第92話 トイレの悪霊

文字数 3,176文字

 吉永から誘われたタコパも断った。会社で十子ちゃんを見かけたけれど、僕からは喋らなかったし、十子ちゃんも僕を見ないようにしていた。結局、出向は十子ちゃんが行くことになった。
 そんな人事が罷りとおるなんて思ってもみなかった。誰かの嫌がらせでの出向だと噂されていた。
 今まで、十子ちゃんのことを助ける人は一人もいなかったのに、出向が決まると「かわいそうにいじめられてたものね」と言う人もちらほらで始めた。
 十子ちゃんはその言葉も、気にしないのか、必死で引き継ぎをして、そしてあっさりと出ていった。送別会も辞退したようだった。そんな彼女に僕は何一つ言葉をかけることができなかった。
 ただ仕事と家の往復を繰り返して、毎日時間を潰していた。いつの間にか季節は冬になっていた。眩しい街のイルミネーションもどこか遠い世界のように思えた。
「中崎、帰り、飲みに行こう」と吉永に珍しく誘われた。
 行きたくないといつもなら言うけれど、今日は誘いに乗った。気分が滅入っていたので、酔いたかった。
 いつもの居酒屋に行くと、先に吉永がカウンターで飲んでいた。
「お疲れ」と妙に爽やかな声をかけられる。
「お疲れ」と横に座りながら色々うんざりした気分になった。
 黙ってビールで乾杯すると、カウンターにはすでに焼き鳥が並んでいた。
「誰かさんの好物頼んでみたけど、いないからなぁ」と吉永が何か言いたそうに言ってくる。
「…いただきます」と気にせず、手を伸ばした。
 パチンと、吉永に軽く(はた)かれる。
「痛っ」と言うと「小森ちゃんはもっと痛いはず」と言われた。
「え?」
「大泣きしてたよ。失恋したって」
 タコパの時に、大泣きしたけれど、それ以上、何も言わなかったと聞かされた。
「何のご事情があるかは知りませんが…ひたすら泣いて、最後はウトウトしだしましたよ。赤ちゃんみたいに」と吉永に言われて、ムッとした。
 最初はお前のことが好きだったんだ、と言う言葉は絶対に言いたくなかった。でも泣きはらした後、眠ってしまう様子がリアルに目に浮かんで辛くなった。
「なんで、好きなのに、手放したわけ? 好きなのダダ漏れだったよ」と言いながら焼き鳥の皿を押し出された。
 それでも彼女が選んだ選択だから、と胸が裂ける思いでも優先しようと思う。
「幸せにする自信…がない」
「何それ?」と言って、吉永はビールを飲んだ。
 そう。ずっと僕は言い訳をしている。
「…あんないい子にはもっとまともな男がいいと思う。…お前みたいな」と言った。
「は?」
 なぜか顔を赤くする吉永に本気で腹が立った。でも吉永はビールを飲んで言う。
「じゃあ、俺が迎えに行こうかな。出向先まで」と俺を見ずに真っ直ぐ前を見て言った。
 無性に腹が立って、僕はお金を置いて席を立った。吉永が慌てて「おい、待てよ」と言ったが、無視して店を出た。吉永が梶先輩を好きだと言うから、十子ちゃんは諦めたと言うのに、簡単に迎えに行こうとか言い出すところが腹が立つ。
(でも…。吉永が迎えに行ったら、帰ってくるだろうか)とふと考えた時、思い切り後ろから引っ張られた。
 振り返ると吉永がすごい形相で僕を見ていた。
「お前は馬鹿か」と言われて突き飛ばされる。
 僕も頭に来ていたので、体当たりした。
「お前も馬鹿だよ」と言い返す。
 吉永はすぐに立ち上がって、首元を掴んできた。
「あぁ。でも百倍マシだけどな」
「どっちが」と俺も掴み返した。
 睨み合っていると、どこからか小さくて頭の薄いおじさんが出てきて、本当にスッと間に割って入った。そんなに力強そうなおじさんじゃないのに、なぜか吉永の手も俺も離れた。 
「あのねぇ。…どっちも馬鹿だよ。でもそれでいいんだよ。生きてるんだからね。お利口じゃなくても」
 突然現れたおじさんになぜか何も言えずにいた。吉永も驚いたように口を開けている。
「あの子、知ってるよー。小さい女の子で、よく泣く子でしょ? トイレで泣きながら吐いてたけど…」
 どうやら十子ちゃんの知り合いだったようだ。
「で、彼女、どっか行ったの?」と言いながら、おじさんは顔を見比べる。
「出向で…」と吉永が答えた。
「あぁ、それで最近見ないんだ」と納得したように何度も頷く。
 不思議な気持ちになって聞いてみた。
「知り合いですか?」
 それには答えず、訳知り顔で話す。少ない髪の毛が頭皮にしがみついてるのが気になる。 
「まぁね。でも二人とも若いし…。生きてればいいことあるからね。まぁ、そう喧嘩しなくても…別にしてもいいけどね。それでスッキリするならねぇ。するかなぁ。…したところで、彼女のためになるのかなぁ…。あぁ、そうか寒いところに行ったんだね。雪がもうすぐ降るねぇ。どっさりと。きっと一人で泣きたかったのかなぁ…。ずっとそうだったのかもねぇ。うんうん。でも一人は寂しいよぉ。せっかく生きてるんだから…。生きてる間にさ、自分には正直になった方がいいよぉ。ほれ、そこのお兄さんも…優しいから、
わざと迎えに行くなんて言ったりして…。え? あの子のことも気になる? 二人とも好きなの? 嫌だねぇ。色男は…」と最後は吉永を見て言うから、僕も吉永を見た。
 吉永は顔を赤くして「いや、そうじゃなくて」と慌てていた。
「まぁさ、喧嘩できるのも仲良い証拠だけどさ。…あれ? あの子、男の人を紹介されるねぇ。きっと素敵な、うわぁ。すごい肉体美の…うんうん。これは付き合っちゃうよねぇ。ふーん」と不思議なことを言い始める。
「結婚…できる縁だねぇ。これは子宝にも恵まれるよ。そっくりな子がたくさん生まれちゃうね。困ったねぇ。きっと。じゃあ…それだけ言っておくよ。彼女には睨まれたり、デコピンされたりされて、ちょっとだけ寂しくなかったからさ」と訳の分からないことを言い出す。
 変な人に絡まれた、と思った時、手を振って「生きてればいいことあるから」と言って、立ち去った。
 呆然として、横にいる吉永を見た。顔を赤くして、立っている。
「…確認したいけど、十子ちゃんのこと…」と吉永に聞いた。
「いや、妹みたいな気がしてるだけだから」と否定はしたが、赤い顔が本当か疑わしかった。
「でも…トイレで吐いてるの知ってるってさ…」と吉永が首をかしげる。
「…確かに、あそこのトイレは男女別…」と慌てて振り返ると、誰もいなかった。
 吉永も「え?」と僕を見る。
 曲がり角もない通りで、誰もいなかった。
「隣のラーメン店に入ったのかもな…」と吉永は言った。
 それでなんとなく、二人でラーメンを食べることになったが、そこにもさっきのおじさんはいなかった。十子ちゃんのことをよく知っていて、女子トイレにいて…。
「あ」
「何?」とラーメンを啜りながら吉永が聞いてくる。
「変態…(の悪霊?)」
「はぁ?」と睨まれた。
「いや…トイレって言うから、そこで変態と遭遇してたのかもって」と誤魔化した。
「あぁ、変なこと言ってたし。でもデコピンで対応するかな? うーん…。小森ちゃんなら、しそうだな…」と吉永は納得したようだった。
 変態の悪霊だとしたら、もしかしたら十子ちゃんの様子が分かるのだろうか、と僕はふとさっき言ってたことを思い出す。肉体美の男性を紹介されて、結婚して…子宝…。気がついたら、箸が手の中で折れていた。
「あ、被害に遭ってたのかも?」と吉永は僕を見て言う。「明後日…出張する」と言うと、吉永が安心したように笑った。

 その日の夜、不思議な夢を見た。

「本当にあなたたちが大好きで、幸せ」
 誰かに抱きしめられる感覚がした。それだけで幸せだった。抱きしめられると暖かくて、そしていい匂いがして、それが何よりの幸せだった。
「理実も(しょう)も大好き」
 翔…。
 その名前がすとんと胸に落ちた。
「ママー大好き」
 幸せな頬擦りされる。それで心が全て満たされる。
 目が覚めたら泣いていた。
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