真昼の満月

文字数 2,636文字

 診察室の隣、医務係の執務室とは名ばかりの物置き部屋で、春月は女が脱ぎ捨てた背広の製造番号を確かめていた。支給品であれば、専用の検索機構を通して納入経路が特定出来る。
 連絡端末(スマートフォン)を通して表示された情報によれば、それは総務部から公安部特対課の総務部門である総合係に納入され、監察係が受け取った物だった。
 しかし、警視庁公安部特対課観察係という閉鎖された部署と、女を此処に斡旋した地方公務員の犬山の接点は判然とせず、仮に犬山と宮内庁長官の鮫島との間に接点があったとしても、接点を見出せない。
 春月は顔を上げ、腰掛けた女を見遣る。
 測定した握力に反し、彼女は福利厚生の範囲内で“処方”として出されたゼリー飲料の蓋を開けていた。だが、それを吸い込むという動作に難儀しているのか、押し出した分を口に含んでいる様だった。そして、それだけでは無く、一息に飲み下せていない様子だった。
 彼は眉を顰め、目を伏せた。
 本来なら、そうすべきではない。だが、口実になるのはこれしかない。そんな思案を巡らせ、顔を上げる。
「浅葱さん」
 少しの間を置いて、女は首を傾げる様に春月を見た。
「……今日は、そのまま過ごして構いませんよ」
 女は目を瞬いた。
「元々、今日は着替えて頂かねばなりませんでしたし」
 女は再び目を瞬く。
「それはそうと、ひとつお聞きしてよろしいですか」
 不安げに眉を寄せながら女は、なんですか、と、返す
「貴女の医療記録について、こちらで検索する事に許可を頂けますか」
「え……」
「予防接種の記録も分からないですし、かかりつけの医院を教えて頂ければ、そこから情報を閲覧させて頂きます……勿論、非正規の方法での閲覧になりますが……その許可を頂けますか」
「でも、どうして……」
「どうやっても、エラーになってしまって、あなたの情報が正規の手段では閲覧出来なくなっています……これはこれとして問題なのですが、麻疹や風疹の免疫があるか無いかが確認出来ない事もまた、問題なので」
 女は少しばかり俯いて思案した後、分かりました、と、返す。そして、自宅近くに開業している医院の名を告げた。
「申し訳ありません。それと、重ねて申し訳の無い事ですが、実は、会って頂きたい方が居ます」
 顔を上げ、女は春月を見た。だが、彼はその人物が何者かとは語らず、退室を促した。
「先方に無理を言っていますので、付いてきて下さい」
 執務室の隅に積まれた段ボール箱の方に、脱ぎ捨てられた背広一式を(ほう)り、彼は部屋を出る。

 春月は昇降機を呼び、九十三階へと向かわせた。
「一階分は階段でしか上がれませんから、辛抱して下さい」
 宿舎の入り口となっている無機質な広間を背に、薄暗い階段へと進む。
 その先にあったのは、僅かな足元灯だけが光る異質な空間。
 窓は遮光幕に塞がれ、足元灯の他に明かりは無い。歩けば、淀んだ空気が生温く纏わり付く。
「此処は……」
「縁起が悪いとして、普段は使われていないフロアです……尤も、この奥の広間は、時々使うのですが」
 女は不安と疑念が入り混じった表情を浮かべ、薄く照らされた春月の背中を見遣る。
「電気、点けられないんですか」
「生憎、電灯は外されていましてね。此処に来るのは、十三係の職員くらいですから」
 廃虚の如き静けさの中を進むと、引き戸に行き当たる。
 扉に取り付けられた感知器は、近付けられた春月の左手首の認証端末を読み取り、鍵の開く乾いた音だけを返す。
 静かに開かれた扉の向こうに広がっていたのは、赤みを帯びた光に照らされた、板張りの大広間。
 見上げると、照明に使われているのは、無数の白熱球。電灯は外されており、白熱球は別の回路から後付けされた物の様だった。
「おはようございます、若先生」
 春月の言葉に、こちらを見つめていた人物は微笑んで会釈を返した。
「お久しぶりです、春月さん」
 その人物はゆっくりと二人の方へと歩み寄る。
「詳しい事は、兼定さんから伺っています」
 事の外小柄な、黒い和服姿の人物は微笑みを浮かべたまま語る。
「無理をお願いして、申し訳ありません」
「気になさらないで下さい。この時期、平日の昼間は空いていますから。それに、外に出られる機会があるのは、ありがたいです」
 春月はその表情をにわかに曇らせながら口を開いた。
「では、お言葉に甘えさせて頂きます……時間になったら、また来ます。それまで、彼の事を、よろしくお願いします」
 そう言って、春月は踵を返した。
 女は困惑気味にその背中を見遣るが、不意に向けられた言葉に視線を迷わせた。
「どうぞ、履物を脱いで、こちらに来て下さい」
 黒い和服の人影は、微笑みを浮かべたまま、女を見つめていた。
 女は困惑を覚えながらも、目の前の人物に害意は無いだろうと、土間になっているタイル張りの床で靴を脱ぐ。

 板張りの広間に進み、女は口を開こうとした。
 だが、それを見透かして居たかの様に、黒い和服の人物は微笑みを浮かべたまま口を開いた。
「はじめまして、浅葱さん……私は、新大和(やまと)旭日(きょくじつ)貫誠館(かんせいかん)道場の師範代、石田雪那(せつな)と申します。あなたの事は、兼定副係長から伺っております……それはそうと、足袋の準備が出来て居なかった様ですね……予備を一足持っていますから、差し上げます」
「え、あの」
 一方的に進められる会話を止めようと、女は口を開く。だが、石田はそれを気に留めようとしない。
「足袋だけは個人持ちになりがちですから、急な事だと準備が間に合わないのも無理はありませんよ」
 言いながら、石田は部屋の隅にまとめた自分の荷物へと向かう。そして、まだ新しい足袋を一足持って、女の前へと戻った。
「これは差し上げますので、お持ちになっていて下さい」
「で、ですけど」
「このくらいは指導の範囲ですから。それに、大きさも、そこまで大きくは無いでしょうから、丁度いいはずですよ」
 女は表情を引き攣らせ、差し出された足袋を受け取ろうとはしない。
 想像が付いていたのだ。何故、此処に居るのかという事の。
「でも……私、刀なんて触った事も無いですけど……」
「大丈夫ですよ、今日は色々と見て頂きたいだけですから」
 面の如く動かない微笑みに強い違和感を覚えながら、女は足袋を受け取った。
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