85.エピローグ:シュクヤムビ(前編)
文字数 5,413文字
母が泣いている。
遺体の無い棺に手をかけて、声を殺して肩を震わせている。
祭壇に設置されたディスプレイには、元気だった頃の姉が笑っている写真が次々と映し出されていた。
父も沈痛な面持ちでその母の背に手を置いている。
何を悲しむのだろう?
別に俺が薄情なわけじゃない。
姉がいなくなってから5年。
両親は姉が帰ってこないと見切りを付け、姉の葬式を出すことにしたようだ。
正直、無理にキリをつけることは無いのではとも思う。
どうせ死亡届はあと2年出せやしないのに。
失踪者の死亡認定が下されるのは失踪から7年必要だ。
俺の中では姉は死んでないので、あと2年経っても死亡届など出したくないのだが、両親は俺ほど実感が無いようなので仕方がない。
姉は5年前忽然と姿を消した。
当時彼女が住んでいたアパートの、近所のコンビニで買物をする姿が監視カメラに残っているだけで、その時電子マネーを使ったスマホが、彼女の部屋のテーブルの上に飲みかけのチューハイと共に残されていた。
ドアに鍵はかかってなかったが、靴は残されており、両親は攫われたのではないかと警察に駆け込んだのだ。
いくら調べても出て行った形跡も、誰かが入ってきた形跡も残っていなかった。
家出人として捜索願いを出すくらいしか出来なくて、当時両親は随分憔悴していたものだ。
「航 君」
ほぼ親族しかいなくて、閑散としている会場に凛とした女性の声が響いた。
「わざわざ、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げると、その女 は眉尻を下げたまま微笑んだ。
「結局、何も見つからなかったのね」
「はぁ」
気のない返事に彼女は小さく息を吐く。
「構われすぎて嫌だったのかもしれないけれど……彼女はあなたのこと大好きだったのよ?」
「知ってます」
色々思い出して、ちょっとうんざりした顔になってしまった。
あぁ、また誤解が深まってしまう。別に、弁明するほどでもないのだが。
困ったように微笑んだまま、彼女は遺体の無い棺の前に向かった。
両親とオトナの挨拶をしている。
彼女は姉のネット上で知り合った友人で、随分と姉に良くしてくれた。長い付き合いのある他の友人を除いて、連絡して来てくれたのは彼女だけだ。
ディスプレイの写真を眺め、空の棺に視線を移すと、彼女はハンカチをその目に当てた。
焼香が終わると、もう1度俺の前に来て、どうしても確かめなければ気が済まないというように首を傾げた。
「航君は葵 ちゃんのことを嫌いだったの?」
「そんなことありませんよ。今でも帰ってきてほしいと思ってます」
「その割には、ずっと冷静なのよね。まるで彼女が何処にいるのか知ってて黙ってるみたい」
探るような瞳を黙って見つめ返す。
その考察は半分当たっていて、半分外れている。
彼女は俺が姉をどうにかしたと思っているのだろうか。それはなかなか見所のある推理かもしれない。
残念ながらどうにかするほど激しいモノは持ってはいないのだが。
俺がそっと溜息を吐くと、彼女はごめんなさいと言ってハンカチで顔を覆ってしまった。
手掛かりの1つでも欲しい。それは初め、俺も思ったことだ。
「アイツのことですから、生きていればのほほんとマイペースに暮らしてますよ。こちらが馬鹿らしくなるくらいに」
本当に馬鹿らしくなる。
つい先日、アイツはなんて言ったと思う?
わたる! おじさんになるよ! だ。
毎回毎回、仲良さげに手なんて繋いで来やがって。
リア充爆発しろって言われたいのか? ああっ?
また渋い顔をしてしまって、慌てて取り繕う。もう、何を思われても構わないんだけどな。
彼女を出口まで送って、その後ろ姿が見えなくなるまでそこに立っていた。
彼女と姉を見習って空を見上げてみる。
燦々と降り注ぐ陽の光の中では、星なんて見えるはずがなかった。
◇ ◆ ◇
あおいの部屋で手掛かりを探していて、うっかり寝てしまったのは偶然だった。
気が付くと目の前に薄い硝子の壁があって、向こう側にあおいがぼんやりと佇んでいた。
呼びかけてみても全く気付かない。だんだん腹が立ってきた。ようやく気付いたかと思ったらキョトンと首を傾げている。
そのうち、誰かに呼ばれたように1度後ろを振り返ると、またね、と口を動かして行ってしまった。
勝手だ。夢の中でまで勝手だ。またねってなんだ。またがあると思ってるのか。
妙にリアルな夢だったから、気になって週末はその部屋に泊まり込むようになった。
2度目はあおいのスマホを弄りながら寝てしまった時。
暗証番号が昔から変わらなくて、あっさりと開けてしまって笑ったものだ。
耳元であおいの声がして飛び起きた。見渡すと前と同じ、薄い硝子の壁のある場所だった。壁の向こうにあおいがいる。
慌てて飛び付いて、お前、何処にいる!? と聞いてみたが、首を振るだけで聞こえていないようだ。
叩きつけようとした手をあおいに指差されて、スマホを握り締めているのに気が付いた。
私のスマホ壊さないでよって聞こえてきそうだった。
思いついてメモ画面で筆談してみた。だいぶ意思疎通が出来てほっとする。
あおいの方は硝子に息を吹きかけて、一瞬曇ってる間に書くので長文は無理そうだったが。
何処にいるのか聞いて、おしろ、と返ってきた日にはどう反応するのが正解なんだ?
地名か? 地名なのか?
尾白? と返したら、心底呆れた顔をされた。あおいにそんな顔をされると無性に腹が立つ。
何やら一生懸命書いていたが、読み取れたのは「城」だけだった。ちょっと待て。何で城にいるんだ。何処の城だ。シンデレラ城か? 大阪城か?
攫われたわけでもないらしい。穴に落ちたとか言ってる。穴に落ちて城って、アリスか? さっぱりわからん。
でも、怪我もなく元気でやってるのは分かった。少しほっとする。
ズルズルと座り込んで帰ってこいと言ったら、青い顔をして帰れない、帰り方が分からないと――
なんだそれ。そこに居るのに。こんなに近くに居るのに。
ギュッと胸を締め付けられたような気がした。
何かが目の前の硝子ににぶつかって落ちた。
顔を上げると短剣を持った紺色の髪の外国人が、あおいを抱え上げるところだった。
誰、とも、何故、とも思う前にスマホを持った手を硝子に叩きつけていた。
硝子はびくともしない。
こちらの気も知らず、あおいは焦りもせずにその短剣を持つ手を抑えつけた。
知り合いなのか、視線で会話をしている。
もう1度こちらに来ると、英語でもフランス語でもアラビア語でさえない、見たことの無い字をあおいは書いた。
紺の髪の青年は驚いて俺を見る。
でも俺はあおいが書いた字から目が離せなかった。もうとっくに消えているというのに。
あおいはさらにちょっと迷いながら「カレ」と書いて、微妙な笑顔を作った。
彼? は? 行方不明中に、何やってんの? 短剣振り回す、物騒な奴が彼氏ってどういうことだ?
俺は頭を抱えた。
くらくらしながら、メモ画面に打ち込む。帰ってくる気は無いのかと。
その返事が、『帰れたら帰る。かも』だ。
かもってなんだ!!
こっちの怒りにお構いなしに、あおいは写真を撮れという。
イラッとしたが興味はあるので従った。
何故、そこで腕を組む。
ムッとしてフラッシュを切り忘れた。仕方なくもう1枚と指を上げた。
撮れた。あおいはちゃんと、相手はボケボケだったけど、撮れた。
画面を見せてやる。
青年は不思議そうにそれを覗き込んであおいと見比べていた。
写真を知らないのか? まさか。
2人が誰かに呼ばれたように振り返った。
ああ。時間なのか。何となくそう思った。
俺は青年にあおいを宜しくと頭を下げる。それの世話は本当に大変なんだ。
青年は躊躇いながらも頷いてくれた。
テーブルに突っ伏したまま目が覚めて、慌てて携帯を確認した。
残ってる。写真が、ある。あおいが、写ってる!
両親に見せた。昨夜撮ったと。夢で撮ったのだと。
両親は半信半疑だった。
俺は自分のスマホやパソコンにデータを移そうとしたのだが、何故か移動先でデータが壊れてしまう。
結局、その写真はあおいのスマホでしか見られないようだった。
3度目。
俺は葵の部屋に住んでいた。大学からは遠くなるが、構やしなかった。葵が使っていた物をほぼそのまま使っている。何か1つでも無くなったら、もうあおいに会えないかもしれない。
実際には全てをそのままになど出来なくて、使わない物は段ボールに詰めて部屋の隅に積んである。
あおいのスマホを握り締めて眠ると、会える確率が上がるような気がしていた。
なんてことない夢の向こうにあおいが待っていた。例の彼氏と一緒に。
今回は小さな黒板を持っていて、何故かどや顔をしている。
彼女はようやくこの夢がただの夢ではないと気が付いたようで、こちらの近況を聞きたがった。時々、彼氏が何か横から書き込んで、あおいがそれに答えたりもしていた。
しばらくそうしてやり取りをしていると、彼氏がある一点を凝視しているのに気が付いた。
スマホと黒板と睨めっこしていた俺達は、それまで気付いてもいなかった。
彼があおいの肩を叩いて指を指す。
そこには薄い硝子の壁に嵌り込んだドアが1枚、俺達を試すように現れていた。
数秒、それを固まって見ていたあおいは、1度彼氏の顔を仰ぎ見てから立ち上がると彼氏と腕を絡め、指も絡めてからそのドアに近付いた。
ドアに近付いた俺に「潜らないでね」と書いた黒板を見せて、躊躇いも無く彼女はそのドアを開け放った。
今まで無音だった空間にうわんといろんな音が反響した。
全員が顔を顰めたが、あおいはすぐに口を開いた。
「わたる」
あおいの声がした。周囲の雑音に紛れても、その声だけはきちんと拾う事が出来た。
「聞こえる? 何言ってるか、わかる?」
「聞こえてる」
俺の声を聞いて、あおいは嬉しそうな顔をした。
その顔に手を伸ばしかけて、彼女に制止される。
「ダメだよ。そこから動いちゃ。わたるまでこっちにきたら、母さんたち泣くだけじゃ済まないよ」
「じゃあ、あおいが帰ってくればいい。2人とも喜ぶ」
「わたるは喜ばないの? 相変わらず、冷たいなぁ」
ぷぅっと頬を膨らませて、口を尖らせる。
どこでそんな仕草を覚えたんだ。そんな子供っぽい顔しなかったじゃないか。
「ユエ」
そう呼ばれて、あおいは彼を見上げた。
ネットで使ってたハンドルネームだ。それを、名乗っているのか。
あおいは小さい方だったけれど、彼氏は俺よりも背が高い。あおいとは頭1つ分はありそうな差がある。
「行かないのか」
同時通訳のように、彼の言葉を追いかける様に意味が聞こえてくる。
あおいはにっこり笑って繋いだ手を持ち上げた。
「行くわけないじゃん」
「……っ! 帰って、来ないのか!?」
前回とは違って、はっきりとした言葉に俺は焦った。
「じゃあ、なんで開けた?!」
「筆談がまどろっこしいからだよ。開けても音が聞こえなかったらどうしようとはちょっと思ったけど」
きょとん、と俺を見詰めるあおいに、がっくりと肩を落とす。そんな理由?
「ユエ」
彼女を呼ぶ声に色んな感情が篭っていた。随分愛されてるんだな、と解るくらいには。
そう。これは、好き、なんてものじゃない。
「あのね、私達結婚するの。行って、帰って来れるなら新婚旅行代わりに行ってもいいんだけど、難しそうでしょ? ドレス作ってもらってるから、それを着た写真撮っておいてほしいんだよね。母さんたちにも見せてほしいし」
俺の握り締めるスマホを指して、なんだか重要なことをもの凄く軽く言ってる。
「本当はそのスマホ渡してほしいけど、こっちじゃ充電できないし……あ、今度カメラ持ってきてくれない? インスタントのでもいいよ。ネットで焼き方調べてつけてくれるともっと嬉しい。ドアって今日しか出てこないかな?」
「……あおい」
「私のノートパソコンどうしたの? あれ持ってきてくれれば色々調べられるのに……」
「あおい!!」
睨みつけた俺を、あおいはちょっとだけ笑って見ていた。
「……わたるは、怒ってばっかり」
「結婚するって?」
「次の、春にね」
「子供が、できたとか……」
ふるふると彼女は首を振る。
「子供は難しいかも。ちょっと
造りが違うってなんだ。どういうことだ。そうと解ってても、そいつを選ぶのか。
「もう、戻って来ないんだな?」
「このドアが開きっぱなしなら、ちょっと帰ってもいいんだけど。流石にそこまで試す勇気はないから。たまにわたるには会えるんだし、今度色々持ち込んでよ」
持ち込んで、と言われても、この夢は規則的に見てる訳じゃないし、パソコン抱えて寝ろって言うのか。朝起きて壊れてたらどうするんだ。
あんまり呆れて泣けてきた。
誰かに呼ばれて、彼女たちが振り返る。
「じゃぁ、母さんと父さんによろしく。ドア、閉めておいてね」
ひらりと手を振って、仲良く手を繋いだまま、未練も無くあおいは背を向ける。
あおいを追って向こうに飛び込む勇気も無く、こちら側にあるドアを俺は俺の手で閉めなくてはいけない。
あおいとの繋がりを、自らの手で閉じなければならない。
このドアはあおいの為に開いたのだろうか?
それとも――
遺体の無い棺に手をかけて、声を殺して肩を震わせている。
祭壇に設置されたディスプレイには、元気だった頃の姉が笑っている写真が次々と映し出されていた。
父も沈痛な面持ちでその母の背に手を置いている。
何を悲しむのだろう?
別に俺が薄情なわけじゃない。
姉がいなくなってから5年。
両親は姉が帰ってこないと見切りを付け、姉の葬式を出すことにしたようだ。
正直、無理にキリをつけることは無いのではとも思う。
どうせ死亡届はあと2年出せやしないのに。
失踪者の死亡認定が下されるのは失踪から7年必要だ。
俺の中では姉は死んでないので、あと2年経っても死亡届など出したくないのだが、両親は俺ほど実感が無いようなので仕方がない。
姉は5年前忽然と姿を消した。
当時彼女が住んでいたアパートの、近所のコンビニで買物をする姿が監視カメラに残っているだけで、その時電子マネーを使ったスマホが、彼女の部屋のテーブルの上に飲みかけのチューハイと共に残されていた。
ドアに鍵はかかってなかったが、靴は残されており、両親は攫われたのではないかと警察に駆け込んだのだ。
いくら調べても出て行った形跡も、誰かが入ってきた形跡も残っていなかった。
家出人として捜索願いを出すくらいしか出来なくて、当時両親は随分憔悴していたものだ。
「
ほぼ親族しかいなくて、閑散としている会場に凛とした女性の声が響いた。
「わざわざ、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げると、その
「結局、何も見つからなかったのね」
「はぁ」
気のない返事に彼女は小さく息を吐く。
「構われすぎて嫌だったのかもしれないけれど……彼女はあなたのこと大好きだったのよ?」
「知ってます」
色々思い出して、ちょっとうんざりした顔になってしまった。
あぁ、また誤解が深まってしまう。別に、弁明するほどでもないのだが。
困ったように微笑んだまま、彼女は遺体の無い棺の前に向かった。
両親とオトナの挨拶をしている。
彼女は姉のネット上で知り合った友人で、随分と姉に良くしてくれた。長い付き合いのある他の友人を除いて、連絡して来てくれたのは彼女だけだ。
ディスプレイの写真を眺め、空の棺に視線を移すと、彼女はハンカチをその目に当てた。
焼香が終わると、もう1度俺の前に来て、どうしても確かめなければ気が済まないというように首を傾げた。
「航君は
「そんなことありませんよ。今でも帰ってきてほしいと思ってます」
「その割には、ずっと冷静なのよね。まるで彼女が何処にいるのか知ってて黙ってるみたい」
探るような瞳を黙って見つめ返す。
その考察は半分当たっていて、半分外れている。
彼女は俺が姉をどうにかしたと思っているのだろうか。それはなかなか見所のある推理かもしれない。
残念ながらどうにかするほど激しいモノは持ってはいないのだが。
俺がそっと溜息を吐くと、彼女はごめんなさいと言ってハンカチで顔を覆ってしまった。
手掛かりの1つでも欲しい。それは初め、俺も思ったことだ。
「アイツのことですから、生きていればのほほんとマイペースに暮らしてますよ。こちらが馬鹿らしくなるくらいに」
本当に馬鹿らしくなる。
つい先日、アイツはなんて言ったと思う?
わたる! おじさんになるよ! だ。
毎回毎回、仲良さげに手なんて繋いで来やがって。
リア充爆発しろって言われたいのか? ああっ?
また渋い顔をしてしまって、慌てて取り繕う。もう、何を思われても構わないんだけどな。
彼女を出口まで送って、その後ろ姿が見えなくなるまでそこに立っていた。
彼女と姉を見習って空を見上げてみる。
燦々と降り注ぐ陽の光の中では、星なんて見えるはずがなかった。
◇ ◆ ◇
あおいの部屋で手掛かりを探していて、うっかり寝てしまったのは偶然だった。
気が付くと目の前に薄い硝子の壁があって、向こう側にあおいがぼんやりと佇んでいた。
呼びかけてみても全く気付かない。だんだん腹が立ってきた。ようやく気付いたかと思ったらキョトンと首を傾げている。
そのうち、誰かに呼ばれたように1度後ろを振り返ると、またね、と口を動かして行ってしまった。
勝手だ。夢の中でまで勝手だ。またねってなんだ。またがあると思ってるのか。
妙にリアルな夢だったから、気になって週末はその部屋に泊まり込むようになった。
2度目はあおいのスマホを弄りながら寝てしまった時。
暗証番号が昔から変わらなくて、あっさりと開けてしまって笑ったものだ。
耳元であおいの声がして飛び起きた。見渡すと前と同じ、薄い硝子の壁のある場所だった。壁の向こうにあおいがいる。
慌てて飛び付いて、お前、何処にいる!? と聞いてみたが、首を振るだけで聞こえていないようだ。
叩きつけようとした手をあおいに指差されて、スマホを握り締めているのに気が付いた。
私のスマホ壊さないでよって聞こえてきそうだった。
思いついてメモ画面で筆談してみた。だいぶ意思疎通が出来てほっとする。
あおいの方は硝子に息を吹きかけて、一瞬曇ってる間に書くので長文は無理そうだったが。
何処にいるのか聞いて、おしろ、と返ってきた日にはどう反応するのが正解なんだ?
地名か? 地名なのか?
尾白? と返したら、心底呆れた顔をされた。あおいにそんな顔をされると無性に腹が立つ。
何やら一生懸命書いていたが、読み取れたのは「城」だけだった。ちょっと待て。何で城にいるんだ。何処の城だ。シンデレラ城か? 大阪城か?
攫われたわけでもないらしい。穴に落ちたとか言ってる。穴に落ちて城って、アリスか? さっぱりわからん。
でも、怪我もなく元気でやってるのは分かった。少しほっとする。
ズルズルと座り込んで帰ってこいと言ったら、青い顔をして帰れない、帰り方が分からないと――
なんだそれ。そこに居るのに。こんなに近くに居るのに。
ギュッと胸を締め付けられたような気がした。
何かが目の前の硝子ににぶつかって落ちた。
顔を上げると短剣を持った紺色の髪の外国人が、あおいを抱え上げるところだった。
誰、とも、何故、とも思う前にスマホを持った手を硝子に叩きつけていた。
硝子はびくともしない。
こちらの気も知らず、あおいは焦りもせずにその短剣を持つ手を抑えつけた。
知り合いなのか、視線で会話をしている。
もう1度こちらに来ると、英語でもフランス語でもアラビア語でさえない、見たことの無い字をあおいは書いた。
紺の髪の青年は驚いて俺を見る。
でも俺はあおいが書いた字から目が離せなかった。もうとっくに消えているというのに。
あおいはさらにちょっと迷いながら「カレ」と書いて、微妙な笑顔を作った。
彼? は? 行方不明中に、何やってんの? 短剣振り回す、物騒な奴が彼氏ってどういうことだ?
俺は頭を抱えた。
くらくらしながら、メモ画面に打ち込む。帰ってくる気は無いのかと。
その返事が、『帰れたら帰る。かも』だ。
かもってなんだ!!
こっちの怒りにお構いなしに、あおいは写真を撮れという。
イラッとしたが興味はあるので従った。
何故、そこで腕を組む。
ムッとしてフラッシュを切り忘れた。仕方なくもう1枚と指を上げた。
撮れた。あおいはちゃんと、相手はボケボケだったけど、撮れた。
画面を見せてやる。
青年は不思議そうにそれを覗き込んであおいと見比べていた。
写真を知らないのか? まさか。
2人が誰かに呼ばれたように振り返った。
ああ。時間なのか。何となくそう思った。
俺は青年にあおいを宜しくと頭を下げる。それの世話は本当に大変なんだ。
青年は躊躇いながらも頷いてくれた。
テーブルに突っ伏したまま目が覚めて、慌てて携帯を確認した。
残ってる。写真が、ある。あおいが、写ってる!
両親に見せた。昨夜撮ったと。夢で撮ったのだと。
両親は半信半疑だった。
俺は自分のスマホやパソコンにデータを移そうとしたのだが、何故か移動先でデータが壊れてしまう。
結局、その写真はあおいのスマホでしか見られないようだった。
3度目。
俺は葵の部屋に住んでいた。大学からは遠くなるが、構やしなかった。葵が使っていた物をほぼそのまま使っている。何か1つでも無くなったら、もうあおいに会えないかもしれない。
実際には全てをそのままになど出来なくて、使わない物は段ボールに詰めて部屋の隅に積んである。
あおいのスマホを握り締めて眠ると、会える確率が上がるような気がしていた。
なんてことない夢の向こうにあおいが待っていた。例の彼氏と一緒に。
今回は小さな黒板を持っていて、何故かどや顔をしている。
彼女はようやくこの夢がただの夢ではないと気が付いたようで、こちらの近況を聞きたがった。時々、彼氏が何か横から書き込んで、あおいがそれに答えたりもしていた。
しばらくそうしてやり取りをしていると、彼氏がある一点を凝視しているのに気が付いた。
スマホと黒板と睨めっこしていた俺達は、それまで気付いてもいなかった。
彼があおいの肩を叩いて指を指す。
そこには薄い硝子の壁に嵌り込んだドアが1枚、俺達を試すように現れていた。
数秒、それを固まって見ていたあおいは、1度彼氏の顔を仰ぎ見てから立ち上がると彼氏と腕を絡め、指も絡めてからそのドアに近付いた。
ドアに近付いた俺に「潜らないでね」と書いた黒板を見せて、躊躇いも無く彼女はそのドアを開け放った。
今まで無音だった空間にうわんといろんな音が反響した。
全員が顔を顰めたが、あおいはすぐに口を開いた。
「わたる」
あおいの声がした。周囲の雑音に紛れても、その声だけはきちんと拾う事が出来た。
「聞こえる? 何言ってるか、わかる?」
「聞こえてる」
俺の声を聞いて、あおいは嬉しそうな顔をした。
その顔に手を伸ばしかけて、彼女に制止される。
「ダメだよ。そこから動いちゃ。わたるまでこっちにきたら、母さんたち泣くだけじゃ済まないよ」
「じゃあ、あおいが帰ってくればいい。2人とも喜ぶ」
「わたるは喜ばないの? 相変わらず、冷たいなぁ」
ぷぅっと頬を膨らませて、口を尖らせる。
どこでそんな仕草を覚えたんだ。そんな子供っぽい顔しなかったじゃないか。
「ユエ」
そう呼ばれて、あおいは彼を見上げた。
ネットで使ってたハンドルネームだ。それを、名乗っているのか。
あおいは小さい方だったけれど、彼氏は俺よりも背が高い。あおいとは頭1つ分はありそうな差がある。
「行かないのか」
同時通訳のように、彼の言葉を追いかける様に意味が聞こえてくる。
あおいはにっこり笑って繋いだ手を持ち上げた。
「行くわけないじゃん」
「……っ! 帰って、来ないのか!?」
前回とは違って、はっきりとした言葉に俺は焦った。
「じゃあ、なんで開けた?!」
「筆談がまどろっこしいからだよ。開けても音が聞こえなかったらどうしようとはちょっと思ったけど」
きょとん、と俺を見詰めるあおいに、がっくりと肩を落とす。そんな理由?
「ユエ」
彼女を呼ぶ声に色んな感情が篭っていた。随分愛されてるんだな、と解るくらいには。
そう。これは、好き、なんてものじゃない。
「あのね、私達結婚するの。行って、帰って来れるなら新婚旅行代わりに行ってもいいんだけど、難しそうでしょ? ドレス作ってもらってるから、それを着た写真撮っておいてほしいんだよね。母さんたちにも見せてほしいし」
俺の握り締めるスマホを指して、なんだか重要なことをもの凄く軽く言ってる。
「本当はそのスマホ渡してほしいけど、こっちじゃ充電できないし……あ、今度カメラ持ってきてくれない? インスタントのでもいいよ。ネットで焼き方調べてつけてくれるともっと嬉しい。ドアって今日しか出てこないかな?」
「……あおい」
「私のノートパソコンどうしたの? あれ持ってきてくれれば色々調べられるのに……」
「あおい!!」
睨みつけた俺を、あおいはちょっとだけ笑って見ていた。
「……わたるは、怒ってばっかり」
「結婚するって?」
「次の、春にね」
「子供が、できたとか……」
ふるふると彼女は首を振る。
「子供は難しいかも。ちょっと
造り
が違うみたいで。孫の顔は拝ませてあげられないかも……そこはわたるが頑張って?」造りが違うってなんだ。どういうことだ。そうと解ってても、そいつを選ぶのか。
「もう、戻って来ないんだな?」
「このドアが開きっぱなしなら、ちょっと帰ってもいいんだけど。流石にそこまで試す勇気はないから。たまにわたるには会えるんだし、今度色々持ち込んでよ」
持ち込んで、と言われても、この夢は規則的に見てる訳じゃないし、パソコン抱えて寝ろって言うのか。朝起きて壊れてたらどうするんだ。
あんまり呆れて泣けてきた。
誰かに呼ばれて、彼女たちが振り返る。
「じゃぁ、母さんと父さんによろしく。ドア、閉めておいてね」
ひらりと手を振って、仲良く手を繋いだまま、未練も無くあおいは背を向ける。
あおいを追って向こうに飛び込む勇気も無く、こちら側にあるドアを俺は俺の手で閉めなくてはいけない。
あおいとの繋がりを、自らの手で閉じなければならない。
このドアはあおいの為に開いたのだろうか?
それとも――