第53話 支えになれたら

文字数 2,210文字

 駅前の高級寿司店の稲荷鮨はいつもなら、輝いて見えるのだけど、今回は私はそれどころじゃなかった。部屋に入ってきた中崎さんに早速、土下座をする。
「ごめんなさい。私…何も知らなくて」と速攻で謝った。
「え?」と中崎さんが驚いた顔をする。
「中崎…も悪いと思うよ」と梶先輩が中崎さんの肩を軽く叩いて、お土産を受け取る。
 そして私の性に対する知識がないことを、梶先輩が説明してくれた。私は恥ずかしくて顔も上げられない。
「…それは、そうだとは思ってたけど…」
「はい。今はちゃんと理解しておりますので、そんなことは…あの…二度と、口にしないことを誓います」と床におでこをつけた。
「十子ちゃん、顔見せて」と中崎さんがしゃがみ込んだ。
「あ、はい」と言って、顔を床から離したものの俯いてしまう。
「僕もごめんね?」
「え?」
「十子ちゃん、可愛いし、好きだから…ちょっと甘えてしまって」
(その好き、ちがーう)と私は心の中で叫んで、中崎さんを見た。
「何も知らないの分かってて、好き放題して」と言うと、梶先輩が「好き放題?」と険しい顔で聞き返した。
「あ、何もなかったんです」となぜか私が慌てて否定する。
「困らせてごめん」
「あ…いえ。あの…私が言ったこと、忘れてください」と顔を手で覆った。
 とてもじゃないけれど、ネットで仕入れた情報のようなことを中崎さんとはできない。なのに、気を抜くと、想像してしまう。
「十子、ちょっと頭冷やすためにも、おつかい行ってくれない? スーパーでネギ買ってきて。後アイスも。好きなので良いから」と梶先輩からお財布を渡される。
(完全に子供のお使い)と思って、立ち上がった。
 そういえば、と家を見渡すと、あの男の人の気配は全くなかった。こんな話をしているせいか、居づらかったのかもしれない。
(まだ人の心があるんだな)と不思議な気持ちになったと同時に早くなんとかしなければ、という焦りも生まれた。
「十子?」
「あ、はい。ただいま」と言って、慌てて玄関に向かう。
 うっかりぼんやり霊を探すモードだったと靴を履いて扉を開ける。表に出てから、自分の財布じゃないことに気がついて、取りに戻ろうとこっそり扉を開けた。
「十子が可愛いのは分かるけど、どうしたいの?」
「…どうしたいとかはなくて。幸せになってくれたら…」
「中崎じゃダメなの? あの子、好きって泣いてたよ」
(え? 泣いてた? かな?)と盗み聞きしてしまいそうになる。
 戻るべきか、行くべきか悩んでじっとしてしまう。
「僕では…幸せにできないので」
「じゃあ…中途半端に手を出すのは…良くないってのは分かってるよね?」
「…はい」
「ただ…。私も分かるけど、十子が心のどこかで支えになってるのよね?」
「はい」
(私が中崎さんの支えに?)と思わず驚く。
 そしてそっと扉を開けて、また表に出た。あとで自分のお金を返そう、とスーパーに向かう。中崎さんの支えになれてるという事実が私を幸せな気分に満たしてくれる。
(支えになれて嬉しい)
 ただそれだけで、私の心が跳ねた。そしてやる気が出る。さっきまでの恥ずかしくて縮こまっている私はどこかへ消えて、今はなんでもできる気がする。あ、訂正。セックス以外のことは、と考えるとやっぱり頬が熱くなる。

 私はネギと、ハーゲンダッツのマロンアイスを買って帰る。
「ただいまですー」と明るい顔で戻ると、二人が驚いた顔をした。
 そして梶先輩にお財布を返して、使ったお金を自分のお財布から出して渡した。
「いつもお世話になっているので」と、笑顔で渡すと「十子?」と不思議そうな顔をする。
「せっかくのお稲荷さんランチ、デザートも買ってきました」とアイスを見せる。
「十子ちゃん?」と中崎さんも私の顔を見る。
「何か…? ついてますか?」と手で触る。
「ご機嫌が戻ってよかった」と梶先輩が言う。
「アイスのせい?」と中崎さんが言う。
「…あ、そう…かな?」と私は誤魔化した。
 確かに落ち込んでいたのに、この変わりようは自分でも現金だと思う。でもこれからも中崎さんの支えになれるのなら、嬉しい、と思った。好きな人の役に立っていると思うと、元気が出てくるのだ。
 梶先輩がインスタントのおすましを作ってくれて、そこにネギを私が浮かべた。
「十子? どうしてそんなにご機嫌なの?」
「え? そうですか? お稲荷さん効果だと思います」
「じゃあ、買ってきてよかった」と中崎さんもほっとした顔を見せてくれる。
「あの…はしたないことを言って、想像してごめんなさい」
「想像? したの?」と中崎さんが真面目な顔で聞き返す。
「あ…」
 どうして私の口は軽くいろんなことを話してしまうんだろう。
「十子。それは思ってても言わないの」と梶先輩に注意された。
「良いけど」と笑顔の中崎さん。
「え?」
「想像してくれて、嬉しいけど」と中崎さんに言われて、私はまた想像が始まりそうで思わず首を横に振った。
「中崎、十子で遊ばない」
「遊ばれてた? 私、中崎さんに遊ばれてた」と言うと、梶先輩は顔を顰めた。
「だから、十子。違う意味に聞こえるから」
 梶先輩に怒られて、私と中崎さんはちょっと小さくなりながら、高級稲荷寿司を食べた。さすが高級なだけあって、お出汁が染み込んだ揚げ、と酢飯と胡麻の絶妙な味わいが広がった。
 時間まで梶先輩の家で映画を見たりした。その間、ずっとあの人の気配はなかった。

(どこ行ったんだろう…)と思ったけれど、分からない。
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