薄暮の先

文字数 1,665文字

 午前八時半を回る頃、春月は朝礼が行われている会議室ではなく、地下の宿舎に向かっていた。そして、女の居室となっている部屋の扉を叩き、声を掛けた。
「北海です、開けますよ」
 扉を開けると、寝台の上に座る女の姿があった。
「痛みは治まりましたか」
「はい……その、ご心配を」
「貴女に落ち度は有りません」
 鋭く言葉を遮って、春月は女から視線を逸らす。そして、机の上の錠剤には手が付けられていない事に気付く。
「……飲み薬の方は、飲んでいないんですね」
「今は……大丈夫ですし、次を飲むまでの間隔が長いので……」
 女は伏し目がちに呟く。
 春月は眉を顰め、少しばかり思案して言った。
「もう暫く、部屋に居て下さい。迎えに来ます」

 部屋を出た春月は再び十三階へと戻る。
 廊下に誰の気配も無い事を確かめると、北側の昇降機から最も離れた更衣室へと足早に進む。
 扉越しに人の気配を感じなかった事に安堵しながら、彼は奥へと進んだ。そして、物置となっている金属製の棚の前に腰を下ろした。
 下段に積まれているのは、まだ開封されていない剣術用の稽古着。大きさを確かめるべく、彼は数枚を持ち上げる。貸し出す相手は体力にも腕力にも覚えのある男ばかりで、比較的小柄な彼よりも、更に小さな女に着せるのに丁度良い大きさの稽古着は、日頃使われていない。ただ、設立時点で彼よりも小柄な係員が一人だけ居た。
 彼は埃に汚れた梱包を引き出し、上衣と袴の大きさを検める。女の身長に対してはやや大きい物であったが、花房が持ち出した物よりは、袴が幾分か小さめだった。
 朝礼に出て居ない状況が他者の目に留まる前にと、彼は梱包されたままの稽古着を手に立ち上がる。そして、人気の無い廊下を足早に進むと昇降機を呼び、二十一階へと向かった。
 向かった医務係の診察室には既に人が居る様子で、春月は扉を叩く。
「どなたですか?」
「北海です、よろしいですか」
「どうぞ」
 診察室の準備を整えていた池田は、まだ封の切られていない稽古着を持つ春月を見て首を傾げた。
「ひとつ、無理なお願いを聞いて頂けますか」
「まさか、浅葱さんの能力検査をしたいと?」
「えぇ」
 予想が的中し、池田は眉を顰めた。
「あんな事があった直後ですよ?」
「しかし、あれから痛み止めを飲んでは居ない様ですし、こちらとしても、彼女の事を知らなければなりません……何が彼女をあそこまで追いつめているのか、確かめねばならないのです」
 半ば話を遮る様に口をら額春月を前に、池田は少しばかり思案し、口を開いた。
「シールドルームの準備はしておきます。ただ、私が駄目だと言ったら、止めて下さいよ」
「えぇ、それは分かっていますとも。それに……制御親和性を確かめる必要はありません。ただ、彼女の持つ力が何かが分かればいいので」
「そうだとしても、あれは神経の過剰興奮が原因でしょうから、私が駄目だと言ったら駄目ですよ、良いですね」
 険しい表情で念を押す池田を前にしても、春月は口元だけを微笑ませる。
「よろしくお願いします」
 会釈を残し、彼は診察室を出た。閉じた扉の向こうで、池田が深い溜息を吐くのは知らずに。
 
 再び地下に降りた春月は女の部屋の扉を叩いた。だが、返答は無く、一言だけ断って扉を開ける。
「浅葱さん?」
 床に座って寝台に伏せていた女は、唐突な声に慌てて顔を上げる。
「え……」
「返事が無いので、入らせて頂きました……お身体の方は、大丈夫ですか?」
「あ、え、えぇ……」
 女はまだ眠たげに眼を擦る。
 春月は低い机に目を遣り、薬を飲んでいない事を確かめる。
「申し訳ないのですが、もう少しだけ、背広を着て着いて着て頂けませんか」
 女は春月に向けて居た顔を伏せる。
「ひとつだけ、どうしても確かめねばならない事があります。申し訳ありませんが、もう少しだけ付き合って下さい……外で待って居ます。着替え終わったら出てきて下さい」
 女の傍らに屈んで居た春月は立ち上がり、扉を開けた。
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