第47話 ファーストキス

文字数 2,642文字

 駅から梶先輩とは反対側に中崎さんのマンションがある。スーパーの荷物は中崎さんが全部持ってくれる。私が何か持とうとしたら素敵な笑顔で断られた。
「十子ちゃん…。来て欲しいってお願いして、言うのもなんだけど…。ほんと、男性の家に簡単にあがっちゃだめだからね」
「わかってます。中崎さんだから、です」と私もさすがに家に行く人はしっかり選ぶ、と頬を膨らませた。
 以前は中崎さんだけ上がって、シスターズが一人降りてきたマンションだ。今日は初めて二人でエレベーターに乗る。さっきまでは何の気もなかったけれど、エレベーターに乗った瞬間、閉ざされた空間が中崎さんの匂いで埋まるようで急に苦しくなる。
 何かを話そうかと考えてる間に、エレベーターの数字は増えていった。結局、それをただ見つめるだけで、扉が開くまで無言だった。
 鍵を取り出して、扉を開ける。
「あ」
「え? 何?」と中崎さんは青ざめた顔を私に向けた。
「あ、いえ。あの…私、本当に初めて男性の一人暮らしの部屋に入るなぁって…思って」
 明らかに安堵した顔に変わる。猫ちゃんがいるか、私は部屋を見回した。猫ちゃんは警戒して出てこないかもしれないな、と思ったら、軽い足音が聞こえた。
「十子ちゃん」
「し」と私は指を口に立てる。
 足音が近づいてきて、猫の姿がはっきりしてきた。
「にゃーん」と可愛い顔を向けてこっちを見る鯖虎の猫がいた。
「あぁ、可愛いー」と私は思わずしゃがみ込んだ。
「え」と中崎さんは棒立ちになる。
 私は手を下に出すと、頭を擦り付けてきた。もちろん、中崎さんには見えないらしい。
「トラちゃんは鯖虎…ですか?」
「あ、そう。灰色の…」
「あーん。可愛い。カギ尻尾なの? お耳大きいねぇ。…トラちゃんは抱っこされるの嫌いですか?」
「えっと…されるのは嫌かなぁ。でも膝の上は好きで…よく養父の上に乗ってたのを見てた」
「トラちゃん、あのね。おやつあるの。食べる? ご飯もあるよー」と私は猫撫で声、文字通り、猫撫で声になる。
「十子ちゃん、中に入って。玄関だから」と中崎さんは戸惑いながら言った。
「あぁ、本当に可愛い。抱っこ、抱っこしたいのに」と私は言って、とりあえずお邪魔することにした。

 リビングに着くと、綺麗に片付けられたテーブルと椅子がある。
「何か飲む?」と聞かれたけれど、私はもう床にペタンと座って、トラちゃんが来るのを待っている。
 中崎さんは買ったものをテーブルの上に出していた。
「猫ちゃんのおやつ開けていいですか?」
「いいけど…」と何か言いたそうだった。
「え?」と私は改めて、中崎さんを見た。
「あのトラは何の用事で、ここにいるの?」とちょっと膨れっ面で聞かれた。
「うーん。なんでかなぁ」と私はトラちゃんを見た。
 トラちゃんはタッタと軽い足取りでこっちに来て、首を伸ばす。私も顔を近づけると、トラちゃんにキスされた。ふわっと柔らかく、キスをされる。
「な…」
「どうかしたの?」
「トラちゃんにキスされちゃった。どうしよう。好きになってくれたのかな。可愛すぎる」と私は床に転がって身悶えしたくなるのを必死で我慢した。
「十子ちゃん…。猫の挨拶だから、それ」
「えー? 挨拶なの? あーん。好きになってくれたと思ったのにー」と今度は悲しくなる。
 余程、私は愛情に飢えているのかな、と自分が可愛そうになる。猫の霊に対してまでも愛を求めるなんて…と首を項垂れる。しかし気分を変えて、ご飯を作ろうと立ちあがろうと拳に力を込める。
 が、立ち上がれそうにない。
「十子ちゃん?」
 何だか全てが悲しくなってきた。
「どうして…私、誰からも好きになってもらえないんだろう」と言葉にしたら涙がこぼれた。
 中崎さんがしゃがんで、私の顔を覗き込む。でも私は泣き顔を見られたくなくて、俯いたままだ。出向リストに入れられるほど嫌われているのはやっぱりショックだった。中崎さんが私を抱き寄せて、胸に頭を抱いてくれる。
「十子ちゃんのこと、僕は…好きだけど」
 私はイケメンの優しさに甘えて、泣いた。そして誰かの差金で決まった出向のことも全部、中崎さんに喋ってしまった。中崎さんだって、こんなこと言われても困るだろうけど、何だか言わずにはいられなかった。
「そっか。…それはひどいね」と何度も優しく髪を撫でてくれる。
 足元にトラちゃんの暖かさが伝わってきた。
「トラちゃん、何考えてるのか、分かりません。だって…普通に見える…だけ…だから」と泣きながら言うと、なぜか中崎さんは笑った。
「そっか。そっか」
 私は見えるだけで、それは生きてる人間でも生きてる猫でも見えるだけで、その人や猫が何を考えているのかさっぱり分からないのは同じだ。
「ごめんなさい」と泣きながら謝った。
「謝らなくても。家にいるのがトラってわかっただけでもよかったよ」とずっと撫でてくれるので、そろそろ私は体を離した。
「トラちゃん…に、おやつ上げてもいいですか?」
「うん」と見えないのにちゃんと私におやつを渡してくれる。
「トラちゃん。猫界の人気おやつだよ」と言って、袋の端を切って、ちょっとペーストを出す。
 トラちゃんがおっかなびっくり舐めて、そして勢いよく食べ始めた。
「トラちゃん…。成仏してないの? どうして? あっちの世界に帰らないとダメだよ」と私は言葉に出して言った。
 すると勢いよく食べていた口を袋から話すと「にゃー」と言った。
「え? あ、ごめん。分からないの。あのね、ここにずっといちゃ駄目なの。変なのに捕まったら…大変だよ」と言うと、私の目をじっと見て「にゃん」と言った。
 分かってくれたような気がするけれど、私がトラちゃんの言っていることが分からない。
「十子ちゃん」
「はい?」
 私がずっと床にペタンと座ったままおやつペーストを持っていると、中崎さんも再びしゃがみこんで、私の頬に頰をくっつけた。頰に柔らかい弾力が感じて、中崎さんの匂いに包まれる。
「え?」
「フランス式の挨拶。僕も猫の挨拶したいけど。それはちょっと…と思って」と言われる。
「あ!」
「何?」
「どうしよう。ファーストキスが…トラちゃんの霊だ」と叫んでしまった。
 私は涙が溢れそうになっていたけれど、中崎さんは笑い出していた。
「なんで笑うんですかー」と私の大切な記念が失われたことを笑われて、怒りが湧いてきた。
「だって…見えないから」
「見えない?」
「僕には見えないから…ノーカンで」
「トラちゃん…見えないの?」
「見えないよ」
 目の前にいるトラちゃんが首を傾げた。
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