身勝手な上官

文字数 2,695文字

 花房が扉を開けた時、既に朝礼は始まっていたが、彼を咎める者は居なかった。
 白板の前に立つ兼定は、数日後に行われる、暴力団の摘発に向けた警備に関して、幾つかの情報を提示していた。
 特に、摘発による騒ぎが急性のストレスとなって周辺住民に影響が及ぶ事を本部が懸念している旨を強く伝達する。
「事務所が置かれた周辺の土地建物は事故物件扱いで、安く、変異体にも審査が甘く売られたり貸されたりしている。上は組織本体の人間による暴動以上に、周辺住民の急激なストレスに伴う能力暴発を恐れている。周辺住民の避難については打診されているが、どうも難しい。特に変異体の場合は受け入れ先が無いらしい」
 予知能力者が珍しくなくなった時期から、犯罪組織は予知能力者を複数抱える事で家宅捜索など、所謂“ガサ入れ”の予兆を察知し、対策を立てる様になった。
 花房は溜息を吐きたいのを堪えながら、ぼんやりと兼定を眺める。
 昨今の暴力団組織に対する家宅捜索は、警察、特に特対課を恨む構成員と踏み込んだ特対課の殺し合いである。変異体の出現以降、暴力団組織は社会から弾き出された特殊能力者の受け皿であり、そうした組織の人間ほど、虞犯者認定されない不可解な状況が続いている。
 何の罪も無いまま社会から隔絶された特殊能力者が警察の配下となり、罪深くも隔絶されなかった自由の身である特殊能力者を駆逐する。
 花房はその矛盾を深く考えてはいない。ただ、見せしめの為に無意味な家宅捜索を断行しては犠牲を増やす警察には呆れていた。
 踏み込んだところで、今回もさしたる成果はないだろう、と。
 尤も、花房は今回、その家宅捜索には同行しない。

「現状の配備計画は直前まで変更になる可能性が高い。各組の係員には、当日の予定を開けておくように指示を出してくれ。以上だ」
 黒い背中は立ち上がり、続々と廊下に向かう中、兼定は奥の机に向かう。
「悪いな、非番のところ引っ張り出しちまって」
「いえ、あの新人研修は課長直々に春月班長を指名されたものですので」
 黒金は非番の予定だったが、暴力団に対する家宅捜索に向け、警戒活動への同行や特対課としての巡察が増強された為、分析官研修の講師が足らず出勤となっていた。
「むしろ、黒金君が出る方があの人とぶつからなくていいんじゃないかな」
 花房は長らく朝礼の場で空席となっている席に視線を向ける。
「しかし、その春さんも人が好いよね。わざわざ自分で運動場の準備なんて」
 皮肉げに見上げられた兼定は眉を顰めた。
「俺が行かせたんだよ。それより、お前はさっさと自分の仕事をしろ」
「はいはい」
 花房は肩を竦めて立ち上がり、廊下へと消える。
 その背を見送る兼定は、溜息を吐く様に息を吐いた。
「では、俺も」
 黒金は静かに立ち上がり、講義室となっている別の会議室へと向かう。

 人が居なくなった会議室の中、兼定は件の空席を見遣る。
 一班班長という肩書に対し、二班班長よりも低い席次に甘んじている春月を思うと、心苦しさを覚えずには居られなかった。
 最早彼が現場に出られない事は分かっていたが、それでも、彼には本来の席に居て欲しいと願っていた。
 この場における、良心として。 
 兼定は深い溜息に感情を押し出し、会議室の明かりを落とす。
 今日もまた、予定が詰まっているな、と。

「さ、執務室に行こっか」
 廊下と会議室を隔てる壁に(もた)れていた女は再び手首を掴まれ、廊下の奥へと連れて行かれる。
「あ、あの、ちょっと、待って下さい」
 花房は構わず女の手を引いたまま、廊下の奥にある扉を開け、彼女を其処へ押し込んだ。
「適当に座っていいよ」
 花房は女の手を放し、部屋の奥に進む。
 衝立(ついたて)に仕切られ、奥行きがやや狭まった室内には、楕円形の机と数脚の椅子があり、衝立や壁の際には作業台を兼ねた低い棚が置かれていた。
 花房は作業台を兼ねた棚の上にある湯沸かし器の電源を入れる。
「あ、あの」
 女が花房に何かを問おうとした時、奇妙な音がした。
「朝、やっぱり食べて無いよね」
 花房は振り返った。
 女は目を伏せ、何も返さない。
「黒金君がさ、お土産にカステラ買ってきてくれたんだ。何も食べてないのが分かってて何もしないほど、僕は鬼じゃないからね」
 花房は作業台の棚から焼き菓子の入った箱を取り出し、その中のひとつを机の上に出した。
「これから体力測定出し、食べておきなよ」
「え……」
 女は首を傾げた。
「お湯湧いたらお茶淹れるから、先に食べて」
 女は困惑しながらも、手近にあった椅子を引いて腰掛け、机の上の焼き菓子に手を伸ばす。
 これはカステラではなく、パウンドケーキだと思いながら。
「あの……その、体力測定って……」
 パウンドケーキを手に取りながら、女は花房に問う。
「え? 聞いてないの?」
 女は頷いた。
「学校でもやった事あるかな。採用されたら最初にやるんだけど……走ったりボール投げたりするあれね」
 女はおおよその見当が付き、はぁ、と言いながら、ケーキの包装を破った。

「何やってんだよ!」
 女がケーキを齧った途端、背後の扉が勢い良く開くとともに、兼定の怒号が響いた。
「さっさと運動場に行け、やる事が山積みだろうが!」
 女が肩を竦めていると、鈍い音が起こる。
「もー、何でもかんでも頭ごなしに怒鳴るなんて、兼定さんも酷いなぁ」
 兼定は顔面に直撃した物を反射的に受け止めていた。
 個包装されたパウンドケーキである。
「これから走り回らせるのに、何も食べてないのはまずいでしょ? それに、春さんから連絡はないんですよ」
 兼定は渋い表情を浮かべ、パウンドケーキを見る。
「あと、何か着替えを用意しないと、転んだら膝が破れちゃいますよ」
「そんな派手な転び方する奴は居ねえよ」
「そうですかね」
 言いながら花房は振り返る。湯沸かし器の湯が湧いたのだ。
「兼定さんも、甘い物でも食べて落ち着いた方がいいですよ。どうせ、またろくに寝てないんでしょ?」
 急須に個包装の茶葉を放り込みながら花房は続ける。
「春さんには僕からちゃんと申し開きしておきますよ」
 兼定は眉を顰めながら、廊下に面した壁際の作業台から予備の髪留めを取り出す。
 花房は急須の茶を湯呑に注ぎ、それを手にしたまま扉の方へと向かう。
「着替え持って来るから、これ飲んで待ってて」
 女が返事をするよりも先に、花房は部屋を出る。
 兼定もまた、何も言わずに部屋を出て行った。
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