第89話 妹

文字数 2,021文字

 晩御飯はちょっとおしゃれなイタリアンに行った。映画で私が熟睡したことを除けば、綺麗に本当に満点のデートだったと思う。デザートまで食べ終えるとお腹がはち切れそうになった。
「ご馳走様」と私は手を合わせて、挨拶をした。
「十子ちゃん…。今日はありがとう」と中崎さんに感謝された。
「いえいえ…。もしかしたら、少しずつ記憶が埋まるかも…ですけど」と私は少しだけ不安に感じた。
 辛い記憶が蘇ってきた時はどうなるのだろうと思った。
「記憶…。まだ実感がなくて…。どこか他人事のような感覚もあって…」
 中崎さんも自分が思い出したことが半信半疑かもしれない。その記憶が本当に合っているのか、確かめようがなかった。
「私は…中崎さんが今、ここにいることが…よかったって思いました。今、ここにいて、会えてよかったって」
「十子ちゃん…」

 中崎さんだって、この世にいなかった可能性もある。
 ふとベランダから出て、橋の下で住んでいる人がパンをくれなかったら。
 毎日、一生懸命、生きようと中崎さんがしなかったら。
 きっとあの日まで二人とも生きていなかった。
 理実ちゃんは言葉を話せなかったようだけど、お兄ちゃんのことをよく理解していた。いつもちょっと大きい方を渡してくれたり、何より大切にしてくれていることをわかっていた。あの日、一緒に行くと兄の服を離さなかったのは少しでも役に立とうとしたのかもしれない。
 外に出たら、世界は広くて、彼女は知ってしまった。

(お兄ちゃんは行かなきゃ)

 中崎さんはともかく、理実ちゃんは生まれてずっとあの部屋から一度も出されたことはなかったようだった。アパートが彼女の全てだった。戸籍の手続きさえされていたのか分からない。

 青い空、きらきらした太陽の光、そして柔らかい風を彼女は知ってしまった。だから自分が亡くなる時、少しも怖くなかった。水中に光がきらきら見えて、綺麗だったから、ほっとしたような気分さえ感じていた。
(もうこれで、お兄ちゃんは自分のために生きていける)
 そう思った瞬間、お兄ちゃんの顔が見えた。
(あぁ、最後まで…)
 手があと少しと伸ばした時
(ありがとう)と届かない気持ちを抱える。
 理実ちゃんをそこにずっと縛り付けていたのはお兄ちゃんの「後少しなのに…助けられなかった」という強い思いだった。
 誰も悪く無い。そして幼い中崎さんはずっと妹と一緒にそこにいた。本当なら、悪いものに代わっていても不思議じゃ無いのに、やっぱりそこでも妹を守っていたんだ、と思った。
 今、目の前にいる中崎さんは少し悲しそうな顔をしている。妹を助けられなかったと言う事実を受け入れなければいけなくなる。
「生きてて…いいのかな」
「もちろんです」
「…頑張らないとね」
「もう十分…頑張ってきましたけど…。たまにプッチンプリン食べてあげてください。理実ちゃんと…中崎さんの好きなものだったみたいです」
「分かった」と言って、中崎さんは夜空を見上げた。
 きっと想いが届くと願って。

 ホテルに帰って、私は中崎さんの抱き枕になった。妹さんをそうして助けたかったんだろうなぁと思いながら、瞼を閉じる。イケメンに愛されてるって思ってたけど、きっとそれはあの事故の傷がそうさせた。私の心が壊れそうに痛む。その日、なかなか寝付けなかった。 
 早朝に朝食をホテルのカフェで取って、中崎さんが先に実家に行くことになった。
「十子ちゃん、お昼までには戻ってくるから…。駅で待ってて」
「はい。行ってらっしゃい。ゆっくりしてきてください」
「そんなには…」と微笑みながら手を振った。

 私はホテルの入り口で中崎さんを見送ると、チェックアウトの時間まで部屋でだらだら過ごした。そしてそのまま駅に向かう。切符を買って、一人で電車に乗る。知らない街で、知らない人に囲まれて、日曜の朝の電車は人もまばらだったけど、涙が(こぼ)れたので、扉の前で立って、街を眺めた。
 歪んで見える街の風景を視界に写しながら、私は今までの楽しいことをたくさん思い出した。
 変態親父から逃げようと走った時の中崎さんの背中。
 トマトジュースを渡してくれる長い指と大きな手。
 ベランダで星を見る横顔。次から次へと溢れてくる。
 二回したキス…。
(せっかくだから最後までしたらよかった)と思って、ちょっと笑ってしまった。
 そんなことしたら、きっともっと辛かったかもしれない。綺麗なままで、綺麗な思い出にしよう。
 ターミナル駅で特急券を買って、私はようやく座って深い眠りについた。途中で、スマホが振動して、中崎さんからの着信を知らせたけれど、私は出ることができなかった。
「先に帰りますね。今日は私も実家に戻ります。楽しかったです」とメッセージを送って、ブロックした。

 久しぶりの実家はやっぱり遠かったけれど、何も言わずにご飯が出てきて、お風呂に入って、そしてまたベッドに沈んだ。お母さんは聞きたいことがあったかもしれないのに、何も言わなかった。
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