第46話 君が可愛かったから

文字数 3,049文字

 時を止めた魔法の言葉は「可愛かったから」だった。あまりにも驚くと、人間は固まってしまうんだ、と分かった。サラサラと風が木々を揺らす。光がちらちら揺れるのをぼんやり見ていた。
「か…わい? え? 私が?」と確認してしまう。
「あ…うん。…それで恥ずかしくなって」と中崎さんが照れたけれど、フォトジェニック過ぎる人に言われても、冗談にすら聞こえない。
 手にしていたピザまんを齧ると、私はもぐもぐもぐと口を動かして、喉へ追いやる。
(可愛くて、恥ずかしくなって、ぷい? …それって私のことす・き?)
 急に顔に血液が集まったように熱くなる。
(いや、待て待て待て。大前提がもし、万が一、億が一、兆が一、私のこと好きだったとして…、でも彼は結婚しないって決めてるんだから…)と考えても、鼓動は激しく、ずっと体温上昇し続ける。
「十子ちゃんが…連れて行かれて心配だったんだけど、目が合って笑ってくれたのが可愛くて…反射的に…。ごめん。気に障った?」
 反射的に…。反射。つまり、そこに意識はなかった。
「あ…いえ」
 鼓動の運動が緩やかにスピードを落としていく。顔に集中していた血流も、ゆっくり下に下がっていった。
(あー、あー、反射か。あるある。なんか、そういうことあるよね。うんうん)
「気に障った…ってことはなくて…。嫌われたのかなって」
「全然、ごめん。そういうんじゃなくて…中学生みたいな感じで」と中崎さんが照れた顔で言う。
(あー、あー、よかった。変な勘違いを口に出さなくて本当によかった。あるよね。目が合った瞬間、急に恥ずかしくて逸らしちゃうの)と私は自分に言い聞かせるように、しつこく反芻しながら、ピザまんを口に運ぶ。
「そう言えば、婚活アプリ登録したの?」
(ほらね。こういう話題を持ってくるってことは全く特別な意味はなかったってことなんだ)と私は大分、悲しくなる。
「えっと。まだです。っていうか、昨日、ずっと中崎さんと通話状態だったからそれどころじゃないです」とちょっと怒りを込めて言う。
「あ、そうなんだ。婚活アプリなんか辞めた方がいい。十子ちゃん、きっとすぐに変な男に騙されると思うけど」
(確かに。今の今で、私はすぐに調子に乗ってしまった)
「うーん。でもどうしても結婚したいんです。会社も出向とかチームリーダーとか…突然言われて」
「出向?」
「はい。でも部長は…チームリーダにならないか…とか。どうしていいのか分からないし、会社を辞める良いタイミングかなとか。それでアルバイトしながら婚活を始めたくて」
「婚活かぁ…。まだ若いのにね」と言って、ため息を吐かれた。
「私のお父さんとお母さんは学生結婚してて…。憧れなんです。もう学生じゃないですけど」
「でも…経験不足すぎて怖いから。じゃあまずはチャットをする友達から始めたら?」
「チャット?」
「そうネット上で会話する友達」
「怖くないですか?」
「だから…そう言うのも知らないと。十子ちゃんはネットでの出会いがどれだけ怖いか分かってないし。チャットでどれほど見抜けるのか…まずは婚活アプリの前で知っておくのも必要なんじゃない?」
「あー、これはネット恋愛の練習になるってことですね?」
「そうそう」と言って、中崎さんがどのアプリがいいのか調べてお薦めしてくれることになった。
「さすがです。いきなり婚活って無謀ですよね。やっぱり経験値を上げないと」と私が鼻息荒くそういうと、中崎さんは頷いた。
「そうそう」
 私はそれでどれだけ自分が未熟者だったのか、初めて知ることになる。
「それ、土曜日にレクチャーするから」と中崎さんに言われて、結局、ランチをして、チャットアプリの世界を体験することになった。

 そして今日は仕事が終わった後も中崎さんの家に行くことになっている。仕事を終わらせて、さすがに一緒に退社はできないから、私は駅前のスーパーで惣菜を見ていた。人の家で料理はできないけど、何か買って帰って、一緒に食べてもいいな、と思った。
「お寿司にしようかなぁ」と思いながら冷蔵ケースを眺める。
 しばらくすると「今、会社出たよ」と中崎さんからメッセージが届いた。
「今、スーパーでお惣菜見てます。何か食べたいのあったら買っておきます」と返信しておいた。
 そして決め兼ねてるので、ペットコーナーで猫ちゃんが大好きなおやつを選んだ。この半生タイプのおやつは評判がいいと言われている。カゴに入れていると、中崎さんが着いたらしく、果物売り場で待ち合わせることにした。
 柿、梨、栗、秋の果物が並んでいる。
「十子ちゃん。お待たせ」と言われた。
 スーパーでもイケメンは輝いていて、眩しく見える。
「中崎さん…。トラちゃんはこれ食べますか?」と私が買ったおやつを見せた。
「あー、どうかな? カリカリの餌を食べてたような気がするんだけど」
「じゃあ、カリカリ買いましょうか」と言いながらペットコーナーまで行く。
「あ、うん。やっぱり家にいるのかな」
「あ…。うーん」と私はちょっと考えたが、中崎さんはカリカリの餌をかごに入れて、かごを持ってくれた。
「後は私たちのご飯ですけど、何か食べたいものありますか?」
「え? 十子ちゃん、作ってくれるの?」
 今更、お惣菜にしませんか、なんて言えないくらい目が輝いている。もっとお母さんに料理を習っておけばよかった、と心から後悔した。
「あ、たらこスパゲッティだけは…作れますけど」と悲しい事実を教えた。
「へぇ。食べてみたいな」と言うので、材料を揃える。
 材料はニンニク、白ワイン、たらこ、パスタ、オリーブオイルというシンプルなものだ。まさか人様の家で作るなんて、と思ってもみなかったけれど、中崎さんは楽しそうにカゴに洋梨を入れて「食後のデザート」と言っている。
「後、お肉食べたい」と私が言うと、ローストビーフのパックも選んでくれた。
(おお。これなら一切の調理をせずに食べられる)と感動した。
「レタスも買いますか?」と聞くと「そうだね」と半分にカットされたものを入れる。
 まるで共働き新婚カップルの買い物…みたいだと妄想してしまう。トマトジュースも買ったり、中崎さんのビールを買ったりした。こっそり中崎さんの好きなビールの銘柄も知ることが出来た。二人でスーパーをぐるぐる回って、あれこれ見定める。特に買わなければいけないものはそれ以上なかったけれど、全てのコーナーを見て回った。
「柔軟剤とかどれ使ってるの?」
「えっと…うちではいつもこれです。匂いがきついのが苦手で」
「へえ。…お揃いにしてもいい?」と微笑みかけてくる。
「お…揃い? いいですけど。中崎さん…いつもいい匂いしてるから…」と、とんでもないことを言ってしまった、と自分で思ったけど、中崎さんは気にしないようでカゴに柔軟剤も入れた。
 中崎さんの横顔をこっそり盗み見る。形のいい横顔は本当に神様が作った奇跡、と輪郭を指で辿りたくなるくらいだ。私がじっと見ているのに気づいたのか、顔をこっちに向ける。思わずどきっとして俯いてしまった。
(あぁ、こういう反射…だ)と思った。
「楽しいね」と中崎さんに言われて、私も「はい」と素直に言ってしまった。
「そろそろ帰りますか? カゴもいっぱいだし」
「そうだね」
(これも将来、誰かと結婚した時の練習になるから…)と自分で言い訳をした。
 でもその後すぐに誰かと結婚して、一緒に買い物をした時、今のことを思い出すんだろうな、とぼんやり思って、胸が痛んだ。
 長いレジに並ぶのも二人だと少しも苦じゃなかった。
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