第54話 犯人

文字数 2,160文字

 梶先輩より先にお店について、私は隣の個室に入った。コップを壁に当てて耳を済ませる。静かなお店なのでこれで、隣の会話まで聞こえそうだ、と思った。カラカラと音がして、店員さんが入ってくるので、慌ててコップを壁から離す。
「…? お飲み物は?」と不審な顔をしているので、笑顔で「瓶ビールで」と答えた。
 笑いを堪えている中崎さんがいる。
「分かりました。お料理お持ちします」と言って、お淑やかに出ていく。
「十子ちゃん…何してるの?」
「え? 中崎さん知らないんですか?」と多少、得意げになって、私はコップで音を聞く方法を説明した。
 そういう探偵ゲームをしていたから、変な知識は持っている。それを「うん、うん」と頷きながら聞いてくれるけれど、ずっと笑いっぱなしだった。
「なるほどね。でも天ぷら来たら、食べないの?」
「…食べますけど…」と言って、私はちょっとどうしようかと考えた。
 隣に人が来たようだった。梶先輩と誰か女性の声がする。多分、真田さんの妹さんかと思われる。そのタイミングでビールを店員さんが持ってきた。私はまた慌ててコップを隠す。
「あれ? コップが…。失礼しました。お持ちしましょうか?」と言われてしまう。
「えっと…」と私が考えていると、中崎さんが断って、烏龍茶を頼んだ。
 どうやら私にアルコールを飲ませるつもりはないらしい。そして私はアルコールを飲んではいけないらしい。頰を膨らませていると、中崎さんは笑いかけた。
「もうすぐごはんが運ばれてくるから」
「はい」とむくれつつ返事をする。
 するとスマホを差し出された。
「え?」
 梶先輩と通話状態になっている。
「これ…」
「録音もできるから」
 コップで盗聴なんて必要なかったんだ、と私は知った。それでずっと笑っていたんだ、と気がつく。梶先輩と通話しながら私が壁にへばりついてるのを笑って見てたんだ、と思うと、少し腹が立ってくる。
「どうして教えてくれなかったんですか?」
「言おうとしたけど、来て早々、十子ちゃんがコップを壁にくっつけるから…。可愛くて」
「うー」と唸っていると中崎さんが顔を手で隠した。
 不思議に思っていると「梶先輩にも怒られたんだけど…。十子ちゃん見てると、我慢できなくなる」と言った。
「何がですか?」
「…なんでもない」
「何がですか?」と強めに聞いた時、ごはんが運ばれてきた。
 お上品なものが長いお皿に乗せられている。胡麻豆腐ですとか、鯛の昆布締めです、とか説明してくれているが、今すぐ食べたくて仕方がない。店員さんが出て行き次第、ボリュームを少し上げて、二人で会話を聞いた。
『本当に南実さん…お久しぶりで。…少し、痩せられました?』
『仕事忙しいから…。紗奈はどうしてた?』
『私は…ぼちぼちです』
『紗奈の方が痩せた気がするけど…。何か困ってることない?』

(おー、さりげなく聞いてくれた)と私は思って小さくガッツポーズをする。

『いえ。特には…』

(あれ? おかしいな…)と私は壁に手を当てる。

 彼女からは困っている時のようなオーラを感じる。オーラと言ったら早いからそういうけど、もやもやした黒いものが見えるのだ。でもこれは紗奈さんのお兄さん、真田さんではない。
『ご飯、ちゃんと食べてる?』
『…は…い』

(そんなはずない。この人…お金に困ってる)と私はなぜか強くそう思った。

『紗奈はいつも頑張り屋さんだから心配になる。頼ってって言ったのに、少しも連絡くれないし』
『そんな…南実さんにはよくしていただいたのに…。お兄ちゃんがあんなことになるなんて…。私…どうしたらいいか…。顔も合わせられなくて。でも久しぶりに声を聞いたら、懐かしくて…たまならくて…』
「あ」と私は思わず声を上げた。

 彼女が誰かに殴られている映像が見えた。
『お前がなんとかしろ。お前の兄さんが』という黒い影が散々彼女を殴った後、舌舐めずりをする?私は思わず首を横に振った。
 吐きそうになる。その男は彼女を…
『…』
 彼女の心が空っぽになった。
 私の体は震える。嫌だ、嫌だ。こんなこと…好きでもない人と…。

「大丈夫?」と中崎さんが言う。
 私は何も言えずに吐き気を我慢するので精一杯だった。
「うう…」と手で口を押さえる。
「十子ちゃん!」と腰を上げた中崎さんの横に、真っ黒い目で怒りしかない真田さんがいた。
 首が絞められる。真田さんじゃない。こいつは…。
「あの人は…誰…ですか?」と私は聞く。
「え? 十子ちゃん?」と視線の合わない私を見て、中崎さんが立ち上がって、横に来てくれた。

 首を両手で締める。酸素不足で気を失わせられる。不快な手が身体を這う。そして私は彼女の気持ちとシンクロして気力も消えてしまった。

「十子ちゃん!」と抱き寄せられる。
 私は怖くて言葉も出ずに涙が溢れた。中崎さんの心臓の音がゆっくりと元に戻してくれる。息が楽になった。あの不快な感覚は消えているが、私のトラウマになった。
「あの人が…犯人ですか? 真田さんを…ロープで…」
 白目のない真っ黒な眼から涙が溢れた。悔しいという気持ちが溢れる。
「そう…。その人は…まだ…」
 生きて、真田さんの妹を…苦しめている。
「分かりました。どうにかしますので、真田さんはこれ以上…だめです。これ以上…黒くなったら…」
 人を恨む気持ちが強くて、人間でなくなる前に…。
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