正義

文字数 2,668文字

つい先程まで、とある目的地へとまっすぐに向かっていた。教えられた道を、疑いもせず直向きに。けれど、ふと、何もかもがどうでもよくなって、進む目的も、時間も忘れて、道端で大通りを眺めていた。

ここではない、どこかへ行きたい。

陸でも空でも地獄でもいい。
此処じゃないどこかへ行きたい。

やめたい、全部。



「あの、すみません」

そっと声を掛けてきたのは、スーツ姿の若い男性だった。

「初対面で大変申し上げにくいのですが」

道を聞かれるのかと思った。

「少しだけ、お時間いただけませんか」

こちらは何も答えなかった。

「すぐそこに、居心地のいいカフェがあるんです。息抜きがてら、よかったら、ぜひ」

そう言って笑みを深め、歩き出す彼。無理強いはされていないようだ。けれど、なんとなく、その背中を追いたくなった。

騙されるかもしれない。それでもいい。
この先にあるひとときが、救いの手であったなら。そう願わずにいられなかった。

そして辿り着いたのは、広々としたカフェテラス。大きなオフィスビルの一階に位置するそれは、外部の客にも開かれているらしい。スーツ姿の面々が大半を占める中、ひと気の少ない空間を狙ってテーブルを選ぶ彼。少し待てと言い残し、席を離れた。

去り際、その左手首に光る、ロイヤルブルーのブレスレット。

ああ、そうか。

ここはただのカフェではなく、五街(いつまち)ガーディアン・ステーションに併設されたカフェ。一般人の私が、こんなところにご縁ができてしまうなんて縁起が悪い。私の人生、全てにおいて、出来が悪い。

彼は、ただの人ではなく、捜査官(ガーディアン)だ。
これはたぶんお誘いではなく任意同行で、私は、疑われている。
何もしていないのに。

そうだ。やっぱり私の人生、呪われている。

「お待たせしました」

彼は私の目の前にペーパーカップを置いた。風に乗ってふわり、カフェラテの香りが立ち上る。対面して座る彼はブラックコーヒーが好みらしい。まあ、どうでもよいのだけれど。

「あ、ごめんなさい。アイスの方がよかったですか?」

答える必要性を感じられず、無言で口をつける。

「そうそう。もしスイーツお好きでしたらおっしゃってください。ここの商品はどれもハズレがないと、同僚が太鼓判押してまして」

それにも答える気になれず、視線を下げたまま聞き流した。無駄な前置きはいらないから、早く本題に向かって欲しい。早く私を、裁いて欲しい。お前の人生はお先真っ暗だと、望みを持つだけ無駄なのだと、断罪して欲しい。

「あの」

爽やかな風がゆるり、吹き抜けた。

「余計なお世話だったらごめんなさい。けれど言わせてください」

「         」

「明日が嫌いになること、ありませんか」

「         」

「俺はあります。正確に言うと、ありました、ですかね。少しだけ、こちらの話をさせてもらってもいいですか」

彼はもう一度コーヒーで喉を潤す。まるで気持ちの準備を整える儀式みたいだ。

「少し前のことです。当時の俺は幼くて、浅はかで、それでいて正義感だけが強いやつで。これが理想だと追い求めたものが本当はただのエゴでしかなく、結果として、それを掴んだ瞬間に、自分の手で未来を粉々にしました。自分で自分に克ちたくて、臨んだことなのに。壊してから気づくなんて、ホント、バカですよね」

そこで浮かんだ笑顔を見るに、過去はまだ尾を引いている。けれどきっと彼はもう、そこに縛られていない。穏やかな眼差しに、自信が戻ってきている。

「事後しばらくは、明日が来るのが怖くて。壊したものが、まだ壊れたままそこにあるかと思うと、やるせなくて。自らの手で犯した失態なのに認める勇気もなく、もうこんな自分と、誰も付き合いたくないだろうなって、思って。だから明日が嫌いでした。大嫌いでした」


迷いのない足取りを見せる人にも、その内側にはきっと、葛藤がある。
ただ、その片鱗を見せないことに長けている。

そして、悲しいかな、そういった人ほど、傷痕がいっぱい。
ただ、傷痕は、その眼差しを美しくする。


「今は、明日とも仲直りしましたよ。あ、でも、必要以上に早く来て欲しくない気持ちは変わらないかもしれません。今日この瞬間やりたいことが、たくさん待っているので。やりたいことを気の済むまでとことんやり尽くすと決め、行動に移すことを、自分に認めることができたので」

やりたい、こと。
私の、やりたいことは。

「ようやく、ですけどね。まあ、俺の場合それは仕事なので、四六時中好きなだけ時間を割けるわけです。ありがたいことに」

ようやく顔を上げ、その瞳を見つめることができた。
爽やかな青空のような光が宿っていた。

彼は笑って言った。

「あなたのやりたいようにできていますか。無理が祟っていませんか。制限なく望んではいけないと、押さえ込んでいませんか。いいんです、好きなことを好きと言って。何も悪くないんです、無理なことは無理と跳ね除けたって。俺は、ご自身の願いに忠実に生きる人を、大人気(おとなげ)ない大人だとは思いません。むしろ、ひたむきに自身の正義(ねがい)を貫く姿が潔く、気高く、最高に魅力的だと思います」

「         」

「ああ、それと。願いには想いがこもります。想いは見えませんが、人の心を惹きつけます。素晴らしいと思いませんか。願いに、いえ、自分に忠実であるだけで、魅力が増すなんて。……まあしかしながら、本人にはその魅力が不可視で知覚しにくい側面は否めませんけどね。それに、俺の願いたる仕事は煙たがられる場合がほとんどですし。ハハハ」

ああ、なんて優しい笑顔だろう。

「なので、人によって受け取り方は様々でしょうけれど、俺は、あなたにのびのびいてほしいです。そうやって、気楽に、幸せの伴侶になっていってほしいです」

「         」

「ね?」

「……っ……はい……」

「はい。その調子です」

彼は立ち上がって言った。

「さて。お誘いしておいて申し訳ないのですが、これから捜査に出ないとならないので、この辺で失礼します。ああ、好きなだけゆっくりしていってください。ここは出入り自由、誰もあなたを急かしませんから」

大きく頷いて返事をする。すると彼は何か思い出した様子で先を続けた。

「それと、忘れないでください。欺きは罪ですからね」

「…………?」

「本心偽造、言い訳 幇助(ほうじょ)。ご自身を欺き偽ることは、この世で一番重い罪。どうか忘れることのなきように」

そして去りゆく背中を呼び止めた。

「あ、あの。お名前は?」

「いえ、名乗るほどのものではありません。強いて言うなら、ガーディアンとして正義を護る者。もし、運よくまたお逢いできたら、そのときに」

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み