第63話 猫パンチ

文字数 3,269文字

 夜中にぎゅうと抱きしめられて、多少苦しくて目が覚めた。こんなに力いっぱい、一体、と思って私は中崎さんの方を向くと、涙を流していて、驚く。起こした方がいいのか、それともこのままの方がいいのか、考えて、中崎さんの頬を伝う涙を指で触れた。
 不思議だけれど、泣いてるのに、どこか幸せそうだった。
(目を覚まして、私だったら…がっかりしちゃうかも)となんとなくそう思った。
 でも流石にこの力は苦しいので、困っていると、トラちゃんが来て、中崎さんの鼻を猫パンチした。
「あ…」と思ったら、中崎さんが目を開ける。
「…十子ちゃん」と言って、深い安堵のため息を漏らした。
「あの…ちょっと苦しくて…」
「あ、ごめん」と力を緩めてくれた。
 トラちゃんは中崎さんの背中の方にぴょんと飛んで消えた。
「涙…」と私は頬にもう一度触れる。
「あ…。何だか…夢で…ごめん」
「悲しい夢ですか?」
「ううん。何だか…安心して…」
「安心?」
「よく分からないけど…。よかったって…思って」
「よかった?」
「そう。だけど…何がよかったのか…分からない」
 さっぱり分からないけれど、私でがっかりされなかったから、まぁ、それはよかったのかも、と私は思った。
「ごめんね。辛かった?」と髪を撫でられる。
「…ちょっとだけです」
 髪の毛って、別に神経ないのに触られるとどうしてこんなに心地いいんだろう、と私は目を閉じた。
「十子ちゃん、いい匂いする」
「え?」と目を開ける。
「なんか…落ち着く」
「おばあちゃんの匂いとかですか?」
「おばあちゃんの匂いは知らないけど…」と言われてから失言だったと思ったけれど、中崎さんは笑っていた。
「お菓子みたいな甘い匂いがする」
「お菓子ですか?」と私の目は完全に覚めてしまった。
 自分で自分を匂っても少しも分からない。今度、お腹空いた時、匂ってみようかと思った。
「じゃあ、中崎さんも美味しい匂いがするんですか?」と言って、鼻を肌にくっつけようとしたら、思い切り拒絶された。
「えー、どうしてですか? ずるいです」と私が鼻を近づけようとするのを必死で押しとどめる。
「十子ちゃん、本当にだめ」
「もー自分だけずるい。中崎さんの匂い知ってるんですから」
「え?」
「だって、お布団も、ベッドも同じ匂いだし…」
「洗濯しよ」と柔らかく微笑む。
 お布団を嗅ぐふりをして、油断させておいて、中崎さんの首に顔を近づけた。
「あ、だめって」
 後少しのところで手で口の辺りを押される。そしてそっとあごを掴まれた。
「なんでですか」と私はむっとしたような声で言った。
「そんなことされたら…引き返せなくなるから」
「え?」と私は言ってる意味を考えた。
 自分からは色々仕掛けてくるくせに、引き返せないって、何? と思わず中崎さんを見ると、耳が赤くなっている。その反応も私は意外で、あごを挟まれたまま見つめてしまった。
「だから…可愛すぎる」
(言ってることがさっぱり分からない)と私はぽかんとした顔であごを挟まれ続けていた。
「中崎さん…あの…意味が分からないです」
「自分では抑えが効くけど…。十子ちゃんに触られたら、無理だから」
「は?」
 説明されてもさっぱり分からない。
(っていうか、あご! 解放してほしい)
 別に痛くはないけど、ずっと固定されてると、何だか変な気持ちになる。
(あ、そうだ)
「じゃあ、中崎さんがおやすみのキスしてください」と目を閉じた。
 何だか訳がわからないから、ちょっと困らせようと思った。自分からだと抑えが効くっていうのだから、いいようにしてくれるだろう、と思って。でも微かにため息の音が聞こえた後、その場にそっと寝かされて、額を二、三回撫でられただけだった。
「おやすみ」と聞こえてきたので、私は唇を尖らせて「なさい」とつけ加えた。

 中崎さんがもう私を抱き枕のようにしなかったので、そのまま朝まで眠れたが、私は出向までに中崎さんとキスをしよう、と起きた瞬間、目標を立てた。すると不思議なことにやる気が出てきて、上半身をバネのように起こす。中崎さんは少しも起きる様子がなかったので、私はそっと抜け出て、トラちゃんのお水と餌を変える。そしてお米を洗って、炊飯器にセットした。おにぎりを作ってみようと思ったのだった。
 冷蔵庫を開けてみてもバターしかなかった。私はこっそり着替えて、顔を洗い、化粧をする。そして部屋を抜け出してコンビニに向かった。おにぎりの具とカップの味噌汁を買いに行くことにした。

 コンビニで瓶詰めの焼きシャケのほぐしたのと、海苔とカップの味噌汁を買う。そしてマンションまで歩いて、ふとオートロックのことに気がついた。中崎さんを起こすことになる…。どうしようと思っていると、偶然、中から出てくる人がいたので、入れ違いに入った。部屋の鍵はかけてなかったから音を立てずにそっと入った。
 ご飯が炊けるまでちょっと時間があったから、私は中崎さんの寝顔を見ようとこっそりベッドに近づく。
(あ、寝てるんだから匂い嗅いでも…)と思って、顔を近づけたものの、寝込みを襲うのは何だか悪いことのような気がして、顔まで十センチのところで私は固まってしまう。
 それでも綺麗な寝顔を見て、私は心の中でため息をついた。どういうわけか私に心を許してくれる中崎さん。妄想が広がって、新婚だったら「透馬さん、起きて」なんて言うんだろうか、と思わずにやけてしまう。ちょっとだけ…髪だけ触ろうかな…と手を挙げた時、炊飯完了の電子音が鳴り、私はドキッとして肩が跳ね上がった。
(悪いことはできないな)と思って、立ちあがろうとした時、私の手を中崎さんが掴んだ。
「あ、おはようございます」
「十子ちゃん…。おはよう」
「あ…ご飯…あのおにぎり…」と支離滅裂に言うと、笑って「おはようのキスで起きたかったな」とふざけて言う。
「おやすみのキスしてくれなかったのに」と私は真剣に怒ってしまった。
「ごめん。部屋を出て行くとき起きて、ちょっと心配だったけど、こうして戻ってきてくれたから…嬉しい」
「え? ずっと起きてたんですか?」
「うん。心配で…でも帰ってきてくれたから…何してるのかなって…寝たふりしてた」
「もー、人が悪いです。私がキスしてたらどうするんですか?」と素直に欲望を言ってから、しまったと思った。
「すごく嬉しい」と頰を突き出す。
 私は人差し指でその頰を押した。
「着替えてください」と言って、私は炊けたご飯でおにぎりを作ろうと台所に行った。
 中崎さんが髭を剃ったり、着替えている間におにぎりはなんとか握れた。お湯も沸かして、カップの味噌汁ができる。
「すごい…。朝ご飯が感動的だ」と大袈裟に言われて、恥ずかしくなった。
 あまり形のいいとは言えないけれど、炊き立てのご飯で作ったおにぎりは美味しい。中崎さんが嬉しそうに、美味しそうに食べてくれるから、作ってよかった、と思った。
「十子ちゃん…本当にここから通わない?」
「え? 朝ご飯係ですか?」
「そう…。でもそれだけじゃないけど…」
「じゃあ…おやすみとおはようのキスが条件です」と私は無理難題を言ってみた。
 早速自分の欲望が叶うか、叶わないか分からないけど、交渉してみることにする。
「キス?」
「キスしてくれたら、ここから通います」
(どうだ、できるはずないだろう)と私はなぜか悪代官になったような気持ちで中崎さんを見た。
「…じゃあ、透馬って名前で呼んでくれる?」
「えー?」
(条件に条件つけるなんて)と思ったけれど、私は新婚ごっこができる、とふと思った。
 毎朝、おはようのキスをして「透馬さん、起きて」なんて言えるのだ。
「分かりました。じゃあ、二人きりの時だけですよ。流石に会社では無理ですからね」と言うと「いいよ」と笑ってくれる。
「透馬さん。おはようのキスください」と言って、目を閉じる。
 いつまで経ってもキスはなかったので、目を開けると、中崎さんは固まっていた。私だけただで言わされた気持ちになって、がっかりした。
「名前呼びの破壊力がすごい」と呟いたので、キスのお預けを食らった私は首を傾けた。
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