悪夢のはじまり

文字数 3,078文字

 制限はあったが、その分、その端末機(タブレット)には必要とされる情報が揃っている様に見えた。
 しかし、その情報を理解するだけの余地が、その手元には無かった。
 焦燥に駆られ指先が握るネクタイは、不格好な輪を描いてはおかしな結び目をつくるばかりで、手元を確認しようと足掻けども、箪笥の上の手鏡が写すのはその手の甲ばかり。
 解こうとすれども、首を絞める格好になるだけで、指先はますます出鱈目に動くだけ。
「おい、新入り!」
 言うが早いか、引き戸が開けられ、怒号が注ぎ込まれる。
「悪いが、急用で朝礼が……」
 箪笥の前の人影は、その怒号に縮みあがり、引き戸から少しでも離れようと後ずさりした。
 しかし、小さな机がふくらはぎを阻み、その足を止めてしまう。
「だ、誰ですか!」
 恐怖に震える甲高い悲鳴が上がる。
「誰って、お前の上司だよ。だいたい、何回も読んでるのに返事しねぇお前が悪いんだろうが!」
 怒号の主は室内に入り、立ち竦む人影に近づく。
「って、お前、いい歳してネクタイも結べねぇのかよ!」
 苛立ちを露わにしながら、怒号の主は首元で絡み合うネクタイを掴む。
 その途端、頭蓋骨を割らんばかりの悲鳴が彼に直撃した。
「あぁ、いちいち喧しいんだよ!」
 その悲鳴に抵抗せんばかりに彼は声を張り上げながら、そのネクタイを解き、適当に整える。
「こっちは忙しいんだ、さっさと来い」
 彼は足元の机に投げ出されている上着を拾い上げると、立ちすくむ人影の腕を掴んだ。
「何するの!」
 悲鳴の主は振りほどこうとするが、それに構わず彼は部屋からその体を引きずりだした。
「全く、三十も過ぎてこのザマとは、呆れたもんだ」
「いや、やめてっ!」
 彼はなおも抵抗する腕を更に力強く掴み、呼び出した昇降機(エレベーター)が到着するのを待つ。
 そして、扉が開くと同時にその体を奥に放り込み、行き先を指定する。
 上層部は何を考えて、こんなポンコツを採用したのかと呆れながら。

 昇降機が十三階で扉を開けると、男はその人影の腕を引っ張りながら白い廊下を進み、会議室へと向かう。
 昇降機の狭い空間で睨みつけられていた人影は抵抗する事を諦め、なすがままに引き摺られていた。
 二人が入ったのは、黒い背中が並ぶ白い会議室。
 男はその人影を白板(ホワイトボード)の前に引き摺り出し、声を上げた。
「始業前からすまないな。早速だが、本日付で対応管補佐が一名仮配属となった。研修に関しては
一般に任されている。気になった事があれば北海(きたみ)班長に尋ねてくれ。それじゃあ、本題に入る」
 小さな人影は肩を小突かれるまま、部屋の隅に追いやられ、その人影を気にする者は居なかった。
 ただ一人を除いては。
(ヘンだなぁ、こんな時期に、しかも、女の子なんて……)
 黒い人影から浮いている、薄茶色の背中は、部屋の隅に追いやられた人影を眺めていた。
(こりゃ、あの人達が居たら大変な事になってたね)
 今は、その黄金色の瞳の他に、その人影を見る者は無かった。ただ、平時で有れば今朝の空席に座っているだろう何人かがその場に居たなら、白板の前の男は香も淡々と連絡事項を述べては居られなかっただろう。
 薄茶色の背中の主がそんな事を考えて居ると、鋭い瞳が向けられる。
「おい、花房(はなぶさ)、ちゃんと聞いてるか?」
「勿論、ちゃんと聞いてますよ」
 悪びれもせず、薄茶色の背中の主はそう答え、白板の前の男は小さく溜息を吐き、話を続ける。
「以上だ。二班は引き続き執務室に待機してくれ。定刻からの朝礼を樫山班長に一任している。一班……花房と黒金(くろがね)は一班の業務の補填に当たってくれ」
 白板の前に立っていた男は、足早に会議室を出ようとする。
 部屋の隅に立ち尽くしていた人影は、立ち去ろうとするその背を呼び止めようとするが、彼はそれに気付く素振りさえ無く去って行った。
 そして、その背中に続く様に、黒い背中もまた白い会議室を去っていく。

 人が流れるのを待っていた紫色の髪の主も立ち上がり、花房の後ろを通り過ぎようとする。
「ねぇ」
 腰掛けたまま、上を向いた黄金色の瞳は、ぼやけた黒い影を見上げる。
「なんだ」
「んー、まずは、おはよう、かな。久しぶりに顔見た気がするから、久しぶり、も」
 立ち止まる紫色の髪の主は小さな溜息を吐きながら、白い壁に凭れ掛る。
 花房は立ち上がるとその隣に立って、前方で途方に暮れる人影を見遣る。
「ところでさ、あの子の事、何か聞いてる?」
「いや、初耳だ」
「君も初耳ねぇ……」
 黄金色の瞳は怪訝(けげん)そうに、赤みの強い紫色の瞳を見遣る。
「そもそも、俺は昨日の昼まで神戸に居た。帰ってきたのは夜遅くで、その間係長や副長と顔を合わせてはいないし、報告書の受領以外返信も無い」
「ふーん……」
 黄金色の瞳は、再び小さな人影を見遣り、隣の男に思念(テレパシー)で問い掛ける。
(あれ、女の子みたいだけど、君にはどう見える?)
 思念を受け、男は赤紫色の瞳を人影に向ける。
(確かに、身形(みなり)は男だが、やはり、女か)
(あれ? 気付かなかったの?)
 黄金色の瞳は意外そうに紫色の髪の男を見る。
(男だとは思っていなかった。だが、確信が持てなかった)
 人影から逸れた赤紫色の瞳は、腑に落ちぬ何かを抱いている様に俯く。
(どういう事?)
(自分でも分からん。化粧をしている風で妙には思ったのだが……何か、邪魔をされている様な感覚があった)
 黄金色の瞳は今一度人影を見る。
(そんなに強い力がある風には感じないんだけどなぁ)

 黄金色の瞳が考えあぐねて宙を見た時、後方の扉が開かれる。
 二人の男はその方向を見遣った。
「あ、春さん」
 入ってきたのは、あまり背の高くない眼鏡を掛けた男。
「おはようございます、北海班長」
 紫色の髪の男はその男に向き直り、小さく頭を下げる。
「おはようございます。というか、なんで春さん居なかったんですか?」
 同じくそちらを向いた花房は、小さく首を傾げた。
「病院に来るよう言われていたんですよ。まさか、兼定君が始業前から朝礼をするとは思っていませんでしたからね」
「そうですか……ところで、春さんは聞いてますよね、あの子の事」
「上の意向で、急に採用された方がいらっしゃるとは聞いていますが……それより、黒金くん、油を売っていては、二班の朝礼が始まってしまいますよ。代理人は貴方しか居ないのですからね」
 はぐらかす様に、男は黒金へと言葉を向ける。
 黒金は前方の時計を見遣り、一礼して足早に会議室を後にする。
 小さな人影の前を通り過ぎながら、やはり、妙な力を感じて。
「花房君も、電話番とはいえ、興里(おきさと)さんが居ない間は、責任を持って頂かないと」
「はーい」
 子供の様に返しながら、花房は部屋の隅の人影を見遣りつつ、会議室を後にする。

 不気味なほど静まり返った白い室内に、小さな足音が響く。
「貴方が仮配属の対応管補佐ですね」
 口調は穏やかだった。しかし、言葉には一切の感情が無かった。
「わ、私……」
 人影は怯えきった目を向けたまま、後ずさりする。
 その声に、態度に、男の目つきは鋭く、瞳の色は鈍く変わった時、壁に背を阻まれた人影は、震える様に息を吸い、声を絞り出す。
「何の為に……此処に、居るんですか」
 男が目を丸くした時、その人影は、崩れ落ちた。
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