第75話 朝の海

文字数 3,083文字

 月曜日、私も中崎さんと一緒に家を出たけれど、駅で別れた。中崎さんはそのまま会社に向かう。私は出向先へ行って、部屋を見て回る予定だった。会社で今日、辞令が出る予定だ。

 電車に揺られて、一人でぼんやりしていた。幸せなデートができたし、すごく好きな人と過ごせた時間を私は後悔したくない。でもきっと側にいると、私は欲深くなってしまう。家族を作りたくて仕方がない私は中崎さんといて、いつか苦しくなるだろう。タイミングよく出向の話が出てよかった、と思った。
 朝に出て、夕方前に着く。今日は予約してた宿泊施設で一泊する。その前に出向先の会社に顔を出す予定にしていた。
 ターミナル駅で買ったお菓子を手に会社に向かう。工場に併設された事務所が二階にあった。守衛さんに言うと、わざわざ部長が出迎えてくれた。
「来月からお世話になります」
「あー、遠いのにごめんねぇ。こっちで募集してもよかったんだけど…。色々事情があるよねぇ」と言われてしまった。
「頑張ります」
「いいよー。ゆっくりで。知らないところ来て、慣れないだろうしね」とのんびりした調子だった。

 事務所の人に紹介してくれるけれど、誰も彼も優しそうだった。お菓子を渡すと、早速「夜ご飯はどうするの?」と心配してくれて、主任が「早めの歓迎会でもするか」と時間ある人に声をかけて、地元の居酒屋さんに私も誘ってくれた。
 いきなり来た私を優しく迎え入れてくれるだけで嬉しいのに、と私は不安が拭えた。
「ちょっと仕事終わるまで待っててね。残業とか年末くらいしかなくてねぇ、時間通り終わるから」と主任が言ってくれる。
 その間に宿泊施設にチェックインして、会社が終わる頃にまた来ることにした。

 会社から海沿いを歩いて行く。黄色い光が海面にきらきら揺れていた。
(ここで暮らそう)と私は決心して歩く。
 海の写真を撮って、中崎さんたちに送った。
 宿泊施設までちょっと距離があったから、疲れたけれど、時間潰しにはなった。
 
 突然の歓迎会は楽しかったし、誰一人嫌なこと言うでなく、遠くに来る私を心配してくれた。
「恋人は?」とかなり直球な質問も来たけれど、それも心配してのことだった。
「好きな人はいるんですけど…」
「そっかー。連れてきたらいいよー。いいところだから」
 ご飯も美味しかったし、やっぱり海の幸も美味しくて、みんなでわいわいお酒を飲んで、私は多分、少し飲み過ぎた。みんな優しいな、とフラフラしながらトイレに行く。ここには変態はいなかったし、私の飲み過ぎを気にしてくれる中崎さんもいなかった。
 初めて悲しい気持ちが生まれたけれど、私は笑顔を作って、席に戻る。
(ここで生きていくんだ)と強く思って。
 お開きになって、私は宿泊施設に戻る。周りに心配されたけれど、幸い、居酒屋の場所からそんなに遠くはなかった。酔い覚ましにちょうどいい散歩になる。みなさんと挨拶をして別れて歩く。星が綺麗で、中崎さんと一緒にベランダから見る星よりたくさん見えて、それでもやっぱりベランダから見える星がよかった。
(あー、こんなので忘れられるのかな)と私は思って、ぼやけた視界を手で擦った。
 携帯が鳴るので見ると、中崎さんだった。
「十子ちゃん? 部屋に着いた?」
「あ、今、帰ってるところです。みなさん優しくて、一緒に飲みに誘ってくれました」
「大丈夫?」
(離れてても心配してくれる)と私は嬉しくなる。
「はい。近いんです。あ、でも…ちょっとコンビニ…寄りたいですけど、ないです」
「酔ってる?」
「ちょっとだけですよ」
「前のりすることにしたから…」
「え? 前のり?」
 聞くと、大分近くまで来ていた。
「今、乗り換えで時間があって…。それで日付変わる前くらいには行けそうなんだけど…」
「起きて待ってます」
「うん。待ってて」
 さっきまでセンチメンタルが溢れていたのに、現金なもので、私はスキップして帰りそうになる。ただ飲んで酔っ払っているので、息がすぐ上がる。息が上がって、私は地面を見る。
(忘れられる気が…しない)と呟いた。
 部屋に戻って、私はシャワーも浴びて、のんびりベッドの上でうとうとしていた。中崎さんから電話が来た。
「お疲れ様です」
「十子ちゃんのとこに行ってもいい?」
「はい」と言って、住所を教える。
 宿泊施設は一軒家で鍵は暗証番号で開く。一階にキッチンとリビング、二階は寝室でベッドが二つあって、ベランダから海が見えた。

 しばらくすると、ベルが鳴った。慌てて、ドアを開けてると、ちょっと疲れた顔の中崎さんがいた。
「お帰りなさい」と言って、私は飛びつきたくなるのを我慢した。
 朝まで一緒だったから一日と日を空けてないのに、何だか懐かしく感じてしまう。
「ただいま」と微笑んでくれるから嬉しくなってしまう。
「明日、早いんですよね。早くシャワーして寝てください」
「うん。移動だけで結構疲れるね」と言って、鞄を床に置いた。
 私はジャケットをかけれるようにハンガーを持ってきた。
「ありがとう」と言われて、新妻ごっこが始まる。
 ジャケットをハンガーにかけて玄関のコートかけにかけた。
「明日は普通に仕事だけど…。明後日は有給とったから」
「え?」
「ちょっと観光して…一緒に帰ろう?」
「はい」と私は素直に頷いた。
「そう言えば、まだ辞令が出てなかったよ」
「え? そうなんですか?」
「うん。なんか…どうなんだろうね」
「でも私…今日、出向先に行きましたけど、もう歓迎されて…」
「あ、お酒…たくさん飲んだ?」
「そんなにたくさんじゃないです」と言いながら後退りする。
 きっとお酒の匂いがするかも、と思ったのだ。コンビニもなくて、アイスも買えなかった。中崎さんはネクタイを外しながら、私に「先に寝ていいよ」と言った。中崎さんと一緒に二階に上がって、部屋紹介をして、そろそろとベッドに入る。
「窓際に寝ていいですか? 今は夜だけど…海が見えるんです」
「いいよ」と笑いながら、ネクタイをベッドサイドに置いた。
 すっぽりベッドに入った私を見て「おやすみ」と言ってくれる。
「なさい」と私は言って目を閉じた。
 階段を降りていく音を聞きながら眠りに着いた。深い深い眠りでなぜか今日は夢を見なかった気がする。朝日が差し込んで目を覚ました。自分がどこにいるのか一瞬、分からなくなる。起き上がって、中崎さんを見た。
「おはようございます」と声をかけてみる。
 疲れているのか、ぐっすり眠っている。私はその間に着替えを鞄から取り出して、洗面台に行って準備をした。顔を洗ったり着替えをして、中崎さんを起こすことにする。でももしかしたら、中崎さんはまた寝たふりをしているのかもしれない。化粧も軽くして、二階に上がると、中崎さんは起きていた。
「おはよう」と笑いかけてくれる。
 私は近づいて、中崎さんの頰にキスをした。
「おはようございます」
「十子ちゃん?」
 もうお別れが近づいているとここに来て身に染みて分かったから我慢できなかった。
「海が見えますよ」と言って、立ちあがろうとした。
 手首を柔らかく掴まれる。じっと見られて動けなくなる。そして何か言いたそうな顔で、私の頬にもキスをくれた。私は堪らなくなって、中崎さんに抱きついてベッドに押し倒してしまう。そんな私を優しい顔をして、見てくれる。手で前髪をかき上げられた。
「ご飯…行こう」
「…はい」
 どうにもならないと私は体をどかす。そして俯いてベッドの端に腰掛ける。ふわっと温かい腕で後ろから抱きしめられた。
「海…綺麗だね」
「はい」
 私も中崎さんも同じ海を見ていた。朝の海は静かにぼんやりと光っている。
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