第42話 叶わない約束

文字数 2,630文字


 白いアトリエに来てくれた。時間で貸してくれるアトリは何もかもが白い。窓枠から切り取られた公園と空が見える。
「南実さん」
 青いホルターネックのワンピースが映える。何枚か撮った後「今度は私に撮らせて」と言ってカメラを取られた。
 僕なんて、背も低くて…君には敵わないのに…。
「もう少し笑って?」
 モニターには少し怯えたような顔をしている自分がいる。
「笑うの?」
「そう」と言って、頰にキスをしてくれた。
 驚いて、力が抜けような顔を撮ってくれた。君を失いたくなかった。何よりも君をー。写真が成功なんかしなければよかった。

 真夜中…私は起き上がった。

 あの部屋に飾られている写真は梶先輩が撮ったものだった。私は梶先輩によって毛布やら布団やらでぐるぐる巻きにされた。金縛りよりきつい。なんとか体を捩って、動けるスペースを作って、私は抜け出す。体調は少しましにはなっていた。
 暗い部屋を見回す。
 きっと梶先輩の部屋にいる。

 私はプライベートなことだから踏み込んでいいのか分からなかったけれど、ここまで執着していると、どっちにもよくない。どうしたらいいのか、私は考えたけれど、結局、先輩と話すしかない、と思った。
 とりあえず、体力温存のために私は眠りについた。

 こぽこぽ。何かが茹でられている音がする。
「十子、どう? 元気になった?」
「あの…ごほっ」といきなり咳き込んでしまう。
 また体温計を挟まれた。
「今日は休んだら? 私、会社に言っておくから」と言ってくれる。
 私は梶先輩を見ると、またドキドキしてしまう。
「十子? 今日は熱あるわ。37.6度。休みなさい」
 私は頷いてヨギボーの中に入り込んだ。そして中崎さんに会わないで済むのでほっとした。先輩は朝からお粥を作ってくれて、そして会社に出かけた。一応、私も会社に休む連絡のために電話した。昨日、倒れてるからすんなり受け入れられた。

 一旦眠って、昼すぎに起きて、用意してもらったおかゆを食べる。そこから私は検索の鬼のようにして、フォトグラファーを調べる。自称他称問わず、フォトグラファーは多すぎる。諦めて、画像で判断してもらう機能で探してもらうことにした。素晴らしい現代技術。すぐに似ている人物が上がってきた。その中から写真家を見つければよかった。

 そのフォトグラファーは真田直人(さなだなおと)と言った。
「真田直人という写真家はごく平凡な景色を恥ずかしげもなく堂々とありふれた視点で切り取っている。人物についても、そのモデルが美しいから成り立っているだけであって、写真家の意図も創意工夫も感じられない。ここまで没個性家の写真家が珍しいのだろう。先の受賞はきっと稀に上手くいっただけに過ぎない」
 この酷評がきっかけとなり彼は死を選んだ、と書かれているブログを見た。
「え?」
 私は呆然として、携帯の記事を眺める。
「たった…これで?」
 いや、人には人の思いがある。仕事をこんなふうに言われて…。
「でも…」

 私は夢でこの人になっていた。この人は写真が好きで、もちろん個性的ではなかったけれど、誰もが見たい、誰もが見慣れた風景を愛していた。この酷評は彼がしてきたことをちゃんと受け取っている。彼のメッセージがきちんと届いているようにも思えた。
「真田さん…。どうして? だってあなたは梶先輩のことを愛してたのに…。今だって、執着するほど…側にいるんでしょう?」

 西日が部屋に差してきた。静かで、私一人この部屋にいるみたいだ。結局、私は眠ってしまって、梶先輩のメッセージを既読することもできなかった。

「パリに行くんだ
 カフェのテラス席。向に梶先輩がいて、炭酸水にレモンが入っているのを飲んでる。今日はボートネックの薄黄色のサマードレスを着ている。それが驚くほど似合っていて、私は見惚れてしまう。
「え? パリに写真を撮りに?」
「そう。個展もしてくれるって」
「すごい」
「まぁ、小さなカフェなんだけどね。でも…嬉しいよ」
「すぐに帰る?」
「写真を撮って…それから個展して…ちょっと色々、歩いて…。二ヶ月くらいかな。待ってて。帰ってきたら…」
「え?」
「帰ってきたら、南実に伝えたいことがある」
「伝えたいこと?」
「まぁ…待ってて」
 ずっと、待ってて。
 絶対に…。
 君といたいから。

 ドアの開く音がする。目を開けたいのに、どうしても重くて開けられない。でも意識はある。
「あー、まだ寝てるわ」と梶先輩の声。
「大丈夫ですか?」となぜか中崎さんの声もした。
 飛び起きたいのに、起きなきゃ、と思っているのに、私は泥に掴まれたように目が開けられない。

 暗い部屋だ。街灯の灯りがうっすら部屋に入ってくる。
 どうして…君に会えないまま。
 悔しい。
 あいつのせいで。
 あいつの…。

「十子」と梶先輩の声がする。
 起きたいのに、目を開けたいのに…、と頑張ってみるが、また意識が引き戻される。

 許せない。
 許せないよ。自分も。あいつも。
 白いロープを手にした。

「うなされてる…。十子ちゃん、十子ちゃん」
 中崎さん…と思った時、目が開いた。
「十子ちゃん、大丈夫? 汗ひどい」
「ど…し」
「心配で、様子を見にきた。先輩、お水ください」と言って、私の体を少し支えて起こしてくれる。
 梶先輩がくれたグラスを受け取って、一口飲んだ。
「顔色…朝より最悪なんだけど、大丈夫? 病院行こうか」
 梶先輩の顔を見て、私は涙を零した。
「会いたかった…」
「え?」と梶先輩は不思議そうに私を見た。
「愛してる。愛してる。愛してる…。どんなに会いたかったか」と私は止まらなかった。
 まるで口から何かを吐き出すような勢いで言う。驚いたような顔の二人を見て、私は何を言ってるんだろう、と頭の片隅で分かっている。分かっているのに止められない。
「愛してる。本当に愛してる。君に…伝えたいことと…それから…あ、あ。でも…。君と…ずっと一緒にいたかった。それなのにごめん。ごめん。ごめん」
「十子」と梶先輩が目を開く。
「南実…。君を心から…愛してる」
「さ…な…だ…さん」
 梶先輩の目を見ながら、私は「やっと届いた」と言う気持ちとまた急に意識が飛んだ。


 ぼそぼそと喋る声が聞こえる。
「実は前から…十子ちゃんは…梶先輩のことを心配して。…でもこれ以上は放っておけないので、何があったのか教えてください」
 私は体を動かして、起きているアピールをした。
「十子、大丈夫?」
 駆け寄ってくれる梶先輩に手を伸ばして「私も…聞いていいですか」と言った。
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