不確かな証拠

文字数 2,142文字

 医務係の執務室に呼ばれた春月が目にしたのは、矢状断面のCT写真だった。
「結論から言って、脳幹に若干の委縮が見られます」
 池田はボールペンの先で脳幹と小脳の間の隙間を示す。
「最初に疑ったのは小脳の委縮でしたが……結果はこれでした」
「この結果で、筋力の低さの説明は」
「難しいですね。この部位に障害があれば、構音障害、言葉を音として出す事の障害が生じているでしょうが、その様な兆候は有りませんでした。その場で出来る筋肉の抵抗を見る検査でも、こちらの力に対し十分に抵抗出来ていましたし、血液検査の所見からも、筋肉に病変がある様には有りません。ただ……」
 池田は画面の写真を閉じ、春月に向き直る。
「難産だった、と」
 春月は目を(みは)る。
「病歴の聴取をしたところ、詳しい事は分からないが、難産だったとは聞いた事があると……」
「トリーテッド……ですか」
 頷く池田に、春月は眉を顰めた。
「確かに、自家幹細胞治療は能力を増幅させる傾向にありますが……しかし、あの身体では、到底此処での仕事など務まらないでしょう。仮令(たとえ)強い力があったとして、それが悪用出来る程運動能力がある様にも思えませんね……」
 池田は深い溜息を吐く。
「ともあれ、筋力低下の原因ははっきりしませんが、脳幹に委縮が生じている時点で正常とは診断出来ませんし、これから脳波の測定をします。入眠する前後の脳波の測定は出来ないかも知れませんが、平時に異常があれば即刻研修中止を申し入れます」
 池田は立ち上がる。
「試験室のコントロールルームで待っていて下さい。ちょっと時間は掛りますが」

 白い護謨(ゴム)の様な柔らかい壁に囲まれた部屋の中、看護師の菊地は慣れた様子で脳波検査の準備をしていた。
「接着剤は速乾性の澱粉(でんぷん)みたいな物だから、後で少し湿らせてから取るわね」
 電極の貼り付けを終え、菊地は女に横になる様にという。
「準備は整いましたか?」
「あとこれだけです」
 池田が入ってきたところで、菊地は女の左手を取った。
「それじゃ、体の力を抜いて、眠たくなったらそのまま少し寝ていいからね」
 菊地は女の手首から認証端末を外し、観察室へと向かう。
 女は目を丸くして菊地の後ろ姿を見ていた。
「電子機器は脳の電気活動の記録の邪魔になりますし、医務係の監視下は治外法権ですよ」
 池田は穏やかに言いながら、用意された寝台の傍らの椅子に座る。
「まず、少し明かりを落としますから、暫く横になったままで居て下さい。眠気があればそのまま眠って頂いて構いません。眠ってしまっても睡眠中の脳波が取れれば起しに来ますから大丈夫ですよ。その後で、点滅する光を見てもらって、その間の脳波を記録します。まず、閾値(いきち)の確認をするので、記録を始めますね」
 脳波計の電源を入れ、波形を確認した池田は首を傾げた。
 特殊能力者の脳波は、正常でも特殊能力を持たない人間と比べれば振幅が大きく、閾値を上げて測定するが、外見から明らかに変異体能力者と分かるにもかかわらず、女の脳波の振幅は至って小さかったのだ。
 池田は内心首を傾げながら、記録が出来る範囲まで閾値を下げ、測定を開始する。

 池田の予想に反し、灯りを落として暫くの間に女は眠りに落ちた。
 十数分して起し、光の点滅の影響を調べもしたが、異常を示す脳波は認められなかった。
 ただ、特殊能力者にしては活動が微弱過ぎる事が気に(かか)っていた。
「電極が取れず、気分は良くないかもしれませんが、もう少しだけ辛抱して下さい。制御親和性の検査……制御装置の影響を、どれくらい受けるのかという検査をしますから」
 池田は女を寝台に腰掛けさせ、身振りで観察室の菊地に特殊能力の電気活動を妨害する電磁波を発生させるよう指示を出す。
 ――レベル一、単一能力者汎用制御を開始します。
 合成された案内音声が流れ、電磁波が発生する。池田は微かな不快感を感じるが、女の様子に変化はなかった。
 ――レベル四、変異能力者汎用制御を開始します。
 池田の心身に妙な落ち着きのなさをもたらす電磁波が発生した瞬間、座っていた女は崩れ落ちる様に床へ倒れ込む。
「危ないっ」
 電磁波の影響を吹き飛ばす程の勢いで、池田は女の体を抱え、寝台に横たわらせる。
 女の上体が倒れた時点で菊地は電磁波を止め、観察室の外に駆け出していた。
「大丈夫ですか」
「え……あ、あの……今、何が……」
「アナウンスされた通り、能力妨害用の電磁波が発生したんですよ」
 寝台に横たわる女は、不思議そうにあたりを見回す。
「何処か、違和感がありますか」
「い、いえ……ただ……急に体の力が抜けちゃって……」
 女はゆっくりと身を起す。
「なんだか頭がふわっとした……そう、低気圧の時に眩暈(めまい)を起こす様な、そんな感じがして……」
「そう、ですか……」
 池田は駆け寄ってきた菊地に視線を向け、再び女を見た。
「診察室で少し休んでから戻って下さい。菊地さん、頼みましたよ」
 池田に視線を向けられた菊地は、薄い笑みを浮かべ、電極を取りましょうかと言い、機材を置いた台車に手を伸ばした。
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