第67話 キスまでの距離

文字数 4,674文字

 晩御飯は中崎さんと一緒にハンバーグを作った。もちろん、レシピを見ながら作ったのだけど、思ったより上手にできた。お店より美味しそうに見えるのは気のせいだろうか。赤ワインソースがツヤツヤでハンバーグを飾っている。
「ここで一人暮らし修行できますね」と中崎さんに言うと、ちょっと寂しそうに笑う。
「じゃあ…先生って呼んでもらおうかな」
「はい。透馬先生」と言うと、中崎さんは箸を落としそうになった。
 言われたことを言っただけなのに…と私は中崎さんの方を見ると、また顔を背けられた。調子乗りすぎたかな、と反省しつつ、ハンバーグを口に入れる。肉汁を赤ワインソースの芳醇さが口の中に広がった。
「美味しいです。先生」
「もう先生はやっぱりいいから」と顔を背けたまま言われた。
 ちょっと寂しい気持ちになりつつ、ご飯を食べ終え、片付ける。片付けも一緒にして、まるで新婚みたい、と私は一人で盛り上がっていた。
「透馬さん…。ホテル予約しましょう」
「え?」
「ほら、日帰りは大変だから、ホテル」と私がお皿を拭きながら言う。
「あ…あぁ」とお皿を注いでカゴに入れる。
「気がついたら、来週末なんですから。来週、私、月曜日から部屋探しして、なるべく早く戻って来ますから。そのホテルも取らなきゃ。安いサイトで調べてみましょうか?」
「十子ちゃん、やっぱり名前呼びが恥ずかしくて…」
「え?」
 様子が変だと思ったら、名前呼びのせいだったとは思わなかった。でも私はおやすみとおはようのキスがかかっているので、簡単に諦めきれない。
「でも…慣れますよ? 私だって、最初は驚いたんですけど、今は普通ですから」
「…いや、ちょっと恥ずかしくて」
「そんなのダメです。約束破ることになりますよ?」
「約束?」
「そうです。おはようとおやすみのキスです。おはようもお預けされてます」ときっちりカウントしていることを言った。
「キスって…すごく拘ってるけど…」
「それはそうです。だって…出向までに中崎さんとキスしたいです」と欲望を素直に言ってみた。
 それぐらいはしてくれてもいいと思っていた。それこそ、減るもんじゃないし、とすら思う。でも中崎さんは大きく目を見開いて私を見る。
(あれ? 欲張りすぎたかな)と首を傾げて、中崎さんを見上げる。
「…おはようとおやすみのキスはどこにしたらいいの?」と中崎さんに聞かれる。
 私はお皿を拭いて、戸棚にしまう。そして布巾を畳んで、流しに置いた。
「ちょっと待ってください」と言って、私はキッチンのスツールの足の補助板のところに足を乗せて、中崎さんと同じ目線になる。
 椅子に昇って、中崎さんの前に立って腕をくむ。そして少し悩んで、「おはようは『頬』」と中崎さんの頬を指で軽く押して、「おやすみは『おでこ』」と言って、綺麗な前髪を書き上げる。男前の顔がばっちり見える。思わず見惚れるけれど、一瞬、良からぬことが思い浮かぶ。このまま私がキスしたらいいのでは、と目の前にあるハンサムの唇を見た。そこに私の唇をつけるだけで念願叶う。前髪を押さえている手を頬に添わせて、見つめ合う。
(キスしていいですか?)と私は誰に聞くでもなくそう思って、もう片方の手を反対側の頬に…と思った瞬間、バランスが崩れる。
 悪いことを考えると碌でもないことが起こる。椅子から落ちそうになった時、中崎さんに腰をぐっと掴まれて、抱き止められた。スルスルと地面に着地させられる。
「危ないなぁ」と中崎さんの声がする。
 すっぽり腕の中に収まっていた。
(あー、後少しだったのに…)と奥歯を噛み締める。
「十子ちゃん…。朝の分」と頭のてっぺんに髪越しにキスされた。
(なんか…思ってたのと違う)とは思ったけれど、それはそれで心地よかった。

 そして中崎さんがお風呂に入ってる間に、私はホテルの検索をしていた。ホテルはやはり二人部屋の方が安いのだが、そこを予約するのは何だか憚られる。こうして同じ部屋で寝るのだから、同じことかも知れないけれど、とは思いつつ、躊躇する。私は検索に疲れてゲームをしようかと思った時、ふとアイドルを検索すると言うミッションを思い出した。最近ゲームも全然できていないし、今からイベントに復帰しても間に合いそうにない。そこでアイドルを検索することにした。でもアイドルだけでは女性アイドルがたくさん出てくる。イケメンアイドルを検索してみたが、少しも気に入る人が見つからない。
 私は携帯をそのままにしてソファの上で丸まった。トラちゃんが近くに来たような気がしたけど、そのまま眠ってしまった。

 夢の中でトラちゃんが必死に訴えてるけど、何故か猫の姿のままだ。鳴き声だけど、何も分からない。
「餌交換?」と思ったけれど、ついにはトラちゃんは前足で私の手に何度もタッチする。
「手?」と思った時、
「十子ちゃん、風邪ひくよ」と中崎さんに起こされる。
「あ。シャワーお借りします」とのろのろと起き上がった時に、手にしていた携帯を落としてしまった。
「ホテルいいの見つかった?」
「それが…」と私は画面を開いて見せたページは男性アイドルを漁っていたページだった。
「十子ちゃん?」と中崎さんの眉間に皺が寄った。
「あ…それは」と携帯を取り戻そうとしたけれど、ちょっと悲しそうな中崎さんの顔が見える。
「十子ちゃんの好きなアイドルは…誰?」
「好きなアイドルはいません」と勢い込んで返答する。
「…でも」
「これは、中崎さんにやきもちを焼いてもらう作戦です」と正直に言う。
 だって、あんなに悲しそうな顔をされたら、私まで辛くなってしまう。
「やきもち?」
「はい。やきもち焼いてもらって…好きになってもらう作戦です」
「作戦…」と力の抜けた声で聞き返される。
「はい。そうです」と私はなぜか力一杯答えた。
中崎さんはしゃがみ込んで、私の頭をぽんぽんとして、
「作戦は成功です」と言った。
 今後は私が驚く番だった。そして偉大なる魔法使い吉永さんに感謝する。きっとキスまで後少し、と私は思って立ち上がる。
「お風呂、お借りします」と起立して、思い切りお辞儀をして、シャワーに向かって、私はるんるん気分だったから、中崎さんのため息に気が付かなかった。

 お風呂から上がると、中崎さんがドライヤーを持って待ち構えてくれていた。そして髪の毛を乾かしてくれる。とっても気持ちよくて、私はうっとりしてしまう。
(全世界の皆さーん。イケメンが髪の毛を乾かしてくれてまーす)と世界中に配信したい気分になる。
「十子ちゃん、ホテルの件だけど…」とスイッチを切られて話しかけられた。
「あ、そうです。あの…部屋…、一緒でもいいですか?」と私は調子に乗って、聞いた。
「そうしてもらえると…ありがたいんだけど」
「え? 安くなるからですか?」
「まぁ、そうだけど。ホテル…怖いから」
「えー?」
 聞くと、営業での出張で泊まるホテルは何だか怖くてよく眠れないという。もちろん会社の経費なので高いところではないが、旅館ではなく、ビジネスホテルなのに、怖くて眠れないことが多いのだ、と言う。
「じゃあ、私でよければ、ご一緒します」と宇宙一調子に乗った私は返答して、ホテルを二人で検索した。

 ホテル代は中崎さんが出してくれた。私はその後、自分が家探しのための宿泊施設を探す。ホテルだと高くなるし、二、三日は居たいので、キッチンが付いている民泊のようなところを探した。
「十子ちゃん…。一緒に行こうかな」と中崎さんが言う。
「本当にお休み、取るんですか?」
「うん。まぁ、取ってもいいし…。ちょうどそっちの工場に仕事の都合もあって」
「え? 缶詰工場に?」
「そう。今度、おしゃれなデザインのパッケージであたらしい缶詰を作って、気軽なワインパーティのおつまみができるような感じで考えてて。話はしに行くつもりだったんだ」
「あー、そうなんですね」
「だから行こうかな」
「中崎さんはビジネスホテルで一人…ですね?」と私は怖がっているからちょっと心配した。
「まぁ、それも…一緒じゃだめかな?」
「えー。経理が通しませんよ」
「じゃあ、十子ちゃんのところに泊まりに行っていい?」
「うーん。いいですけど」
「半分出すから」
 私は頷いて、海の見える民泊を決めた。空き家を丸々貸している人がいたので、そこに決めた。中崎さんと小さなスマホを覗き込んでいるので、肩から腕が触れ合っている。入力する指が少し震える。
「寒い?」
「あ…ちょっと」と言うと、中崎さんはベッドから毛布を持って来て私を包んだ。
 暖かく包まれながら、入力を終えると、中崎さんがあったかいお茶を淹れてくれる。
「ありがとうございます」と私は受け取った。
 素敵な笑顔だったから、私はこぼしそうになる。その手を上から支えられて、思わず心臓が跳ねた。
「歯を磨いてくるね」と中崎さんは私を置いて行った。

 毛布にくるまってお茶を飲む。体が暖かくなって、私は幸せだった。来週の家探し旅行が楽しくなるといいな、と思った。そしてベランダに出る。星が綺麗にまたたいている。そろそろ空気が澄んで綺麗に見える季節だ。私は星に願いを込めた。
(中崎さんとキスできますように)
 カラカラとベランダのガラス戸が空いて、中崎さんが洗濯物を抱えて出てきた。
「寒くないの?」
「あ、私が干します」と急いで洗濯物が入ったかごを奪う。
 もうクマのパンツは封印したけれど、やはり恥ずかしい。
「クマの時はごめんね」と恥ずかしい記憶を重ねて謝られる。
「あ、あれは…その」
「なんか、可愛い絵の布だなって、ふと思って…」と中崎さんも赤い顔で言う。
 取り出してしげしげと見てしまったそうだった。洗濯物を干しながら、なんでこんなに曝け出してるのに、距離が縮まらないんだろう、と気持ちが焦る。
「中崎さん。クマのことは忘れてください」と私は中崎さんのパンツを握りしめながら言ってしまった。
「それ…僕の」
「あー」と慌てて振り回して、シワを伸ばす。
 素早く干して、自分のパンツを取り出す。何の飾りもないベージュだった。これをレースのに変えたりすると、関係が進むだろうか。今度、恋愛の大魔術師の吉永さんに聞いてみよう、と思った。
「十子ちゃん」
「はい…?」と洗濯物を干していたから、そのまま後ろ向きで返事する。
「クマも含めて、可愛いと思う」
「え? レースとかじゃなくていいですか?」
「レース? は…」と中崎さんを困惑させた。
 私はクマがお似合いなんだろうか、とちょっと悲しくなる。洗濯物を選んで、中崎さんも干してくれる。
「ごめんなさい。似合わないですよね」とタオルを干していると、中崎さんにはっきり言われた。
「男にそういう想像させるようなことを言わないの。十子ちゃんは全く…」
(想像するのだろうか? 中崎さんが?)と私は思って、顔を見る。
 ちょっと怒ったような顔をしているので、私は素直に謝った。
「じゃあ、ちょっと星でも眺めませんか?」
「星?」
「ほら、綺麗ですよ。ロマンティックです」と言うと、洗濯物を干し終えて、中崎さんも空を見る。
 二人で星を眺めるなんて、ロマンティックだ、と私は思ったけれど、背景は洗濯物で、私の色気のない下着が風に揺れていた。レースの方がまだマシなのかもしれない、とやっぱりその考えに至る。
 広い宇宙と、洗濯物…。私はぼんやりレースのことを考えていたけれど、中崎さんは私よりロマンティックな考えだった。
「会えて…よかった」
 そう言われて嬉しいけれど、まるでお別れ前提のような言葉が悲しい。でも出向するのだから、お別れなんだな、と胸が詰まった。
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