第1章 第11話

文字数 1,430文字

「金光さん」

「何?」

「アンタ、馬鹿ですか?」

 ここは有楽町にある、俺の勤める小さな旅行代理店『鳥の羽』。痛い社名とは関係なく、そこそこ有能な若手主体の社員がそれぞれのスキルを発揮し、業績も中々のものである。

 俺は昨年、もともと勤めてきた銀行から転籍を打診され、この会社に専務取締役でやって来た。当初、というかこの春まで俺はこの業種を知ろうともせず、彼らに溶け込もうともせず、漠然と過ごして来た。

 それがこの春先のちょっとした事がキッカケで俺は少し変わり、それに呼応するかのように数名の社員と関わりを持つようになった。その内の最も俺と距離が近いのが、今俺を激しく罵倒している山本くんだ。仮にも直属の役員に対し、馬鹿は無い。

 俺は大人気ないと思いつつ、少しムッとしながら
「今、何て言った?」
 山本くんは更に険しい顔で、
「馬鹿ですか? と申し上げましたっ」

 銀行時代、俺に対しこのような態度の人間は一人もいなかった。俺でさえ、ホンモノの馬鹿な上司に対して面と向かってバカと言ったことはない。山本くんが少し羨ましくなる。

「では、俺が君にバカ呼ばわりされる理由を具体的に言ってくれ」
 すると待っていましたとばかりに山本くんが捲し立てる。その勢いの凄いこと…

「あなたねえ来月ですよしかもお盆ですよそれで二十名様お一人九八〇〇円で二食付きしかも送迎付きって平成ですよ平成昭和中期じゃ無いんですよしかも日光ですよね丸一個足りませんからホント舐めてますねしかも…」

 本気だ。マジでキレている。俺は若い社員をキレさせてしまった…

「ちょ、ちょっと待て。分かった。済まなかった。俺が本当に無知だった。この通りだ…」

 頭を深々と下げ、銀行員時代に培った、本当は全然思ってないけどマジで申し訳ありませんでした、の姿勢を彼に対してとる。すると

「―なんか言い足りませんが… 分かってくだされば…」
 と溜飲を下してくれたようだ。流石、俺。

 そうか、そうだったのか。俺は本当に無知だった。旅行業界では八月のお盆とはそのような位置付けなのか。そんな事も認識していない俺は本当に馬鹿だ。

 しかし、己が馬鹿である事を知らない人間に成功はない。バカと知り得て初めてその先に大いなる成功があるのだ。そして銀行時代、俺がトントン拍子の出世を勝ち得た理由の一つが、部下を煽てて脅して最大限のリターンを俺にもたらす仕事をさせて来たからだ。

 有名大学を優秀な成績で卒業してきた若手銀行員に比べたら、山本くんを煽て脅すなんて屁のカッパだ。言い換えれば『ど楽勝』と言うヤツである。

 俺は本当に済まなさそうな表情で、声のトーンを落とし、
「済まなかったな。いや、先月、先々月とあれだけの仕事をしたキミだから、こんな事くらいお茶の子さいさいだと思ってしまったんだ… 本当に申し訳ない」
「え… いやあ」
「あんな凄い高級旅館と交渉してさ、いとも簡単に仕事持って来て… そしてあんな立派な企画書。うん、銀行にもいなかったよ、キミみたいなタフネゴシエーターは…」

 チラリと山本くんを眺めると、喜色満面だ。よしよし、引っかかったみたいだな。
「あはは、そんなー かっけー」
 ここまで有頂天になれば、あとは楽勝だ。
「今夜さ、空いているかい? お詫びとこれまでのお礼にさ、一杯ご馳走したいと思って」
 ガッツポーズを決めながら彼は叫んだ。
「やった! 喜んで! ウエーイ」

 俺はすぐにスマホで予約の取れない人気店の、今夜のテーブル席を予約した。
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