雲翳の光芒

文字数 2,531文字

 兼定を信用していないわけではなかったが、女から離れる事には不安が有った。しかし、この用件は彼でなければ務まらない。
 宿舎に戻った春月は、支給品よりはまだ質のいい吊るしの背広に着替え、多少は手入れのされた革靴に履き替えた。時刻は午前八時半を過ぎた頃だったが、早朝から店を開けている和菓子屋に心当たりが有り、足早に庁舎を後にする。
 梅雨空の隙間から差し込む日差しから逃げる様に地下へと進み、遅い通勤客の隙間で最初の目的地を目指す。そこで適当な手土産を準備し、向かう先は最寄駅。運行本数の少ない列車を待ちながら、駅から目的地までの送迎を予約する。
 下り線の列車に乗る客は少なく、終着駅に着く頃には登山目当ての観光客が殆どで、背広姿の春月は異質な存在になっていた。そんな列車を降り、駅舎から少し離れた駐車場で予約していた送迎のタクシーに乗って向かった先は、鬱蒼とした細い道の先にある剣術道場だった。
 春月は駐車場として用意された砂利敷きの広場に停車を依頼する。
「メーター、止めておきますね」
「どうもありがとうございます」
 春月を知る運転手は、片道分の運賃を含む紙幣を受け取る。
「帰りもよろしくお願いします」
 言って春月は車を降り、鬱蒼とした山あいの道場へと姿を消した。

 夫人に通されたのは、主屋と道場の間にある、日当たりは悪いが静かな一室。
 程無くして姿を見せたのは、この道場、貫誠館(かんせいかん)の主である石田一刀斎(いっとうさい)
「御無沙汰しております」
「元気そうで何よりだよ、南山(みやま)君」
 一刀斎は数ヶ月ぶりの面会に安堵し、座布団を勧める。
 春月は形式的な挨拶を述べ、手土産を差し出した。
「吉祥堂の……若鮎ですかな」
「お見通しですね」
「君の事だからな……若先生も喜ぶよ。この前の牡丹餅(ぼたもち)は、随分と豪快な味だったからね」
 苦笑する一刀斎に合わせ、春月も引き攣った薄笑いを浮かべる。
「いやぁ……本当に、復帰した様で何よりだ」
「尤も、まだ、正式に復職したわけではないのですが」
「しかし、随分と酷い怪我だったと聞いている。不自由なさそうで何よりだよ……ところで、若先生の稽古は、どうですかな」
「その件ですが……御無理を言って申し訳ありません。稽古は若先生にお任せしているのですが、新人の進捗に合わせて、良くして頂いています」
「そうですか……ところで、その、若先生の稽古なんだが、来季以降はお約束が出来ないと、先に断っておきたい」
 春月は眉を顰め、次の言葉を待った。
「実はな……見合い話があるそうだ」
「見合い……」
「赤坂の先生から、内々に聞いた話で……先方のお嬢さんが、九月で二十四になるので、年内には顔合わせをしたいと……ただ、御親戚が少々渋っている様なので、年内の補充入庁の稽古までは勤められるかもしれないが……もし、十月に顔合わせが決まったとなったら、定期的な稽古には出られなくなるので、予め断っておきたい」
 春月は眉間の皺を深め、思案する。
「一応、筆頭の伊佐美(いさみ)君に声を掛けてあるし、若先生が此処を離れるとなったら、その時には伊佐美君に師範代を引き継いでもらうつもりだ。その時には、私もそろそろ隠居を考えようと思っている」
 肩を竦める一刀斎の向かいで、春月の脳裏には幾つもの事柄が重なり合って、形容しがたい色を成していた。

「その……若先生の、見合い相手のお嬢さんは……どんな方なのでしょう」
 一刀斎は目を見開き、春月を見た。
「いや、君が珍しい事を聞くもんだな……なんでも、遠縁の親戚らしい。直接の交流は無かったらしいが、身元は確かで、相応しい相手だ、と」
「……先生。近い内に、赤坂の先生に、お会い出来ないでしょうか」
「稽古の事で、何か不安でもあるのか?」
「いえ、新人研修に関しては、伊佐美さんに来て頂けるなら十分ですし、こちらとしても、人員増強を目指しているさなかですから、来年度の採用で、専属の剣術師範を招く予定も有るとの事、先生にご迷惑をおかけするのも、あと少しかと。ただ……私自身の事で、少々、先生に御相談したい事が有りまして」
「……まさか」
「正式な復職には至っておりませんし、身の振り方については、出来れば、下半期補充入庁の頃には、はっきりさせたいと考えております」
 一刀斎は眉根を寄せ、伏し目がちに語る春月を見る。
「やはり、傷が大分深かったのかね」
「それも有りますし、私自身、もう若いとも言えない歳ですからね」
「そう、か……分かった。今月の半ばにも、一度来られるだろうから……そうだな、来季の日程について、調整したいとでも言って、そちらにまた連絡をしよう」
「よろしくお願いします」
 春月は小さく頭を下げた。

 道場に至るまでの道のりは長かったが、二人の面会は事の外短い物だった。
 砂利敷きの広場に止まるタクシーの車内では、運転手が缶珈琲を飲みながらラジオを聞いていた。
 運転手は春月の姿を認めると、座席を整え、ラジオの音量を絞る。
「お待たせしました、駅まで、お願いします」
 運転手は細い道へと車を進め、来た道を引き返す。
「あぁ、そうだ。道場とは反対の奥多摩湖の方に、研究施設が有ったでしょう」
「えぇ」
「そこが近々工事をするらしいですよ。お客さん、警察関係の方でしょう? もし、そっちに用が有るなら、公用車を出した方がいいですよ。通行規制の連絡が来てるんですよ、会社の方に」
「通行規制?」
「何でも、かなりの精密機器を運ぶとか……おそらくは、機密にかかわる物資の運び込みが有るんでしょうね。詳しい事は会社のホームページにも載せてるんで、一度ご覧になって下さい。私らにしてみたら、残念なお知らせなんですけどね」
「そうでしたか……確かめてみます」
 獣道の様な山道を進むには多少時間が必要になるが、主要な道に出てから駅までの道のりは至って短い。
「ありがとうございました。また、よろしくお願いします」
「どういたしまして、じゃ、お気をつけて」
 春月は駅舎に向かい、上り便を待った。
 少々下種な想像を巡らせながら。
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