第36話 不幸を探す女

文字数 4,250文字

 月曜日の午前中の仕事はいつもなんとなく捗らない。でもそうとは言ってられないので、必死で片付けようとする。鬼の仇のようにタイピングをしていると、午前十時にあの美人人妻がやってきた。青白い顔をしている。自業自得とは言え、呪い(ここはかわいらしく「まじない」と言っておこう)の返礼が相当きつかったのだろう。
「おはようございます」と声をかけられたので、「おはようございます。大丈夫ですか?」と聞いた。
「はい…。何とか」
「あの…やめた方がいいですよ。ああいうことはやっぱり、最後に自分に返ってきます」と私はパソコンの画面を見ながら言った。
「え?」
「でも…どうして私なんですか? 何かしましたか?」とパソコンから目を離して小さな声で聞いた。
「…二十五歳。二十五歳の女と不倫してるの。夫が」とかろうじて聞こえる声で言われた。
「私じゃないですけど…」と言ってみたが、ふいっと目を逸らされた。
 いわゆるサレ妻だったなんて。こんな綺麗な人がいるのに、浮気する旦那さん…と思うと思わず「許せない」と口に出していた。
 ビクッと美人人妻が肩を上げた。
「あ、ごめんなさい。増田さんのことじゃなくて…」
「え?」
「ご主人が…ひどいって」
「…あ」と驚いたような顔を見せた。       
 そして美人らしく儚い笑顔で仕事を始めた。年齢が同じというだけで、私はお(まじな)いをかけられたのだけれど、そうしてしまった彼女の胸の苦しさを私は感じた。私はお昼まで鬼の形相で仕事をしていると、隣の美人人妻から声をかけられた。
「…お昼ご一緒してもいいですか? お詫びにランチを奢ります」
「え? そんな…」と驚いて思わず頷いた。
 でもきっと話したいことがあるのだろう、と社食でもいいけれど、聞かれたく無い話かもしれないと思って、私は外のランチに誘った。
「急いで行きましょう。並ぶから」と私は猛ダッシュで廊下を走る。
 慌てて美人人妻が追いかけてきた。
「え? とう…小森さんどこ行くの」とフロアの入り口ですれ違った中崎さんに聞かれたけれど、私は「ランチです」とだけ言って、慌てて外に出た。
 とりあえず一人でも先に並べば、お店に入れる。人気の洋食屋さんだ。走ったおかげで列の三番目に並べた。後から美人人妻が来た。
「小森さん…」と息を切らしながら、走ってくる。
「はあ、間に合って良かったです。すぐ食べれますね」と私は言って、にっこり笑った。
「小森さん、本当にごめんなさい。あなたが関係ないの…分かってたの」
「もうそんなことしたら駄目ですよ。旦那さんとは別れないんですか?」
「子供もいるし…。私学の学校に通わせてて…。習い事もバレエに英語…、これから塾も…って思うとなかなか…」
「そうですよね。そんなに簡単には…。でもひどいです。こんなに綺麗なのに」
「私が子供にかまけているからだって」
「…え? もう認めたんですか?」
 浮気発覚してすぐに問い詰めたらしい。でも奥さんが離婚できないであろうと分かっていて「いつでも慰謝料払って別れてもいいんだから」と笑っているという。それで派遣としてでも働き始めた、と言った。
「…そうなんですね」 
「でも正直、派遣社員のお給料では…子供のことまでなかなか…。今までと違う生活もさせてあげたくなくて…」
「うーん」
 私は結婚したことがないから、家庭のことがあまり分からない。でも旦那さんがしていることはひどいことだと分かる。悩んでいる間に順番が来た。待ってる間に私はハンバーグとエビフライのセットにした。美人人妻は考えてミートソースパスタにしていた。
(あ、ここでも女子力の違いを…)と私はまたしても学習能力のなさに落ち込んだ。
「どうして…私ばっかり…こんな目に」と美人人妻はため息をついた。
 その美しい顔を見ながら、私は何となく理解する。ないものを数える人はいつまで経っても感謝しないということを。健康で可愛い子供がいる幸せを当たり前に感じて、何なら、その子供が重荷のように感じていることを。
 結愛ちゃんの両親のことを思うと、この人は自分から不幸を探しているような気がした。幸せだってあるのに、不幸を探し続けているようなことばかりしている。でもそんなことを年上の美人人妻に言えるわけがない。また何かのお(まじな)いをされてしまう。
「何か、資格を取って…正社員を探すとか…ですかね」と一応建設的な意見を言ってみる。
「それが子供が微妙に小さいとなかなか学校行事も多いし、正社員になんて…」
「…ですよね」と返事しながら、彼女の言い訳を流した。
 私はもう何かを話す気力も無くして、美味しいご飯が届けられるのを待った。美人人妻は夫とその浮気相手の悪口を少しずつ言い始めた。
(なるほど…)と私は悲しい気持ちになった。
 辛い経験をして、優しくなれる人もいるけれど、その反対の人もいる。綺麗な顔が歪んでいく。だからこの人のサブレには相当な思いが込められていたのだ、と。外見は美しい人の形をしているが、心には鬼が住んでいるようだった。
「…辛くないですか?」
「え?」
「ずっと人を恨むのって…本人が一番辛いですよね」
「…許せないってあなたも言ったでしょ?」
「言いましたけど…。でも誰より、今、増田さんが辛いんじゃないかなって。話を聞いていて思いました。だから…お子さんのことは私には分からないですけど、溺れてる人が誰も助けられないように、今は何より増田さん自身が元気になられるのが最優先かなって。あ、すみません。出過ぎたことを…」と私は頭を下げた。
 私の言葉はきっと彼女に届かない。だからこそ頭を下げて、話を切ることにした。 
 それでようやく彼女の話は止まり、タイミングよくランチが運ばれてきた。ご飯は美味しく食べようと、私は味わって食べる。
(美味しいご飯を食べれる幸せ、ありがとう)と感謝して口に運んだ。
「小森さんて…小さいのによく食べるのね」と言われた。
「え? だってお腹空いてて」
「私…この半分も食べられない」
「あ、すみません。病み上がりに…」と謝った。
「そうじゃなくて…いつもそんなにたくさんいらないの」
 もう二度と、美人人妻とはランチには行かないと決めた。ランチは一緒にいる人で味が変わるんだなと思った。奢ろうとしてくれたけど、私は断って払い、急いで会社に戻った。

「あ、トマトジュース買えば良かった」と独り言を言いながら、席に戻る。
 席にトマトジュースのパックが置かれていた。メモが挟まれている。開くと「明日のランチは一緒に行こう 中崎」と書かれていた。
(わ…。これ、なんて斬新な)と恋愛マスターの技に感動する。
 私も飲み物を買って、メモを置くことにしようと思ったが、中崎さんの机には近づけなかった。何だか女子の目が痛い。大人しくトマトジュースを飲んでいると、梶先輩が来て頭をくしゃくしゃする。
「十子、いつ来る?」
「梶先輩の都合のいい時で」
「今週は暇だからいつでもいいよ」と言って、またくしゃくしゃにした頭を撫でてくれる。
「じゃあ…明日でもいいですか?」
「いいよー。最低、二泊はして」
「嬉しい」と私は本当に嬉しくて椅子の上で飛び跳ねる。
「…十子、うちの子になっちゃえ」
「なるなる」とさらに飛び跳ねた。
 梶先輩も笑ってくれるけれど、本当に少しだけ陰りがある。
「じゃあ、楽しみにしてますね」と私は仕事を始めた。
 隣の席に戻った美人人妻とも特に会話もなく一日が終わった。

 お昼をたくさん食べたとしても、またお腹が空く。実に健康的な胃腸のおかげで、寄り道して帰ろうかな、と思っていると、中崎さんに声をかけられた。
「今、終わり?」
「はい。お疲れ様です」
「小森さん…ちょっとこの書類なんだけど…」
「はい?」と思って、書類を見ようとすると、書類を顔の前に広げて横並びになる。
「頰に何かできてない?」と聞かれた。
「頬ですか?」と綺麗な横顔をまじまじと見る。
 何もついていない綺麗な頰だ。
「うーん。肌荒れもしてないですけど」
「そっかー。昨日、キスされたんだけど…。もう残ってないかぁ」と言うので、慌てて「しーっ」と言った。
 退勤する村岡さんが近づいてくる。
「あ、確認ありがとうね」と中崎さんは書類を下ろす。
「お疲れ様です。中崎さん、飲みに行きませんか?」と村岡さんがにっこり笑う。
 口元のほくろが色っぽい。
「ちょっと胃が疲れてて。今日はゆっくり家で休みます。また」と笑って、机に戻っていった。
(すき焼きとクロワッサンのせいだろうか…)とぼんやり考えてしまう。
 なぜか村岡さんが私を睨んで、目が合うと、思い切り顔を背けられた。村岡さん…生き霊飛ばしてたのに、どこ行ったんだろう。中崎さんの背後は相変わらずすっきりしていて、今はまだご祈祷効果が続いているようだった。

「お疲れー」と外回りから帰ってきた吉永さんが私のところに来る。
「お疲れ様です」
「あ、小森ちゃん、今帰り? 一杯、どう? 話したいことあるし…。奢るからさ」と言われた。
 お腹空いていたので、もちろん頷く。
「じゃあ、ちょっと待ってて。すぐ終わらせるから」と言われた。
 きっと梶先輩について相談したいんだろうな、と思っていたので、私は荷物を鞄に詰めた。吉永さんの机に中崎さんが近寄っていくのが見えたけれど、私は自動販売機で乳酸飲料とリンゴジュースを買う。中崎さんが胃腸が悪いのなら、この二つを飲んで回復してもらおうと思ったのだ。
「何食べようかなぁ」とうきうきして机に戻ると、吉永さんと中崎さんが一緒にいた。
「…一緒でもいい?」と申し訳なさそうな顔で吉永さんが言う。
「え? でも中崎さんは胃腸が良くないって…」
「回復したから」と笑っている。
「あ…」と私は乳酸飲料とリンゴジュースを手に固まっていた。
(断るための嘘…だったのか)と私は恋愛マスターの手の内が読めずに無駄になったジュースをどうしようかと思案する。
「それ、飲むの?」と吉永さんが私に聞いた。
「いえ。これは…トマトジュースのお礼です」と私はそのまま中崎さんに両方とも渡した。
「え?」と中崎さんは驚いて受け取ったものの、乳酸飲料を見て笑った。
「小森ちゃん…。中崎のこと嫌いじゃないの?」と吉永さんが言う。
「え? いや…あの嫌い…では」
 しどろもどろに話す私を中崎さんは嬉しそうに笑いながら見る。
「やっと思いが通じたのかな。ありがとう」とリンゴジュースに頬擦りして中崎さんが勝手に言うので、私は顔が熱くなる。
「とりあえず…ご飯行こっか」と吉永さんが気まずそうに言った。
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