朝靄の夢

文字数 1,850文字

 早朝。陽の光を全て遮った室内で彼は目覚めた。
 夢を見ていたのかどうかは覚えていない。ただ、胸の奥に得体の知れない吐き気を覚え、身を起す。
 胸が脈打つ度に喉の奥に吐き気が込み上げ、こめかみに鈍い痛みを感じ、思わず喉元を抑えた。
 次第に酷く息苦しくなり、早い呼吸を繰り返す。
 息苦しさが落ち付く頃には背筋が冷たくなり、額に冷や汗が浮かんでいた。
 大きく息を吐き、彼は立ち上がる。
 殆ど何も無い冷蔵庫の中から冷えた水を取り出し、口を付けた。
 喉の奥に貼り付く不快感を押し流す様に。
 四カ月前の、あの朝と同じ様に。
 台所で立ち尽くしていると、枕元の連絡端末が着信音を鳴らした。
 緊急連絡ではなく、彼はゆっくりと寝台に戻る。見ると、相手は課長の松平だった。
 折り返しの連絡を入れると、意外な言葉が放たれた。
 ――始業前に部屋へ来なさい。
 面会を申し込む手間が省けた。
 呼び出しがあるという事は、即ち、二日間で全く研修が進んでいない事、あるいは、体力測定の結果が異常値である事に対する叱責か追求でしかない。だが、彼にしてみれば面倒がひとつ無くなったに過ぎなかった。
 彼は飲用水の容器を冷蔵庫に戻し、身支度を始める。

 午前八時を少し過ぎた頃、春月は課長室に居た。
 彼の予想通り、松平は研修が進んでいない事、体力測定の結果が参考にならない事を追求した。
 春月は、登録情報と本人の証言の齟齬があり研修予定が遅れた旨と、体力測定については規定を超えて再試行をしたが、結果は提出の通りである旨を淡々と述べ、その原因は脳に器質的な原因が認められた事と関連している可能性があると告げる。
「脳に異常があるとは、どういう事だね」
「握力の数値があまりにも低かったので、医務係の池田医務官に相談したところ、筋肉、あるいは神経系の異常が疑われましたので、頭部CT撮影と血液検査を行う事になりました。その結果、筋肉の異常は認められませんでした。しかし、脳幹に委縮が見られました」
「だが、病歴はなかっただろう?」
「はい」
「では」
「しかし、これがどの段階で生じたかは分かりませんし、身支度に不自由が無い様子から自覚症状が無い様子でしたから、気付く機会が無かった故に、病歴にはならなかっただけでしょう。事実、正規の採用であっても頭部CT撮影は通常実施されません」
「確かにそれはそうだが、現に生活上の支障が無いなら、問題はなかろう」
「そうですね」
「ならば」
「しかしながら、脳幹の異常は看過出来ません。特に、彼女の場合は生命維持上最も重要な延髄に委縮が生じています。通常、延髄が障害されれば、呼吸不全など、生命に直結する問題が起こります……職務中に何かがが起こる前に、採用を取り消すべきではないでしょうか」
 春月は机越しに松平を見つめる。

「しかし、現状、彼女の生命に問題はないわけだろう」
「はい」
「だったら」
「この先の命の保証は有りません」
 松平は深い溜息を吐き、立ち上がる。
「北海君……君の言わんとする事は良く分かるが、これは決定事項なのだよ」
「その決定を覆すに足る事由が判明したと考えますが」
「覆されない決定事項だ」
 松平は窓の外を見ながら続けた。
「デルフォイは彼女を此処に置いた事で彼女の生命身体に影響があるとは判断しなかった。君なら分かるだろう」
「変異体の未来予知は同じ変異体であっても困難であるという事も良く知っています」
「だが、あれだけのシステムがそう出さなかったのだから、私達はそれを信じるしかない……それとも、そんなに君は外れたいのかね、研修から」
「滅相も無い」
「しかし、その様に見える」
 自身の足元に視線を向ける春月を見遣り、松平は眉を顰めた。
「確かに、新人研修を詰め込みで行うのは至って面倒で、君の本意ではない事は理解する……しかし、此処から出る事を君は望んでいないだろう」
 春月は何も言わず、ただ、伏し目がちに松平の足元を見る。
「無駄に首を切る様な事をしたくない……これ以上、詮索をしない事だ、北海君」
「ドクターストップが掛ったとしても、ですか」
「判断はデルフォイに任せている。君が判断する事ではない……望まない結果を出さないでくれ」
 松平は振り返り、俯く春月を見た。
「私の言いたい事を理解してくれたのなら、後は分かっているだろう」
「……分かりました。失礼します」
 俯きがちなまま机に一礼し、春月は部屋を後にした。
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