第1章 第5話

文字数 1,738文字

 クイーンの温かさは俺に勇気をくれる。先生の熱さは俺に力をくれる。俺は一人カウンターに座り、キンキンのビールを喉に流し込む。店はまた笑い声が溢れ出し、一人また一人懐かしい教え子が店にやって来ては、先生に熱く歓迎されている。

 隣にクイーンが座る。今夜は忍に全部任せるつもりらしい。店は貸切りにしているようだ。

「たまんねえな…」

 泣き腫らした、然し乍ら初めて見る、優しい目で俺に言う。

「ああ。たまんねえ…」

 妻の里子が急逝してからこの三年間で、これ程心打ち震えた事は無かった、いや今までの人生でもこんな事はあったのだろうか。高校生の時以来だろうか。

 里子が死んだ時も俺は涙一つ溢さなかった。梅雨入り前にクイーン、葵、クイーンの孫であり葵の彼氏の翔と四人で箱根に行った帰りに、目が曇ったのが何年何十年ぶりの涙だった。

 そして今。本当に何十年ぶりに心穏やかな心境にいる。多分隣の彼女も同じだろう。共に滂沱の涙を流し、それぞれに抱えた苦労、苦悩、穢れ、煩悩が洗い流された。

「すげえな。やっぱ」
「ああ。俺らにはもったいない恩師だ」

 酒が入るに従い、店内は徐々にカオスと化してくる。序盤の感動の再会は何だったのか… あちこちで思い出したくもない過去話が飛び交っている。かと思うと、至る所に地雷が敷設されており、自分以外は全員敵状態だ。

「練習、キツかったわー 毎週ゲロ吐いてたよな」
「そうそう。体育館の出口にバケツ用意してな」

 バスケ部の小室と清水。三年前の里子の葬儀の時に来てくれた。今もこの界隈に住んでいるので、今回誘ったら渋々来てくれた。何でもクイーンがおっかなくて逡巡していたらしい。どんだけ彼女は恐ろしい存在だったのだろう。

「そりゃあ、江東区シメてたからな…」
「いや… 台東も葛飾も…」
「大江戸連合だっけか… 何百人も束ねてたんだよな…」
「いや千人超えてたろ…」

 こいつら何を言っているんだ。いくら『深川のクイーン』とか呼ばれてたにせよ、精々地元を束ねていたに過ぎないだろうに。

「オマエら… そんな漫画みたいな話あるかよ。おーいクイーン、ちょっとこっち来てくれや」
 二人は急速に青褪め、
「え、ちょ…」
「ゲッ マジ?」

「何だオマエら、そんな端っこでー」

 クイーンがビールジョッキ片手にフラフラとテーブルにやってくる。小室がゴクリと唾を飲み込み、清水は視線を泳がせる。おい、俺たち今幾つだよ… いい大人がそんなにビビってんじゃねえよ…

「いや、こいつらがさ、お前が何とか連合やら千人束ねてたとか、夢物語を語るからさあ」
 クイーンは懐かしそうな表情で、
「おー、懐かしいな。二千人な、市川と船橋入れて」

 なん…だと…? 二千人、だと…

 こ、この女がかつて、二千人の不良達を仕切っていただと…
 俺は開いた口が塞がらず、呆然と彼女を眺めている。
 小室と清水が然もありなん、と頷きながら、

「やはり…」
「あ、あの、島田さんってさ、レディースのヘッドだったんですよね…?」

 レディースとは、女子だけで構成された暴走族のことである、とこの店で忍に教わった。
「んー、ヘッドっつうか、幹部な。『深川メデューサ』ん時な。いやー、あん時は育児忙しくってさー、途中で抜けたんだわー」
「い、育児…!」
「族を… 育休ですか…?」
「そ。あん頃は忙しかったわー 母乳で育てたしなあ」
 二人は目を見合わせ、
「さすがですっ」
「おみそれしましたっ」

 クイーンに深々と頭を下げる。その姿を苦笑いしながら
「んだよ、意味不―」
「いや、俺らバスケ部だったじゃないすか、マジ島田さん怖かったんですよー」
 清水が恐る恐るカミングアウトする。
「一度島田さんに見惚れてたら、『何ガン飛ばしてんだコラ』って… 殺されるかと思った…」
 小室も恐る恐る淡い思い出を語りだす。だが、見惚れる、と言ったか? は? 見惚れる?

「は? 何で見惚れんの?」
「そりゃー、なあ」
「おおー、そりゃーなあ」

 俺は頭にハテナマークが浮かぶ。クイーンに見惚れる? 何じゃそれ?

「は? だから何なんだよっ」
「何つうか、明菜的な?」
「イヤイヤ、三原順子チックな?」
「へ?」

 俺とクイーンは真顔で首を傾げる。

「だから〜、マジおっかなかったけど、超絶美少女だったじゃないッスか!」
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