第2章 第3話

文字数 2,025文字

「かっ か かね かねみ かねみてゅ かねみてゅ専務―」

 目は虚で、とても正常な人間とは思えぬ表情だ。

「…… どうした、山本くん?」

「ひっ 御免なさい御免なさいー うわーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 全社員がこちらをガン見している。女子社員が俺を睨みながらコソコソ話している。社長室から若き社長が顔を覗かせている。まさか、ここまでクイーン効果が彼の心を蝕むとは…

 あの夜の翌日、彼は無断欠勤した。

 土日を挟み今日は月曜日、彼は出社した。げっそりと痩せ細り、目の下に黒い隈を作り、服はシワくちゃ。髪はボサボサ。しかもちょっと臭う。このまま心療内科に連れて行くべきだろうか悩んでいると、

「こ、こ、こ、コレで勘弁してくださいっ お願いしゃすっ こ、こ、こ、これ以上無理っす 頼みますっ ひいーーーーーー」

 数枚の企画書を俺に放り投げ、彼は出て行った。俺はそれを拾い上げ、サッと目を通す。いつもとは比較にならない乱雑さである。だが、要点はまとまっており、俺は何度もなるほどと頷いてしまう。
 後で彼をとっ捕まえて、鰻でも食わせてやらねばなるまい。

「成る程。日光、ではなく、鬼怒川、ですか」
 社長の鳥羽が大きく頷く。
「鬼怒川って日光に近いんですかね? でもまた何で鬼怒川なんでしょう?」
 その位置関係も分からず、俺は首を傾げていると、
「あれ専務、ご存知ないですか? 最近ネットでも廃墟ホテル、とかで割と有名なんですよ、鬼怒川の荒廃ぶりが」

 俺は社長室で若き社長と語り合っている。この会社のメインバンクである東京三葉銀行から押し付けられた俺を彼は未だに敬ってくれる。確かに歳が15近く離れてはいるし、メインバンクの元支店長級の人材なので仕方ない。

 一年ほど前に転籍して以来、彼は変わらぬ接し方である。殆どこれといった仕事をしなかったこの春までも、それ以降も。

 俺たちは互いにざっくりとした経歴は認識し合っているが、それ以上のこと、例えば趣味、好きな食べ物といった事を知らない。まあどちらかと言えば、俺が知ろうとしてこなかったのだが。

「そう言えば社長も旅行、温泉、好きなんでしたっけ?」
「旅行は大好きです。私は登山が大好きなのです。温泉は、まあ有れば入ってみようかなって感じですかね」
 ああ、そう言えば風の噂で何となくそんな話を聞いたな、なんて思いながら、
「じゃあ、好きな事を仕事にしたんですね?」
「はい。登山仲間やバックパッカー仲間で立ち上げたんですよ、この会社を」
 全く。この会社がサークル、部活の延長線上なのは今も変わりがない。

「そう言えば山本くんも?」
「はい。と言うか、社員の殆どがそうじゃないかな。専務と営業の三ツ矢部長くらいですよ、とくに旅行好きでない社員は」
 それってほぼ全員が、と言うことだよな、と思いつつ、
「…何故、僕を? 銀行に無理やり押し付けられたから?」
 鳥羽はとんでもございません、とばかりに首を大きく振りながら、
「何人か候補を頂くんですよ。その中から、その方の経歴と趣味を見て、決めました」

 それは知らなかった。軽い面接はした記憶があるが…
「旅行が趣味、って方多いんですよ、特に五十代以上の方は。なので敢えてそうでない方を。それが金光さんでした」
「意外でした。それはどういう意向で?」

「僕らは所謂『旅行キチガイ』なんです。旅に出るために働き、旅の終わりには次の旅を渇望するんです。なので、しっかりと会社に根を張れる、どんなトラブルにも動じない、流行り廃りにも動じない。フラフラしがちな社員社風を厳かに見守れる。そんな人材がどうしても欲しかった。ふふ、ご自分でもピッタリ当てはまると思いません?」

「過大評価ありがとうございます」

 やはりこんな小さな会社でもトップに立つ人間の人を見る目は流石だ。彼に言われるでもなく、俺のこの会社での立ち位置はそんなところだ。
 この数ヶ月、日に日に居心地が良くなって来ている。

 社長にヒントをもらい、今回のミッションの突破口を了知した。人気の落ちたかつての有名温泉街ならば盆前でもチャンスはある。然し乍ら俺には土地鑑が全くない。ホテルや旅館にツテもない。山本くんをこれ以上働かせたら、屋上から飛び降りるか会社を去ってしまうかもしれない。

 これは、あの方のお力を借りるしかあるまい。
 ISSAという世界的な温泉評価団体がある。そのシニアインスペクターの泉氏とは、ある出来事以来仲良くさせて貰っている。病気で入院していたのだが、先日無事に退院したとの連絡をもらっていたので早速連絡を取る。

 彼は立場上、旅行代理店『鳥の羽』社員としての俺と会うことは出来ない。だが、ただの温泉仲間の金光となら自由に付き合えるのだ。
 前に入手した彼の個人連絡先へ、自分のスマホから自分のアドレスで連絡する。退院したばかりで暇なのだろう、すぐに連絡がつく。

 そして今夜『居酒屋 しまだ』にて、快気祝いのご接待の約束を取り付けた。
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