無情な風

文字数 2,084文字

「浅葱さーん、医務の菊地でーす……寝てるかな」
 医務係の看護師、菊地は首を傾げ、左手の端末で職権解錠をする。
「入りますよー」
 菊地は扉を開け、中の様子を伺った。だが、扉の向こう側にある寝台に、女の姿は無かった。
 部屋の奥に進むと、浴室の方から機械音がしていた。
「あー……」
 程無くして音は止み、浴室の扉が開く。
「あ……」
「おはよう。昨日の事が有ったから、様子見に来たんだけど……大丈夫そうね」
「あ、はい、おかげさまで……」
 涼しげな丸いゼリービーンズ柄の浴衣姿を見て、菊地は笑う。
「面白い柄ね、その浴衣」
「え、あ……まぁ……」
「とはいえ……何処か痛いとか、急に脈が速くなったりとか、そういうのがあったら、無理しちゃ駄目よ。今日は池田先生も良川先生もお休みで、法医学の藪坂先生しか来ないから、おかしいって思ったらすぐに医務室に来てね。私は一日居る予定だから」
「は、はい……ありがとう、ございます」
「それじゃ、お邪魔しました」
 菊地は笑みを残して部屋の扉を開けた。

 時刻は午前九時。女は寝台の上に腰掛け、濡れた認証端末を拭ったハンカチを(もてあそ)んで居た。
 池田の見立てでは、昨日生じたあの不整脈は能力の暴走の一種だろうとの事だった。
 事実、保冷剤で頭を冷やして横になっていると、胸の奥で心臓が疼く様な動悸は治まった。
「浅葱、起きてるか」
 扉を叩きながら発せられた声に、女は扉へと駆け寄る。そして、扉を僅かに開き、不思議そうに兼定を見た。
「遅くなってすまない。春さんは別件で外出だ」
 女は僅かに眉を顰めながらは、はぁ、と、だけ言った。
「今日も貫誠館道場の師範代が来てる。稽古着に着替えて出て来い」
 女は同じ様に生返事を返し、扉を閉め切った。
 程無くして女は稽古着姿で部屋を出て、兼定の前に立った。
「若先生には事情を説明してある。無理に動く必要は無い……行くぞ」
 踵を返した兼定の後を、女は足早に追い掛ける。
 兼定が呼んだ昇降機の籠は九十三階へと直行し、彼もまた、春月と同じ様に階段を辿って九十四階の広間へと向かう。
 女は歩幅の差を顧みない兼定に多少の苛立ちを覚えながら、稽古着に不釣り合いな革靴の底を鳴らす。そうしていると、濃紺の背広の後ろ姿は暗い廊下に消え、一瞬、女の目から兼定の姿が消えた。
「あれ……」
 兼定は女の小さな呟きに気付かぬまま、彼女を置き去りにして扉に左手を掛けた。
「おはようございます、若先生」
「おはようございます、副係長」
 黒い和服姿の人物は、前日と同じ様に赤い光に照らされながら佇み、扉を開けた兼定に会釈を返す。
 兼定は女に挨拶を促そうとするが、その後ろに女の姿は無い。
「何ぼけっとしてんだよ!」
 兼定の怒号に、女は恨めしげな視線を向けた。
「さっさと来い」
 女が手の届く範囲まで近づいたところで、兼定はその腕を掴んで自分の前に引っ張り出し、軽く背中を小突いた。
 女は頭を下げると同時に眉を顰め、何事も無かったかの様に挨拶を述べる。
「昨日の今日で体調を崩してるんで、あまり無理はさせないで下さい」
「えぇ、勿論です」
「時間が来たら花房が来るので、引き渡して下さい」
「承知しました」
 石田は穏やかな笑みを返し、去ってゆく兼定の背を見遣る。

 女は扉が閉まり切り、その足音の気配が遠のいてもなお、佇んでいた。
「……私は事情を詳しく知りませんが……貴女が、此処に似つかわしく無い人である事くらい、分かっているのに……兼定さんは、いつも通りのふりをして……貴女を傷つけて……酷い人ですね」
 言いながら、石田は女の前に歩み寄った。
 女はそんな石田を呆然と見つめる事しか出来なかった。
「お身体の具合は、悪くありませんか?」
 首を傾げる石田を前に、女は小さく頷いた。
「能力の……暴走じゃないかと……なので、何処かが、悪いわけでは、無いので……」
「そう、ですか……奥に、いらしてください」
 促されるまま女は靴を脱ぎ、板間に上がる。
 石田は彼女を先導する様に、荷物を置いた壁際へと進み、何かを手に取った。
「その稽古着は、丈が合っていない様でしたので……私の持ち物ではありますが、少しばかり、丈を詰めてきました」
 女は首を傾げ、石田を見つめた。
「和服の着付けをご存知でしたら、こちらをお召しになって下さい」
 石田は畳まれた和服一式を女に差し出した。
「あ、あの……別に、ちょっとくらい、丈が合わないくらいは」
「帯の位置が悪いと、刀の抜き差しの稽古に差し障りが有ります」
「でも」
「それとも……和服の着付けは、ご存じないのでしょうか」
「いえ、そんな事は無いんですけど」
「でしたら、このままお着替えになって下さい。外で、待っていますから」
 石田は半ば強引にそれを女へと渡し、裏口に相当する南側の扉から外へと出てしまう。
 女は、複雑な面持ちでその一式を見下ろした。
 出来る事なら、着替えたくは無かった。
 それを作ったのは、父親なのだから。
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