祈りの残骸

文字数 3,281文字

 午前九時になる頃、迎えに着た春月につき従うまま、女は九十四階へと向かった。
 女の靴はさして音を立てる事無く、足元灯に浮かぶ白い背中を追い掛ける。
「おはようございます」
 扉が開くと共に、薄い笑みを浮かべて会釈したのは石田だった。
「休日にも、わざわざ申し訳ありません」
「いえ……それより、お話したい事が」
 石田は静かにタイルの床へと進み、草履に足を入れる。
 春月は事情を察し、女を先に広間へと進ませ扉を閉めた。
「お話は、黒金さんから、お聞きかと思いますが……実は、お話したい事が」
「あの風呂敷包みについては、本人から聞きましたが」
「昨日のお稽古の事で、黒金さんには、お伝えしていない事が有ります」
 春月は眉を顰め、笑みの失せた顔を見る。
「実は……あの方、昨日、二、三度、お見せしただけで、抜刀されました」
 春月は目を瞠った。
「どうやら、刀を扱う方を、間近で見た経験が有る様でしたが……実際に手にしたのは、昨日が初めての様で……もしかしたら、(わたくし)と同じ様に、見様見真似が、ただ見ているだけでは無い方なのかもしれません」
「つまり……念力透視……動きを無意識に透視して、念力で再現する様な事が出来る、と」
「はい」
 扉に視線を向け、春月は眉間の皺を深くする。
「それでは……今日のお稽古は、何を」
「経験は無い方ですから、今日は構え方を実践して頂こうかと」
「そうですか……ところで、今日、道場の方を空けても、問題は無かったのでしょうか」
「それでしたら、心配は無用です。週末には伊佐美(いさみ)さんが居られますから」
「そうですか。でしたら……明日もまた、お願いします。私は仕事が有りますので、これで」
 春月は会釈し、踵を返す。
「あの……」
 春月がその場を離れて暫く、女は広間の扉を開けた。
 石田は薄い笑みを浮かべて振り返り、それでは始めましょうか、と、言った。

 石田は前日と同じ様に抜刀を教えた後、刃引きした刀よりは幾分か軽い木刀を持たせ、その動かし方を教えた。そして、その終わりに女を見遣った。
「腕の力が無ければ、遠慮せず、念力に頼って下さいね」
「え……」
「私も、腕の力は、あまり有りません。しかし、念力を使って刀を支え、打ち下ろした先に力を掛ければ、腕力だけで振るうのと同じ様に扱えますから」
 女は目を丸くして石田を見つめた。
「当流派は、変異体の入門を断らず、超能力……今で言うところの特殊能力を使う事を禁じませんし、此処で学ぶ方々には、同じ事をお伝えしています」
「それは、そう、でしょうけど……」
「何か、疑問が有りますか?」
「い、いえ……おじさま……と言っても、母のいとこに当たる方なので、いとこおじになる方なのですが……その人と、同じ事を仰ったので……」
「御親戚に、剣術を嗜まれている方が居られるのですか?」
「はい、おじさまは道場を持っていて……親戚のお兄さんも、そこで習っていましたから」
「それで、刀の扱いを」
「眺めいただけ、ですけれど」
 女は目を伏せる。
「しかし、道場をお持ちという事は、おじさまはとてもお上手な」
「あ、いえ。あの、私が見たのは、親戚のお兄さんの方で……勿論、その人も、跡取りに指名されるくらいですけど……」
「いずれにせよ、とてもいいお手本を、既にご存じだったのですね」
 石田は薄い笑みを張り付けた表情のまま、慌てて顔を上げる女を見つめていた。そして、足の先までよく見ていて下さいと言って、実演を続けた。

 時刻が午前十一時に差し掛かる頃、休憩にしましょうと言って石田は広間の奥に向かう。
 湯沸かし器や飲用水の置かれた小さな棚を見ると、紙コップや茶葉が補充されていた。それも、随分と可愛らしい柄の紙コップに、洒落た個包装の茶葉が。
 壁際に困惑した様子で座ったままの女を背に、石田は湯沸かし器を用意し、何の変哲もない紙コップと花柄の紙コップを手に取った。
 女が壁際から奥に広がる異質な空間を眺めていると、石田は熱い茶の入ったコップを手に彼女へと近づいた。
「あ、ありがとうございます……」
 遠慮がちにコップを受け取りながらも、女の意識はその異質な空間に向いていた。
「やはり、気になりますよね」
 女の傍らに腰を下ろしながら、石田もまた、そう言ってその異質な空間を見遣る。
 広がっているのは、無数の仏像がひしめき合う様に並んだ空間。
 多くはあまり大きさの無い観音菩薩や地蔵菩薩らしいが、いかめしい不動明王や、重厚な如来も並んでいる。
「……でも、どうして」
「おそらく……救いを求めながら、救われず、行き場を失くした仏像が、此処に納められているのでしょう」
「それって……」
「此処に居られる方々は、各地から集まった方々ですから、仏像を託す縁は無く、施設に戻される時、あるいは……此処を去った時、それを残したままで、片付けた方も処分に困り、不吉だからと封じられた此処に置いたのでしょう」
 女は目を瞠り、石田を見遣った。
「外に出られると希望を抱きながらも、この世界の理不尽を目の当たりにすれば絶望もするでしょうし、人を傷つけ、時に殺める仕事ですから、神も仏も無いと思っていたとしても、心の平穏を求められたのでしょう」
「でも、此処から、去るって……」
 女は声を震わせた。
「毎年、大勢の罪無き罪人達が対応管補佐として採用されます。しかしながら、それだけ多くの方が、この世界の不条理に耐えかねて此処を去り、少なからぬ方々が理不尽に命を絶たれています。誇りを持って殉職を遂げる方は、殆ど居られません」
 女の唇は僅かに開く。だが、声にする言葉が、彼女には見つからなかった。
「それに……」
 石田はその視線を、無数の、小さな地蔵菩薩の並ぶ一角へと向けた。
「此処に来る為に、僅かな自由を得る為に、もうひとつの命を殺めた女性も居られるでしょうし、此処で出世を果たす為に……この先授かったかもしれない未来を、諦めた女性は、多いと聞きます」
「え……」
 穏やかな丸い地蔵菩薩から、女の視線が石田へと動く。
「除去療法を、ご存じですか」
 女は無言で頷き、誰に言うでも無く口を開いた。
「確か、除去療法には血液脳関門を突破するテモゾロミドや、それに近い薬品がが使われて……脳内のエスペランサ・アースを殺すんですよね……ただ、テモゾロミドみたいな薬には、生殖毒性が有って……でも、確かに子供は望めなくなりますけど……お腹の子を堕ろしたわけでもないのに、同じ様に思うものなのでしょうか」
「表には出ない事でしょうけど……懐胎に至る女性は毎月の様に居られると聞き及びます。そして……妊娠すれば、少なくとも施設には戻らずに済みます。保護施設という名の隔離施設はあるにせよ、塀の向こうの様に隔絶された施設でもありませんから……懐胎が分かった女性は、喜ぶとも聞きました」
「……でも、除去療法を受けた人達は、その事は分かっていたでしょうし、此処で出世する為にそうしたんですよね?」
「人の心というのは、身勝手な物ですから、突然に、後悔する事もあるのでしょう」

 石田は、少し覚めた茶に口を付ける。
 続く言葉の無くなった女もまたそれに口を付け、首を傾げた。
「……フレーバーティーか何かですか? なんとなく、林檎みたいな香りがします」
「そういえば、カモミール入りと、袋にあった様な気がします」
「カモミール……あぁ、確かに」
 女は作業台を兼ねた小さな棚に視線を向ける。
「でも、誰が買ってきてくれたんですかね、こんなお洒落な物……」
「北海さんでしょうか。細かい部分の手入れは、彼がしているそうですから」
 女は目を瞬き、石田を見遣る。だが、石田は特に気にする風も無く、視線を宙に彷徨わせていた。
 再びその棚を見遣りながら、女は考えた。
 もし、この部屋が捨てられた場所だと言うのなら、此処に来る人間は、捨てられた物なのか、広いに来た者なのか、と。
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