伏魔殿の扉

文字数 2,681文字

 異例の新人が女だと最初に気付いたのが花房だった事と、部署全体が大型事案への対応に色めき立つ中で彼の手が空いていた事は、春月にとって幸いだった。
 人気の無い十三階の資料室で、彼は一昨日に得た犬山正臣に関する調査を再開する。
 犬山は大学卒業後すぐに市役所に採用され、二年前には岡山県深玉市の生活環境課長に就任し、市の広報紙では害獣駆除と持続可能な環境維持を推進していると紹介されていた。
 害獣駆除に力を入れている点に関しては、人類進化学会の会員として、野生動物と共存可能な里山を維持する事による経済の活性化や、科学的知見を活用した農林業と狩猟の再興による地方経済の活性化に関する研究発表から、その理由が窺えた。
 だが、エスペランサ・アースによるヒト遺伝子の変異に関する共同研究への参加に春月は首を傾げた。犬山は東京科学大学自然科学部応用自然学科を卒業しており、身近な環境にまつわる事象についての専門家である。
 無論、自然科学の範囲でもエスペランサ・アースは大きな注目を集めており、エスペランサ・アースの駆除は人体に寄生している場合のみならず、感染源である環境中での駆除こそ課題とされている。だが、ヒト遺伝子の変異に関しては医学者の専門分野である。
 犬山がその研究に参加した理由を探るべく、春月は執筆者全員について研究者としての情報や来歴を探った。すると、犬山を除く執筆者は医学者であり、現役の臨床医か医学博士などの研究者であった。
 ある一人を除いては。 

 ――鮫島学。
 その名に、春月は眉を顰めた。
 現在の宮内庁長官の名が、そこに記されていたのだ。
 調べると、鮫島は犬山と同じ大学の卒業生であり、同じ時期に射撃部で活動していた。更に探ると、東京科学大学の射撃部は卒業生同士の交流が盛んで、狩猟か競技かを問わず、銃砲所持に関する相談機関としての役割も果たしている様子であった。
 だが、論文が発表された時期は古く、その時点で鮫島は宮内庁長官に任命されてはいない。
 春月は再び首を傾げて思案する。
 大学卒業後、三年次編入によって医学部に編入し、短い期間に医学の知識を習得して医師としての資格を得た稀有な秀才の鮫島が、小さな街の公務員である犬山を研究に誘ったとは思えなかったのだ。

 問題の論文に目を通しながら、彼は納得しようと考えを巡らせ、犬山は学術的な観点を持った筋金入りの変異体排斥主義者であり、鮫島はそうした思想を高く買っていたのだろう、と仮説を結論付けた。
 現に、犬山が関与した講演会では、変異体は保護すべきであり、発達の遅い彼等には特別な教育をするべきであり、何より、彼等を苦しめる能力を取り除く治療が必要だと語られていた。
 だが、変異体の当事者である春月にとって、犬山の様な人間が訴える保護とは隔離であり、特別な教育とは洗脳であり、治療とは無益な身体的苦痛と生涯に亘る耐え難い精神的屈辱かつ、意思決定の全てを奪う最悪の人権侵害でしかない。
 鮫島も同じ様な思想なのか。
 春月は眉間に影を浮かべ、鮫島の言葉を探そうと記者会見の要旨を探した。
 そして、若竹宮に初孫となる槇子女王が誕生した折の会見要旨を開き、彼は更に眉間の影を濃くした。
 鮫島が語るに、皇室に変異体が生まれている事は事実だが、染色体の変異については受け入れざるを得ない。しかし、特殊能力は本人を含めた全ての人を苦しめる物であり、その除去は必要であるとの事だった。

 深い溜息を吐き、性質(たち)が悪いと思いながら、彼は端末機の画面を全て閉じる。
 彼にしてみれば、天皇は現人神(あらひとがみ)であり、その血を受け継ぐ者が特別な力を持つ事には、何ら違和感など無いのだ。
 故に、特別であって何ら不思議の無い力を悪しき物と喧伝し、敬うべき存在に尤もらしい理由を付けて不必要な苦痛を与えようとする鮫島を、彼は心底嫌悪している。
 腰掛けたまま崩れた姿勢を正し、ウェストコートの中の名鑑入れからメモリーカードを取り出す。そして、少し寄り道をし過ぎたと思いながら、調査権限を行使して得た情報を呼び出し、本質へと切り込んだ。
 犬山が何故、女を此処に送り込めたのかという疑問の本質に。

 犬山と鮫島の関係に納得のゆく仮設が立てられなかった事もあり、四月中旬頃、二人の接点である人類進化学会の大会が開かれる少し前からのやりとりを確かめるべく、犬山の公用メールアカウントの記録を遡る。
 役所内部でのやり取りを除外し、外部と接触した記録を確認していく。そして彼は、人類進化学会の大会が開かれた後の時期の記録に、田中茂なる人物を発見した。
 文面を見ると、田中は鮫島から紹介された者と名乗り、警視庁錦町署の人事責任者だと自称していた。だが、警視庁には錦町署なる警察署は存在していない。
 不審に思い、発信元を特定しようと調査機能を立ち上げる。だが、奇妙な事に、田中茂なる人物が送信したメールの発信元は存在していないとの調査結果が表示された。
 確認の為、田中茂という名の警察関係者についても検索をすると、同名の人物は存在こそしていたが、学歴や経歴からして鮫島との接点があるとは考えられない人物であった。
 しかし、実態の無い人間が、実際の人物を警視庁という閉鎖空間に送り込む事は出来ない。考えられるのは、デルフォイが田中茂を名乗り、犬山に接触した可能性だけだった。
 ならば、電算課の通信記録に残っているのではないか。彼はそう考え、電算課の通信記録の紹介に着手する。デルフォイが判断し、どの様な形であれ異例の人事を決定したのであれば、内部に記録が残っているはずである、と。
 だが、その結果はその期待を裏切る物だった。
 デルフォイはどの様な経路であれ、犬山に直接接触をしていなかったのだ。

 春月は深い溜息を吐きながら、背凭れに身を投げ出した。
 調査は暗礁に乗り上げてしまった、と。
 犬山と田中茂のやりとりを抽出したデータを保存し、どの様にして調査を進めるべきかと思案していると、連絡端末への着信を左手首の認証端末が知らせる。
 認証端末側で受信し、応答した。
「こちら十三係春月(はるつき)
『こちら特対課水戸、十三係春月対応官、十七日の件で至急お話があります、課長室に来て下さい』
 春月は眉を顰め、分かりましたと短く答えた。
 そして端末機の電源を落とし、メモリーカードを元の場所へと納めて立ち上がる。
 十七日に何があると言うのだ、と、思いながら。
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