第35話 虹

文字数 4,493文字

 お互い車だったので、それぞれの車で行くことになった。私は車からお母さんに電話して、状況を説明する。そして女の子がそこにいるのか確認する。
「うん。分かったわ。…じゃあ、あの子に伝えるわ。きっと大丈夫。クマのぬいぐるみをお父さんが持ってるんでしょ? すぐにそっちに行けると思うわ。便利よねぇ」と呑気なことを言っている。
「うん。…まだ私たちは近づけないの?」
「そうね。そっと影から見て。あなたたちが幽霊になった感じでね」と明るい声で母が言う。
「お母さん…。それで女の子は無事に成仏できるのかな?」
「できると思うわよ。お母さんの悲しみが深すぎると、少し難しくなるから、そう言うのは言ってあげても良いかもね。私だって、ちょっと寂しくなっちゃうけど、まぁ、仕方ないわよねって思ってるの。人間って、死ぬと大騒ぎするけど、生きてても毎日死んでるようなもんだから」
「え?」
「昨日の自分には会えないでしょ?」
「はあ…」
「子育てしたら分かるわよ。可愛かった赤ちゃんにはもう二度と会えないの。それが毎日重なって成長って言うのよ」
「うん?」と私は分かったような分からないような返事をした。
「だから毎日、一生懸命生きなさいって言うこと」

 さっぱり分からないが、とりあえず結愛ちゃんはパパの車に乗るらしい、と言うことだけは分かった。電話を切る。娘を失くしたのが自分のせいだと思っている母親が、自分を探しに来た時に亡くなったと知ったら、それこそ…辛いんじゃないだろうか、と思うと気が重くなった。
「十子ちゃん…」
「はい?」
「さっきは少し…反省した」
「え? 中崎さん、何かしましたか?」
「クマのぬいぐるみ…怖がって。僕はただ怖くて、気味が悪いって思ってたけど」
 ありえないものがあるのだから、それはそうだと思う。
「亡くなった娘さんのものだって分かったら…それがどうであれ、あんなに大切に触れることができるのに…。彼にとっては娘そのものだったんだ、って。それを気味悪がってしまって、悪かったなって」
「それは…仕方ないです」
「ううん。だから…十子ちゃんはすごいなって」
「それは違います。すごいとかそうじゃなくて…。たまたま見えるから…そんなに怖くないんです。あの子は本当に可愛い女の子だったから…」と口にしながら悲しくなった。
 他人の私ですら可愛いと思うのに、親だったらどれほど可愛く思っていただろう。お菓子をもっと食べさせてあげたいと私が今思っている何倍も「ああしてあげたらよかった」と言う思いはあるはずだ。
「十子ちゃん…」と言って、ティシュを渡してくれる。
 私が泣いてるのに運転しながら気づいていたようだった。死んだ人は見えない。だからこんなにも悲しいのだ。

 不思議なことだけれど、高速を降りた時から雨が降り始めた。音のしない細かい雨だった。
 運転をして一時間半過ぎた時、目的地にたどり着いた。大きな病院だった。受付を済ませると、私たちは奥さんの入院している階まで行く。部屋の前で私たちは立ち止まった。
「先に奥さんとお逢いになってください。私たちは後から…伺います」と言う。
「あの…結愛は」
「いますよ。お父さんのクマのぬいぐるみを触ろうと手を伸ばしてます」
 結愛ちゃんの父親は抱きかかえていた縫いぐるみを下げた。私にだけ見える結愛ちゃんは喜んでお父さんの手をとった。
「あ…」と結愛ちゃんのお父さんは声を出した。
「はい。手をつなぎました」
「触れられた気がします」
「じゃあ、一緒に行ってください」と私は二人を見送った。

 私と中崎さんは休憩スペースで座って、飲み物を買う。トマトジュースはなかったので、リンゴジュースにした。私は車で大分泣いてしまって、目も鼻も赤いはずだ。
「ちょっとトイレに行ってきます」と言って、中崎さんを後にした。
 多少、泣いたような顔にはなっているが、目の赤みはひいている。私は化粧直しをして気分を変えようと思った。私が泣いてどうする、と思ったのだ。ぱたぱたとファンデーションを塗り直して、リップを塗った。少しはマシになったと思う。

 トイレから戻ると、中崎さんは窓際に座っていた。
「…大丈夫?」と振り返って聞いてくれる。
 男前だとつくづく思いながら「はい」と返事をした。そして向かい側の椅子に座ってリンゴジュースの蓋を開ける。爽やかな匂いが鼻先に届いた。
「ちょっと色々考えてた…。僕を産んでくれた人は今、生きてるのかなって。そして…泣いてくれたのかなとか…」
 中崎さんの気持ちが胸に刺さる。
「知らない方が…良いかもしれない…かもね」と一人で言う。
 私には遠隔で何かを探るという能力はない。中崎さんのお母さんがどうなっているのか、どうしているのかは全く分からない。でもだとしても、中崎さんが気にしてしまう気持ちも分かるけれど、今の中崎さんを見て私は言いたいことがあった。
「分からないです…けど。中崎さんのお母さんのことは…分からないですけど。今、ここに中崎さんがいてくれて、よかったと思う人は…たくさんいます」
「そう?」
「はい。たくさんの人に…愛されてるから…」
 少し悲しそうに笑うと、テーブルに上半身乗り出して、私の頬に手を当てる。大きな手が私の頰を包む。優しくあらねば、と思いながら生きてきたこの人はどれだけ怖かったのだろう、と思う。自分の人生の不確かさを人に優しくすることでなんとか保っていた。その手の上に私は手を重ねて、目を閉じた。
(キスくらい…なんてことない)と思った。
 息が頰にかかる。目をきつく瞑る。
「十子ちゃん…」
 そっと目を開けると、かなり近くまで中崎さんの顔がある。
「ちょろい」
(策士だった)と私は目を大きく開ける。
「でもありがとう」と言われた。
「こちらこそ。練習二、ご教授ありがとうございます」と思い切り負け惜しみを言った。 
 練習なのに、心臓がドキドキして止まらない。心臓が何回打ったら、止まりますと言うのだったら、私はかなり早死にするんじゃないだろうか、と思った。私が顔を真っ赤にして、リンゴジュースを飲んでいると、中崎さんがため息を吐く。
「本当に心配になる。すぐ同情するなんて…。悪い男に引っかかりやすい女性の最多パターンだよ」
(悪い人、悪い、悪い、悪い)と私はリンゴジュースの蓋を力一杯閉める。
「だから練習してる最中なんです」
「まだ仮免もあげられないから。路上教習はダメだから」
「はい?」
「他の人とデートしないように」
「え?」と聞き返したが、それ以上、何も返ってこなかった。

 光が窓から差し込む。雨が上がったようで、私は窓の外を眺めた。
「あ、虹」と指差すと、うっすらと虹が出ている。
(もしかして…、行ったのかな)と私は思った。

 しばらくすると、父親が一人で来た。
「ありがとうございます」と頭を下げる。
「…あの、奥さんは大丈夫でしたか?」
「…もちろん驚いてました。でもぬいぐるみを抱いた瞬間、結愛の匂いがしたって…」
「…そうですか」
「それで…泣いたんですけど…」
「えぇ。でも多分、伝わったんですね」
「はい。…僕も彼女を支えていこうと思います。彼女がこの先、どんな未来を選ぶかはまだ分かりませんが…。きっと結愛も喜んでくれると信じて」
 ちょっとだけ彼女の病室を覗いてみる。クマの縫いぐるみはそこにあったが、もう結愛ちゃんの姿はなかった。
「奥さんにいつか、伝えてくださいね。いつでも見に来てくれてるって」
「そうですか?」
「はい。割と…自由に来れると思います。ちゃんと見てるので…だから胸張って、頑張ってくださいね。後…季節限定なんですけど」と言って、私は結愛ちゃんが喜んでいたポテチの話をした。
「来年、忘れずに買います」と少し不思議そうな顔でメモしていた。
「お願いします」
「あの…ありがとうございます」と父親から頭を下げられた。
「そんな…私の母も可愛がってて…。本当に可愛くて…。私も慰められたりして…良い子でした」
 そう言うと、父親は涙を流した。愛して、愛されて、可愛い子供ができた。幸せだった日々が一瞬で悲しみの渦に沈む。でもそれを乗り越えて生きていかなければいけない。近くで結愛ちゃんが二人を見ているのだから、と私は思った。

 私と中崎さんは車で家まで戻る。すると家がお葬式のように静かだった。明るいふりをしていた母は結愛ちゃんがいなくなった空間が悲しくて、ぐったりしている。
「お母さん」
「だって、本当に可愛かったんだもん」と言って、ソファで動かない。
 ここ数日、お母さんはずっと一緒にいて、お菓子をあげて、一緒にテレビを見て、本当に可愛がっていた。ただ可愛がるだけで良いから、とっても楽なのだ、と言って、喜んでいた。
 全く見えないお父さんは不思議そうな顔をしている。
「イマジナリーフレンズがいなくなることなんてあるのか?」と私に言う。
(イマジナリーじゃないから)と思ったが説明するのが面倒臭い。
「早く…孫が見たい」と恐ろしい言葉を呟き始めた。
 私は中崎さんの耳を塞ぎたくて、両手を上げかかったが、中崎さんにすごい笑顔で「…だって」と言われた。
「孫…までのチャートは長くなりそうだな」とお父さんがまた紙を出してきた。
「良いから。ご飯、晩御飯にしよう」と私が慌てた。
「あ、そうね。中崎さんいるし、すき焼きしようと思ってたの」と慌てて準備をしようとするが、またソファに崩れてしまう。
「僕がしますよ」と中崎さんが言うので、結局、私と、お父さんも手伝うことになった。お父さんに野菜を洗ってもらうと神経質に洗うので、栄養も流れていきそうだし、何より時間がかかる。
「お父さん、パンが食べたい」と私が言う。
「パン? すき焼きなのに?」
「クロワッサン、どうしても食べたい」と言うと、仕方ないなぁ、と言う顔をして出かけてくれた。
「十子ちゃん、クロワッサン食べたいの?」
「だって、三人もキッチンにいると場所とるし…」と野菜が水浸しになっているのを指で差す。
「なるほどね」と言って、中崎さんがそれを引き上げた。
 すき焼きとクロワッサンは不思議な組み合わせだったけれど、なんとか晩御飯は穏やかに終わった。

「また来るのか?」とお父さんは不躾に中崎さんに聞く。
「そんな良いから」と私は慌てて、間を持とうとした。
「もしお邪魔じゃなければ…ですけど」
「じゃあ、来週、来なさい。また帰ってくるようにするから」と自分の都合を言う。
「ぜひ」と言って、中崎さんは笑う。
 お母さんはそれを聞いて、少し元気になったようだ。私は駅まで送ると言うと、玄関先でここで良い、と言われた。
「じゃあ…」と中崎さんが手を振る。
「あ…あの。ちょっと」と私は中崎さんに内緒話するように、手を口の横に当てる。
「何?」と体を少し傾けてくれた。
 その瞬間に、頰に素早く唇をつけた。
「練習三、です」
 怒られるかと思ったが、意外なことに中崎さんはしばらく固まって、私がキスした頰を片手で押さえて、それが飛んでいかないかのようにずっとそのままで、反対側の手で手を振った。
「またね」と言いながら。
 私はその後ろ姿をずっと眺めた。ずっと片手で抑えたままの。
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