79.もうひとつのヒミツ
文字数 5,353文字
湖が眩しかったのは一瞬で、今はときおり光の帯が水の中を揺蕩 っているように見えている。
神官サマは自らもしゃがみこむと、片手で水を掬い上げた。仄青い光を放つ水が零れ落ちてしまうと指先を擦り合わせ、その感触を確かめている。
「……飽和状態、という感じですかね。視覚情報 以外はあまり変わりが無いようですが……」
もう1度水を掬うと、彼は躊躇なくそれを口にした。
少しぎょっとする。
毒だとは思わないが、得体のしれない物を躊躇なく口にする勇気は、私には無い。
神官サマは荷物の中からカップを1つと試験管の様な容器を数本持ってくると、全てに水を汲み、カップは少し離れて様子を見守っていたカエルに差し出した。
「飲んでみて下さい。毒見済みです。あぁ、本当に計測器がないのが残念ですね」
渡されたカップの中味をじっと見詰めてから、カエルは恐る恐るそれを飲み込んだ。
「味は普通の水と変わりませんよね。体調は、変化がありますか?」
カエルは掌を握ったり開いたりして少し考えていた。
「お嬢の緊急用の薬と同じくらいは効果はありそうだ」
「緊急用の薬? 帰ったら、嫌がらず是非お聞かせ願いたいですね。この水と交換なら教えていただけますかね?」
神官サマは試験管を軽く振って見せた。
「さあな。ユエが帰ればうちでも実験できる」
嫌味な笑顔に神官サマはいつもの微笑みで答える。
「そうでした。では、どの資料をお持ちしましょうかね……」
「交渉は自分でやってくれよ? お嬢を上手く動かすのは、ランクくらいしか出来ないからな」
「ご自分と、延 いてはユエの負担を軽くする為ですよ。お口添えくらいはお願いできますでしょう?」
私の名前が出て、カエルはちらりとこちらを見ると軽く息を吐いた。
「お嬢とあんたが協力するなんて、嫌な予感しかしないんだが」
あ、それは私も同意する。
混ぜるなキケン、的な匂いがするよね!
「色々効率的に進むと思うのですが?」
首を傾げる神官サマに私は乾いた笑いを漏らすだけだった。
「――と、今はこちらでしたね。時間は限られていますから……」
カエルに何か言おうとして、神官サマは湖の向こうに視線を向けた。ほぼ同時にカエルも。
私が彼らに倣ったのは、何かがどさりと砂の上に落ちたような音がしてからだった。
「ユエ」
呼ばれて振り返るとカエルと神官サマが一瞬目配せを交わしたところで、次の瞬間私は神官サマに抱え上げられ、彼らは湖から遠ざかる様に走り出した。
一緒に走っていたカエルが途中で剣を抜き振り返る。
どさどさと、何かが落ちてくる音は断続的に続いていた。目を凝らすと、白っぽい子犬の様なものが、崖の縁から湖の方へ次々と飛び降りてきていた。
私達が通ってきた岩の割れ目の辺りまで下がると、神官サマは私を降ろして振り返り、半歩前に出る。
「こちらにまで来るようなら、ユエはその洞窟に入っていて下さい。そこに居る物くらいでしたらこれで凌げる筈です」
彼は何度か使った魔道具を私に投げてよこした。
湖の向こう側は少しずつその動物の数が増えていた。すでに片手の指では足りない数だ。そして、上からはまだ降ってくる。
神官サマの手が持ち上がり指揮するように「レ」の形に人差し指を動かすと、崖の縁が抉れて、飛び出そうとしていた数匹がバランスを崩して落ちていった。
後続の何匹かがその様子を見ていて、着地してから打ち所が悪くて弱っているだろうその個体に飛びかかる。
「……変ですね」
神官サマは眉を顰めていた。
先に着いた何匹かは勢いのまま湖に飛び込んでいた。
しかし途中で力尽き、とぷんと沈んで浮かんでこないものがいる。泳ぎが上手そうな感じでもない。
この湖はせいぜい学校のプール位の大きさしかない。回り込んでくるくらいの頭はあってよさそうなのに、1頭が水に飛び込むと我も我もと後に続く。
そして弱ってきた個体には容赦なく襲いかかるのだ。何がしたいのか、よくわからない。私達の気配を感じて襲いに来たのではないのだろうか。
「あれ、何ですか? 犬とは少し違うようですが」
「ハテックだと思います。砂漠にすむ肉食獣で、犬ではなく猫科ですね。夜行性で敏捷性にも優れていますが……降りてきているのはまだ子供なので、親がいそうですね」
子供……でも、この数?
同じ疑問は神官サマも持っているのだろう。困惑気味に続けた。
「虫だけではなく、動物も異常繁殖しているのかもしれません。餌が足りなくて恐慌状態に陥っているという可能性も……」
カエルも少し困惑気味だ。ようやく湖を渡ってきて、よろよろとカエルに飛び付く個体を難なく斬りつける。動かなくなったそれに後続のものが食らいつき、一心不乱に貪る。
もの凄く気分の悪い光景だった。
数はいてもこの状態では手こずりようも無く、20〜30匹はいたであろうそれも半数は自滅していた。
仲間の、あるいは兄弟の死骸を貪る残る数匹に、カエルと神官サマは引導を渡していく。
やるせない気持ちのまま、血の匂いに他の動物や魔獣が寄ってこない様に、死体を集めて焼いてしまった。
「油も持ち込めば良かったですかね」
そりに乗せたままだったので、持ってこようと思えば持ってこられるが、最初の荷物を考えると現実的ではない気がする。今更取りに行くのも大変だ。
「無いものは仕方ありませんよ。取りに行けるのも神官サマだけじゃないですか」
あの暗さでは、多分カエルも道を覚えてないだろう。
彼はそうですねと肩を竦めて見せた。
汚れた手を湖で洗って一息つくと神官サマは月を見上げた。
カエルは手袋を外して目の前の炎に放り込んでいる。
「もしかして今夜は、ゆっくり月を見上げている時間も無いかもしれませんね」
彼の瞳が金色の光を灯した。
それは薄青い空気の中で、そこだけ陽の光が差しているかのようだった。
「あの月も、何か視えるのですか?」
私はまた湖が光るのではないかと恐る恐る水に触れたのだが、もうどんなに水に手を突っ込んでも何の反応も無かった。
「視えますよ」
神官サマは瞳を光らせたまま少しだけ私の方を向いて、また月に視線を戻す。
手に入らない物を恋しく見詰めるような面持ちで、彼はその月を見ていた。
「視たくて来たのです。以前に見た物が夢や幻ではなかったと確かめる為に」
「今まで来る機会は無かったのですか?」
カエルの言うように、彼なら1人でもここまで来られるだろう。
「来る意味が無かったのです。ユエを視るまでは」
私?
「……今ここで無理矢理ユエを抱いたら、彼は私を殺してくれるでしょうか」
「何の話ですか!?」
本人を前に言ってる時点で本気じゃ無いんだろうけど、話が極端すぎて掴みきれない。
「死の間際なら、ユエの故郷を視せてくれると言ったでしょう?」
「その為に殺されようって考えるなんて、おかしいですからね!? っていうか、そんなことを言うならあの約束は取り消します!」
この人は、やり兼ねないとこが怖いんだよ!
「死にたいなら、他人 の手を借りようとするな。自分 でやれ」
「教義では自ら命を絶つことは禁じられています。そして私は自ら生きることを放棄したいほど生きるのが辛い訳でもない。欲しい結果が手に入るなら、誰かに殺されても良いと思えるだけで」
くらくらする。誰だ。この人にそういう生き方を教え込んだのは!
何かが、決定的に間違っている。
「あのね」
私は1つ溜息を吐いて、月を見上げ続けている神官サマの顔をこちらに向けさせた。
そのまま光っている瞳を覗き込む。
何度か見た美しい魔方陣に引き込まれると同時に、彼の動揺が伝わってきた。
「ユエ!」
カエルの焦った声も聞こえるが、無理に引き離されることは無いだろう。
「そのまま聞いて? 少し、やり方を変えよう? 命は大事。そう習ったでしょう? あなたの命も大事。あなたが傷付いたり死んだりしたら、哀しむ人がいるでしょう?」
「……喜ぶ方はいそうですが……」
本当にそう思ってるところがイラッとする。
「フォルティス大主教も、シスター・マーテルも、私も! 哀しくなります」
「ユエも? 何故?」
困惑と、好奇心。それから、少しの喜び。
「友達の怪我を心配したり、死を悲しむのは普通の感覚でしょう? 私はあの約束を、あなたか私が生を全うした後というつもりで発言しました。生を放棄して欲しくて言ったんじゃありません。それに、私の話をしてしまった今は『死ぬ時』という括りも無くてよくなっています。何を視たいの? どうして視たいの? 話してくれれば、視せてあげられるかもしれない」
期待、不安、困惑、何よりも見たい、知りたいという思い。
「……偶然、ここまで辿り着いて、あの青い月を見た時、好奇心から月を視てみました。何も視えないかもしれない。それでも良かったのです。ところが、そこには奇妙な物が見えました。帝都にある建物よりも、もっと天近くまでそびえ立ちひしめき合う建物。鳥のように翼を持ち、羽ばたかずに空を行く何か。人を運ぶ四角い乗り物、夜を照らす煌びやかな光……」
どきりとした。
それは、まさか。いや、それよりも何故それが。
「不思議なことに、初めて見るそれらを私は懐かしいと思いました。変な話です。気のせいかとも思いました。この世の何処にも無い景色を、懐かしいだなんて。しかし私には3歳以前の記憶はありません。その前は、そんなところに居たのかもしれない。自分はあの月から転げ落ちてきたのかもしれない。他人とは違うと言われ続けてきた理由は、それかもしれない。そう思うことは少し楽しくもありました」
彼はもう視ようと思えば私の中からそれを探すことが出来る筈だ。
でもしていない。私がまだ許可していないから。
「面白い物を見たと。あの月は変わっている。調べていけばもっと変わったことが、自分の覚えていない過去が、知れるかもしれない。それが私があの月に纏わる物を調べ始めたきっかけです。そうして、偶然ユエを視ることになりました。質問の所々で、あの月を視たときと同じような映像が、ほんの一瞬よぎるのです。途中から宣誓など、どうでもよくなりました」
私も後半は違うこと考えてたけど、もしかして神官サマもそうだった?
期待と好奇心の入り交じった当時の感情が視える。
「ユエが上の空なのを良いことに、どんな質問ならその映像が現れるのか、色々聞いてみました。ですから、一段落してユエの方から接続を切られて驚いたのです。声のことも言い当てられて少し動揺しました。意地悪をしたことを、今は反省しています」
神官サマはそっと私の頬に触れた。
「一部が繋がったままだというのは判っていましたが、寝込んでいるとは思っていませんでした。偶然使用人同士の噂話から知って、拙いと思いました。出来れば手に入れたい。そう思っていたのに。後はユエの知っている通りです」
見たい、知りたい。自分の見た物への確証が欲しい。
「ユエの知る景色と本当に同じなのか、私は確かめたい。視せて……くれますか?」
「……何が見たい? ビル? 飛行機? 電車? 自動車、バス、船。あんまり面白い物は無いよ? 暮らしてたのは地方だし」
少し息をのんで神官サマはそれを見ていた。
その胸に広がるのは確かに郷愁――
でも、彼が私と同じだとは思えない。姿形も、魔力があることも、彼が間違いなくこの世界の住人だと教えてくれる。
もう、あと考えられるのは……
咆哮が聞こえた。
ジャングルにいる、煩い鳥のようなギャーともジャーとも付かないような鳴き声。
神官サマに苛立ちが見えた。
せっかく手に入れたのに。もっと見ていたいのに。邪魔をするな、と。
「おい」
カエルの警戒した声が私達を促す。
「……また、見せてあげるから」
「――また?」
驚きと当惑。疑問。それから、閃き。
現実に戻ってきて、彼は私を視るのをやめた。
「私も、視られてましたか?」
私は笑って誤魔化す。
「それでも、また見せてくれると?」
「たまになら。ちゃんと、自分も大切にしてくれるなら、見せてあげてもいいよ」
「……本当にユエは怖いですね。私を唆す悪魔のようです」
オトゥシークの教義にも悪魔は出てくるのかな? 異教徒の私はまさにそうなのかもしれないけどね。
私は森へぴりぴりとした視線を向けているカエルに横から抱き着いた。
「ユっ……」
今はそれどころじゃないと言いたげな声。
「故郷を分け合ってるような感じ。それ以上でも、それ以下でもないから、次に分け合う時も傍に居てね」
「承服し難い……気に食わない」
「カエルには、他の全部をあげるから」
にっこり笑って見上げると、意味を解りきっていない紺色の瞳が久しぶりにしっかり私を見てくれた。
彼が何か言う前に私は彼から離れ、と同時に上の方で先程聞こえた咆哮が先程よりも近くで聞こえた。
「……ああ、一連の異変の元凶はこれですね」
木々の間からのそりと現れ、こちらを覗き込みながら涎を垂らしているそれは、白っぽく短い毛に覆われ、薄いグレーの斑点を持ち、しなやかな体躯の巨大な豹かチーターの様な生物だった。
大型トラック位はあろうかという大きさのその生き物の額には、緑色の宝石が仄青い光を受けてきらりと光っていた。
神官サマは自らもしゃがみこむと、片手で水を掬い上げた。仄青い光を放つ水が零れ落ちてしまうと指先を擦り合わせ、その感触を確かめている。
「……飽和状態、という感じですかね。
もう1度水を掬うと、彼は躊躇なくそれを口にした。
少しぎょっとする。
毒だとは思わないが、得体のしれない物を躊躇なく口にする勇気は、私には無い。
神官サマは荷物の中からカップを1つと試験管の様な容器を数本持ってくると、全てに水を汲み、カップは少し離れて様子を見守っていたカエルに差し出した。
「飲んでみて下さい。毒見済みです。あぁ、本当に計測器がないのが残念ですね」
渡されたカップの中味をじっと見詰めてから、カエルは恐る恐るそれを飲み込んだ。
「味は普通の水と変わりませんよね。体調は、変化がありますか?」
カエルは掌を握ったり開いたりして少し考えていた。
「お嬢の緊急用の薬と同じくらいは効果はありそうだ」
「緊急用の薬? 帰ったら、嫌がらず是非お聞かせ願いたいですね。この水と交換なら教えていただけますかね?」
神官サマは試験管を軽く振って見せた。
「さあな。ユエが帰ればうちでも実験できる」
嫌味な笑顔に神官サマはいつもの微笑みで答える。
「そうでした。では、どの資料をお持ちしましょうかね……」
「交渉は自分でやってくれよ? お嬢を上手く動かすのは、ランクくらいしか出来ないからな」
「ご自分と、
私の名前が出て、カエルはちらりとこちらを見ると軽く息を吐いた。
「お嬢とあんたが協力するなんて、嫌な予感しかしないんだが」
あ、それは私も同意する。
混ぜるなキケン、的な匂いがするよね!
「色々効率的に進むと思うのですが?」
首を傾げる神官サマに私は乾いた笑いを漏らすだけだった。
「――と、今はこちらでしたね。時間は限られていますから……」
カエルに何か言おうとして、神官サマは湖の向こうに視線を向けた。ほぼ同時にカエルも。
私が彼らに倣ったのは、何かがどさりと砂の上に落ちたような音がしてからだった。
「ユエ」
呼ばれて振り返るとカエルと神官サマが一瞬目配せを交わしたところで、次の瞬間私は神官サマに抱え上げられ、彼らは湖から遠ざかる様に走り出した。
一緒に走っていたカエルが途中で剣を抜き振り返る。
どさどさと、何かが落ちてくる音は断続的に続いていた。目を凝らすと、白っぽい子犬の様なものが、崖の縁から湖の方へ次々と飛び降りてきていた。
私達が通ってきた岩の割れ目の辺りまで下がると、神官サマは私を降ろして振り返り、半歩前に出る。
「こちらにまで来るようなら、ユエはその洞窟に入っていて下さい。そこに居る物くらいでしたらこれで凌げる筈です」
彼は何度か使った魔道具を私に投げてよこした。
湖の向こう側は少しずつその動物の数が増えていた。すでに片手の指では足りない数だ。そして、上からはまだ降ってくる。
神官サマの手が持ち上がり指揮するように「レ」の形に人差し指を動かすと、崖の縁が抉れて、飛び出そうとしていた数匹がバランスを崩して落ちていった。
後続の何匹かがその様子を見ていて、着地してから打ち所が悪くて弱っているだろうその個体に飛びかかる。
「……変ですね」
神官サマは眉を顰めていた。
先に着いた何匹かは勢いのまま湖に飛び込んでいた。
しかし途中で力尽き、とぷんと沈んで浮かんでこないものがいる。泳ぎが上手そうな感じでもない。
この湖はせいぜい学校のプール位の大きさしかない。回り込んでくるくらいの頭はあってよさそうなのに、1頭が水に飛び込むと我も我もと後に続く。
そして弱ってきた個体には容赦なく襲いかかるのだ。何がしたいのか、よくわからない。私達の気配を感じて襲いに来たのではないのだろうか。
「あれ、何ですか? 犬とは少し違うようですが」
「ハテックだと思います。砂漠にすむ肉食獣で、犬ではなく猫科ですね。夜行性で敏捷性にも優れていますが……降りてきているのはまだ子供なので、親がいそうですね」
子供……でも、この数?
同じ疑問は神官サマも持っているのだろう。困惑気味に続けた。
「虫だけではなく、動物も異常繁殖しているのかもしれません。餌が足りなくて恐慌状態に陥っているという可能性も……」
カエルも少し困惑気味だ。ようやく湖を渡ってきて、よろよろとカエルに飛び付く個体を難なく斬りつける。動かなくなったそれに後続のものが食らいつき、一心不乱に貪る。
もの凄く気分の悪い光景だった。
数はいてもこの状態では手こずりようも無く、20〜30匹はいたであろうそれも半数は自滅していた。
仲間の、あるいは兄弟の死骸を貪る残る数匹に、カエルと神官サマは引導を渡していく。
やるせない気持ちのまま、血の匂いに他の動物や魔獣が寄ってこない様に、死体を集めて焼いてしまった。
「油も持ち込めば良かったですかね」
そりに乗せたままだったので、持ってこようと思えば持ってこられるが、最初の荷物を考えると現実的ではない気がする。今更取りに行くのも大変だ。
「無いものは仕方ありませんよ。取りに行けるのも神官サマだけじゃないですか」
あの暗さでは、多分カエルも道を覚えてないだろう。
彼はそうですねと肩を竦めて見せた。
汚れた手を湖で洗って一息つくと神官サマは月を見上げた。
カエルは手袋を外して目の前の炎に放り込んでいる。
「もしかして今夜は、ゆっくり月を見上げている時間も無いかもしれませんね」
彼の瞳が金色の光を灯した。
それは薄青い空気の中で、そこだけ陽の光が差しているかのようだった。
「あの月も、何か視えるのですか?」
私はまた湖が光るのではないかと恐る恐る水に触れたのだが、もうどんなに水に手を突っ込んでも何の反応も無かった。
「視えますよ」
神官サマは瞳を光らせたまま少しだけ私の方を向いて、また月に視線を戻す。
手に入らない物を恋しく見詰めるような面持ちで、彼はその月を見ていた。
「視たくて来たのです。以前に見た物が夢や幻ではなかったと確かめる為に」
「今まで来る機会は無かったのですか?」
カエルの言うように、彼なら1人でもここまで来られるだろう。
「来る意味が無かったのです。ユエを視るまでは」
私?
「……今ここで無理矢理ユエを抱いたら、彼は私を殺してくれるでしょうか」
「何の話ですか!?」
本人を前に言ってる時点で本気じゃ無いんだろうけど、話が極端すぎて掴みきれない。
「死の間際なら、ユエの故郷を視せてくれると言ったでしょう?」
「その為に殺されようって考えるなんて、おかしいですからね!? っていうか、そんなことを言うならあの約束は取り消します!」
この人は、やり兼ねないとこが怖いんだよ!
「死にたいなら、
「教義では自ら命を絶つことは禁じられています。そして私は自ら生きることを放棄したいほど生きるのが辛い訳でもない。欲しい結果が手に入るなら、誰かに殺されても良いと思えるだけで」
くらくらする。誰だ。この人にそういう生き方を教え込んだのは!
何かが、決定的に間違っている。
「あのね」
私は1つ溜息を吐いて、月を見上げ続けている神官サマの顔をこちらに向けさせた。
そのまま光っている瞳を覗き込む。
何度か見た美しい魔方陣に引き込まれると同時に、彼の動揺が伝わってきた。
「ユエ!」
カエルの焦った声も聞こえるが、無理に引き離されることは無いだろう。
「そのまま聞いて? 少し、やり方を変えよう? 命は大事。そう習ったでしょう? あなたの命も大事。あなたが傷付いたり死んだりしたら、哀しむ人がいるでしょう?」
「……喜ぶ方はいそうですが……」
本当にそう思ってるところがイラッとする。
「フォルティス大主教も、シスター・マーテルも、私も! 哀しくなります」
「ユエも? 何故?」
困惑と、好奇心。それから、少しの喜び。
「友達の怪我を心配したり、死を悲しむのは普通の感覚でしょう? 私はあの約束を、あなたか私が生を全うした後というつもりで発言しました。生を放棄して欲しくて言ったんじゃありません。それに、私の話をしてしまった今は『死ぬ時』という括りも無くてよくなっています。何を視たいの? どうして視たいの? 話してくれれば、視せてあげられるかもしれない」
期待、不安、困惑、何よりも見たい、知りたいという思い。
「……偶然、ここまで辿り着いて、あの青い月を見た時、好奇心から月を視てみました。何も視えないかもしれない。それでも良かったのです。ところが、そこには奇妙な物が見えました。帝都にある建物よりも、もっと天近くまでそびえ立ちひしめき合う建物。鳥のように翼を持ち、羽ばたかずに空を行く何か。人を運ぶ四角い乗り物、夜を照らす煌びやかな光……」
どきりとした。
それは、まさか。いや、それよりも何故それが。
「不思議なことに、初めて見るそれらを私は懐かしいと思いました。変な話です。気のせいかとも思いました。この世の何処にも無い景色を、懐かしいだなんて。しかし私には3歳以前の記憶はありません。その前は、そんなところに居たのかもしれない。自分はあの月から転げ落ちてきたのかもしれない。他人とは違うと言われ続けてきた理由は、それかもしれない。そう思うことは少し楽しくもありました」
彼はもう視ようと思えば私の中からそれを探すことが出来る筈だ。
でもしていない。私がまだ許可していないから。
「面白い物を見たと。あの月は変わっている。調べていけばもっと変わったことが、自分の覚えていない過去が、知れるかもしれない。それが私があの月に纏わる物を調べ始めたきっかけです。そうして、偶然ユエを視ることになりました。質問の所々で、あの月を視たときと同じような映像が、ほんの一瞬よぎるのです。途中から宣誓など、どうでもよくなりました」
私も後半は違うこと考えてたけど、もしかして神官サマもそうだった?
期待と好奇心の入り交じった当時の感情が視える。
「ユエが上の空なのを良いことに、どんな質問ならその映像が現れるのか、色々聞いてみました。ですから、一段落してユエの方から接続を切られて驚いたのです。声のことも言い当てられて少し動揺しました。意地悪をしたことを、今は反省しています」
神官サマはそっと私の頬に触れた。
「一部が繋がったままだというのは判っていましたが、寝込んでいるとは思っていませんでした。偶然使用人同士の噂話から知って、拙いと思いました。出来れば手に入れたい。そう思っていたのに。後はユエの知っている通りです」
見たい、知りたい。自分の見た物への確証が欲しい。
「ユエの知る景色と本当に同じなのか、私は確かめたい。視せて……くれますか?」
「……何が見たい? ビル? 飛行機? 電車? 自動車、バス、船。あんまり面白い物は無いよ? 暮らしてたのは地方だし」
少し息をのんで神官サマはそれを見ていた。
その胸に広がるのは確かに郷愁――
でも、彼が私と同じだとは思えない。姿形も、魔力があることも、彼が間違いなくこの世界の住人だと教えてくれる。
もう、あと考えられるのは……
咆哮が聞こえた。
ジャングルにいる、煩い鳥のようなギャーともジャーとも付かないような鳴き声。
神官サマに苛立ちが見えた。
せっかく手に入れたのに。もっと見ていたいのに。邪魔をするな、と。
「おい」
カエルの警戒した声が私達を促す。
「……また、見せてあげるから」
「――また?」
驚きと当惑。疑問。それから、閃き。
現実に戻ってきて、彼は私を視るのをやめた。
「私も、視られてましたか?」
私は笑って誤魔化す。
「それでも、また見せてくれると?」
「たまになら。ちゃんと、自分も大切にしてくれるなら、見せてあげてもいいよ」
「……本当にユエは怖いですね。私を唆す悪魔のようです」
オトゥシークの教義にも悪魔は出てくるのかな? 異教徒の私はまさにそうなのかもしれないけどね。
私は森へぴりぴりとした視線を向けているカエルに横から抱き着いた。
「ユっ……」
今はそれどころじゃないと言いたげな声。
「故郷を分け合ってるような感じ。それ以上でも、それ以下でもないから、次に分け合う時も傍に居てね」
「承服し難い……気に食わない」
「カエルには、他の全部をあげるから」
にっこり笑って見上げると、意味を解りきっていない紺色の瞳が久しぶりにしっかり私を見てくれた。
彼が何か言う前に私は彼から離れ、と同時に上の方で先程聞こえた咆哮が先程よりも近くで聞こえた。
「……ああ、一連の異変の元凶はこれですね」
木々の間からのそりと現れ、こちらを覗き込みながら涎を垂らしているそれは、白っぽく短い毛に覆われ、薄いグレーの斑点を持ち、しなやかな体躯の巨大な豹かチーターの様な生物だった。
大型トラック位はあろうかという大きさのその生き物の額には、緑色の宝石が仄青い光を受けてきらりと光っていた。