる事が出来る保証さえ無い。
そんな状況では、作業台の戸棚に残っていた干菓子を差し出したところで、気休めにすらならなかった。
「……今朝、何があったか、話して頂けますか」
春月は女の向かいで視線を逸らして問う。
女は俯いたまま、その静寂を確かめる様に人の気配の無い空間へ視線を向ける。
そして、震える様に息を吸って口を開いた。
「八時に……八時に、桜田さんは、迎えに来るって、昨日……でも、ノックされて、開けたら……銃を持った、怖い顔の、男の人が、立ってて……こっちに、向けたまま、紙袋を、投げて」
「紙袋?」
「すぐ、着替えろ、じゃなきゃ、殺す……そう、言って……ドアを、閉めて……でも、次に、開いたら……別の人……其処で、話をしてた人が」
「兼定君ですね……」
俯きがちに白板の方を見遣りながら、春月はおおよその見当を付ける。
午前八時、彼女の部屋を訪ねたのは桜田を名乗った背の高い女ではなく、拳銃と男物の背広一式の入った紙袋を持った男で、その男は彼女を脅迫し、男装を強いた。だが、男が再び扉を開けるよりも早く、朝礼を前倒しにした兼定が彼女を迎えに行き、此処に連れ出した、と。
そして、男装を強いた理由は、彼女の物として登録されている情報が男の物であるからだろう、と。
「……ところで、私はまだ、貴女の名前を聞いていませんでしたね……教えて下さい」
春月は顔を上げ、女の顔を見た。
女は少しだけ顔を上げ、その名を名乗る。
能面の如く表情を変えないはずの表情が、僅かに動いた。
「……身分証は、お持ちですか。免許証、いえ、保険証でも構いません」
女は再び顔を伏せ、持っていないという。
「しかし、何か持っては来ていますよね」
「部屋に、有りますけど……持ち出す余裕なんて……」
彼女の部屋に戻らねばならない。春月がそう考えた時、彼の連絡端末が着信を知らせた。
彼は立ち上がり、出入り口側へと近付きながら、着信を受ける。
――こちら兼定、なんか不備でもあったか?
通話口の向こうの兼定は、階段を下りて居るらしき様子だった。
「十三階の会議室に来て頂けますか。詳しい事は、こちらで」
――春さん?
「とにかく、こちらに来て下さい」
春月はそれだけ言って通話を切り上げる。
程なくして、怪訝な表情を浮かべた兼定が会議室の扉を開く。
春月は立ち上がると、兼定に歩み寄り、新人は女性で、登録されている情報と本人の証言が一致していない事、早朝、職員と思しき男に拳銃で脅迫され男装を強いられているらしい事、そして、彼女は事務職員の採用だと思い、此処に来た事を告げる。
話を聞かされる兼定の表情は瞬く間に険しくなり、その視線は怯えきって座る女へと向けられる。
「尋常じゃねぇな……」
「対応管補佐として配属された自覚も無い人間に研修など出来ませんし、現状、怯えきっていて話にもなりません。ひとまず、貴方の権限で今日の研修を休止として、今朝の一件の調査を訴えて下さい」
「分かった。まずは課長が捕まるかどうかだが……」
「それと、彼女の身分証は居室の方にあるとの事……一旦、宿舎に戻りたいのですが、同行願えますか」
「あぁ……」
兼定は僅かに目を伏せて頷いた。
春月は女の方に歩み寄り、一度宿舎に戻ると告げる。
女は怯えきったまま立ち上がり、春月の後に続く。
「さっきはすまなかった。道順は覚えてねえだろうから、俺に付いて来い」
女は意外な言葉に少し顔を上げるが、兼定はすぐに歩き出し、背の高いその歩幅に、彼女の足は忙しなく続く。
昇降機で地下まで降り、兼定を先頭に三人は女の居室を目指す。
春月は天井に視線を向けて監視カメラの位置を確かめ、連絡端末で電子錠の解錠記録を呼び出す準備をしながら歩いていた。
「此処だったな。開けてくれ」
兼定は振り返り、女に引き戸を開けるよう促す。
女は引き戸に手を掛けるが、施錠されており、扉は動かない。
「あれ……鍵、掛けた覚えなんて」
「おい、解錠方法もしらねぇのか?」
「え……」
女は困惑を隠しきれない表情で兼定に振り返る。
「読み取り機に認証ブレスを読ませるんだよ」
「え……」
女はますます困惑して、視線を彷徨わせる。
その様子に、兼定は眉を顰めた。
「まさか……これを受け取ってねぇのか?」
兼定は左手首に着けた腕輪状の端末を見せるが、女は兼定を見上げて首を振る。
見かねた春月は女の後ろから問い掛けた。
「……鍵の扱いについて、貴女を案内した桜田という人物から聞かされませんでしたか」
「カード……そう、カードキーが……でも……上着のポケットに……」
兼定は女の背広の衣嚢に手を伸ばそうとするが、春月の言葉がそれを遮った。
「最初に着替えたスーツですか?」
女は春月を見て頷いた。
「開けさせてもらうぞ」
兼定は、言って自身の認証端末で解錠し、引き戸を引いた。
そして、広がった光景に、女は小さな悲鳴を上げる。
「その場から動かないで、何処にも触らないで下さい」
春月は後ろから女の腕に手を掛け、兼定を見た。
鑑識を呼べと言わんばかりに。
結局、出来る事といえば兼定の連絡端末に着信履歴を残す事だけ。
今の彼には、怯えきった女を落ち着かせる術も、彼女を守る術も無い。弾丸の盾になるにも、ただ一発の身代わりになる事が出来る保証さえ無い。
そんな状況では、作業台の戸棚に残っていた干菓子を差し出したところで、気休めにすらならなかった。
「……今朝、何があったか、話して頂けますか」
春月は女の向かいで視線を逸らして問う。
女は俯いたまま、その静寂を確かめる様に人の気配の無い空間へ視線を向ける。
そして、震える様に息を吸って口を開いた。
「八時に……八時に、桜田さんは、迎えに来るって、昨日……でも、ノックされて、開けたら……銃を持った、怖い顔の、男の人が、立ってて……こっちに、向けたまま、紙袋を、投げて」
「紙袋?」
「すぐ、着替えろ、じゃなきゃ、殺す……そう、言って……ドアを、閉めて……でも、次に、開いたら……別の人……其処で、話をしてた人が」
「兼定君ですね……」
俯きがちに白板の方を見遣りながら、春月はおおよその見当を付ける。
午前八時、彼女の部屋を訪ねたのは桜田を名乗った背の高い女ではなく、拳銃と男物の背広一式の入った紙袋を持った男で、その男は彼女を脅迫し、男装を強いた。だが、男が再び扉を開けるよりも早く、朝礼を前倒しにした兼定が彼女を迎えに行き、此処に連れ出した、と。
そして、男装を強いた理由は、彼女の物として登録されている情報が男の物であるからだろう、と。
「……ところで、私はまだ、貴女の名前を聞いていませんでしたね……教えて下さい」
春月は顔を上げ、女の顔を見た。
女は少しだけ顔を上げ、その名を名乗る。
能面の如く表情を変えないはずの表情が、僅かに動いた。
「……身分証は、お持ちですか。免許証、いえ、保険証でも構いません」
女は再び顔を伏せ、持っていないという。
「しかし、何か持っては来ていますよね」
「部屋に、有りますけど……持ち出す余裕なんて……」
彼女の部屋に戻らねばならない。春月がそう考えた時、彼の連絡端末が着信を知らせた。
彼は立ち上がり、出入り口側へと近付きながら、着信を受ける。
――こちら兼定、なんか不備でもあったか?
通話口の向こうの兼定は、階段を下りて居るらしき様子だった。
「十三階の会議室に来て頂けますか。詳しい事は、こちらで」
――春さん?
「とにかく、こちらに来て下さい」
春月はそれだけ言って通話を切り上げる。
程なくして、怪訝な表情を浮かべた兼定が会議室の扉を開く。
春月は立ち上がると、兼定に歩み寄り、新人は女性で、登録されている情報と本人の証言が一致していない事、早朝、職員と思しき男に拳銃で脅迫され男装を強いられているらしい事、そして、彼女は事務職員の採用だと思い、此処に来た事を告げる。
話を聞かされる兼定の表情は瞬く間に険しくなり、その視線は怯えきって座る女へと向けられる。
「尋常じゃねぇな……」
「対応管補佐として配属された自覚も無い人間に研修など出来ませんし、現状、怯えきっていて話にもなりません。ひとまず、貴方の権限で今日の研修を休止として、今朝の一件の調査を訴えて下さい」
「分かった。まずは課長が捕まるかどうかだが……」
「それと、彼女の身分証は居室の方にあるとの事……一旦、宿舎に戻りたいのですが、同行願えますか」
「あぁ……」
兼定は僅かに目を伏せて頷いた。
春月は女の方に歩み寄り、一度宿舎に戻ると告げる。
女は怯えきったまま立ち上がり、春月の後に続く。
「さっきはすまなかった。道順は覚えてねえだろうから、俺に付いて来い」
女は意外な言葉に少し顔を上げるが、兼定はすぐに歩き出し、背の高いその歩幅に、彼女の足は忙しなく続く。
昇降機で地下まで降り、兼定を先頭に三人は女の居室を目指す。
春月は天井に視線を向けて監視カメラの位置を確かめ、連絡端末で電子錠の解錠記録を呼び出す準備をしながら歩いていた。
「此処だったな。開けてくれ」
兼定は振り返り、女に引き戸を開けるよう促す。
女は引き戸に手を掛けるが、施錠されており、扉は動かない。
「あれ……鍵、掛けた覚えなんて」
「おい、解錠方法もしらねぇのか?」
「え……」
女は困惑を隠しきれない表情で兼定に振り返る。
「読み取り機に認証ブレスを読ませるんだよ」
「え……」
女はますます困惑して、視線を彷徨わせる。
その様子に、兼定は眉を顰めた。
「まさか……これを受け取ってねぇのか?」
兼定は左手首に着けた腕輪状の端末を見せるが、女は兼定を見上げて首を振る。
見かねた春月は女の後ろから問い掛けた。
「……鍵の扱いについて、貴女を案内した桜田という人物から聞かされませんでしたか」
「カード……そう、カードキーが……でも……上着のポケットに……」
兼定は女の背広の衣嚢に手を伸ばそうとするが、春月の言葉がそれを遮った。
「最初に着替えたスーツですか?」
女は春月を見て頷いた。
「開けさせてもらうぞ」
兼定は、言って自身の認証端末で解錠し、引き戸を引いた。
そして、広がった光景に、女は小さな悲鳴を上げる。
「その場から動かないで、何処にも触らないで下さい」
春月は後ろから女の腕に手を掛け、兼定を見た。
鑑識を呼べと言わんばかりに。