71.オアシス

文字数 5,612文字

 完全に陽が落ちてしまうと、今度は一面の星空が広がっていた。
 天の川が3本並んでるように見えて、地球から見る星空よりも絶対に星の数が多い。今夜は月も円に近くて随分明るいというのに、だ。

「あれに名前はあるんですか?」

 神官サマに天の川を指差して尋ねてみる。

「『トリス・ウィア・ラクテウス』ですよ。流石に綺麗に見えますね」
「空の基準となる星はどれになるんですか?」
「……方角的にちょっと移動中は見えませんね。星見の時に見る物は真ん中と左の帯の間にあるのですが。あの、上の方の青白い明るい星です」

 へぇ、と目星をつけておく。
 気温が下がってきていて、ぶるりと体が震えたが、私はその場を離れがたかった。本当に降ってきそうなほどの星たちを、ただただ眺めていたかった。
 カエルが毛布を肩に掛けてくれて、そっと傍に座る。少し空を覗き込んで、凄いなと呟いた。

「少し、方向のチェックをしてきます」

 神官サマは前方の幌の切れ込みから外に出て行き、沈黙が下りてくる。少し視線を降ろすと、砂山の稜線が切り絵のように星空に張り付いていた。

「ねぇ、カエル。宇宙人っていると思う?」
「宇宙人?」
「あんなに沢山星があるんだから、同じように人が住んでる星もあるかなって」
「……そうかもな」
「私も……」

 突然そりが跳ねた。
 カエルの手が伸びてきて少し中に引き寄せられる。

「もう少し下がれ」

 引き寄せられた半身がカエルにくっついて、とても暖かかった。

「ふふ。あったかい」
「冷えるまで風に当たってるからだ」

 カエルは、私に掛けた毛布を前から掛け直して完全に私を包み込むと、少し体勢を変えて後ろから抱きしめるように抱え込んだ。

「……暖まるまでだから」
「カエルは寒くないの?」
「俺は割と着込んでる」

 そういえばそうかと思い出す。昼間が逆に辛そうなのだ。

「さっきなんか言いかけたか?」
「ん? えっと……もし私があの星々のどれかから落ちてきたんだとしたら、どうする? ……的なことを聞きたかった、ような。跳ねたら忘れちゃった」
「星から?」

 カエルは3本の天の川を見上げると少し笑った。

「あんな所から落ちてきたら無事では済まないな。ユエが無事で良かった」
「最初はナイフを投げたのに?」

 ぴくりとカエルは反応する。

「……あれは……あの時は……」

 彼は私の顔を覗き込むようにして、もうとっくに消えている頬の傷のあった辺りをそっと撫でた。

「いつでも責任とってって言えるから良いんだけどね」

 笑って言うと、彼は抱き締める腕に少しだけ力を込めた。

「……責任、俺に取れるだろうか」

 その声がとても沈んでいて、そっと身体も離された。背中が急に寒くなる。

「冗談だよ? そんなこと言わないし、あの時は仕方ないって解ってる」
「解ってる。ユエはそんなこと言わない」

 もう一度、今度は正面からカエルは私の頬を指先で撫でた。細かいスエードのような感触の黒い手袋越しに、カエルの何かの想いが伝わってきそうで、わからなかった。
 一度きつく瞳を閉じてから、彼は立ち上がる。

「俺も少し外にいる」

 神官サマの後を追うように、細い隙間から御者台に出て行く彼を引き止めたくて、引き止める理由が無いことに唇を噛んだ。
 あの夢の中と同じだ。何も聞こえない。肝心なところが何も。
 少しふて腐れて毛布に包まったまま、ぱたりと横になった。ぐるりと巻き付けて蓑虫のようになると、頭を反らして星空が見える角度を探す。
 街中で見ると頼りないのに、砂漠の月は煌々と私を照りつけているようだった。

 ◇ ◆ ◇

「ユエ」

 耳元で呼ばれて驚いて目が覚めた。
 ……目が覚めた?
 横になったからか、そりの走る音が眠りを誘ったのか、いつの間にか眠っていたらしい。ちゃんと起きているつもりだったのに、ちょっと恥ずかしい。
 カエルが跪いて私を覗き込むようにしており、そりは止まっているようだった。
 身体を起こして周りを確認すると、低い木々や草が見える。

「……もしかして、オアシスまで着いてる?」
「予定より早く着いたんだ。彼等は優秀だな」

 ここからは見えないけれど、カエルは前方に視線を向けた。

「寝ていてくれても良かったんだが、それだと昼に休めないかと……」
「うん。起こしてくれてありがとう。神官サマは?」
「火を熾してる」

 ひょいと荷台から飛び降りて、カエルは私に手を差し出した。

「エスコートされるほど高くないよ。周りの目も無いんだし」
「俺の仕事に文句を付けるな」

 カエルは苦笑してる私の手を掴むと軽く引いて降りるのを促した。
 よっと飛び降りて首を巡らすと、少し離れたところにテントが張ってあって、その前で神官サマが焚き火に木の枝をくべていた。
 焔石があるから、この世界の火熾しは楽だね。

 カエルに手を引かれて行く間に振り返ってみると、砂トゲトカゲは水に頭を突っ込んでいた。
 お疲れ様。明日もよろしくね。
 焚き火の傍はほんのりと暖かく、パチパチと木の爆ぜる音が心地良かった。

「どのくらいの時間なのかな」

 月を見上げても、時間までは分からない。
 神官サマは懐に手を入れると何かを取り出した。掌に収まるくらいの鎖の付いた何か。

「ちょうど日付が変わるくらいですよ」

 へ、と神官サマの手元を凝視する。
 それは。まさか。

「時計、ですか?」

 彼はふふ、と笑って私にそれを渡してくれた。
 オープンフェイスの、シンプルな懐中時計。25の点がぐるりと打ってあり、数字は5つおきにあった。
 彼の言うように針が2つ頂点で重なるところだ。

「ありがとうございます。砂、入るといけないんでもう返しますね」

 機密性がどの位の技術で出来ているのかどきどきする。この世界ではまだ随分お高い物だろう。

「頂き物ですよ。壊れたら壊れたで良いのです」
「よ、良くないですよ! 高級品でしょう? 頂いた方に悪いじゃないですか」
「高くとも安くともいつかは動かなくなる物です。これはもう随分役に立ってくれましたから、そろそろ休んでもらっても良いのです」

 そういう考え方も一理あるのか。
 いやいや。動くうちは大事にするべきだ。

「最近は少し値段も落ちてきているみたいですよ? ユエは水時計にも興味を示していましたし、時計がお好きならば買って差し上げますよ」
「……やめて下さい。確かに見るのは好きですが、借金をしている気になって落ち着きません。大体、そのお金は何処から出てくるんですか」

 神官サマは少し目を細めて、口元だけ笑みを湛えた。

「……そうですね。ユエに知られると怒られそうな処から、ですかね」

 あ、これ以上聞いちゃダメだ。
 そしてやっぱりかなり物騒な感じじゃないか!

「ユエを物で釣ろうとするな」
「釣れるだなんて思ってませんよ? ユエには目に見えないモノを色々頂いているので、少しお返ししたいだけです。本人に欲があまりないので難しいのですが……」
「何もしてませんよ」

 カエルの視線が怖くて慌てて否定する。

「――と、本人がこの調子なので」

 カエルは眉間に皺を寄せたまま溜息を吐いた。

「――茶でも淹れるか」

 彼は荷物から五徳とポットを取り出すと、オアシスの水をそのまま汲んで火に掛けた。
 五徳、と呼んだが、両端が鉤型に曲がった2本の棒を片側で繋げたようなシンプルな物で、開くとV字になる。開く角度で乗せられる物が変わりそうな優れものだった。

「折角なのでこちらを淹れませんか?」

 神官サマが取り出した袋に入っていたのはお茶っ葉ではなく、いい香りのする黒い丸い粒だった。

「コーヒー!」
「ユエは知ってるのですか? 本当に、思いもよらない物を知ってますね……」
「ミルもあるんですか?」
「ありますよ」

 挽きます! と手動のミルを貰い受けてうきうきと豆を挽く。良い香りが周りに広がった。

「カエルも知ってる?」
「知識としては。淹れたことはないな」

 カエルは豆を幾つか掌にのせて匂いをかいだりしている。
 荷物を入れている小さな木箱をテーブル代わりに、布製のフィルターに挽いた豆を移してカップにセットする。
 1杯だけ淹れさせてもらった。物凄く久しぶりだったけど、ちゃんと豆を蒸らすようにしてから淹れるのは忘れてなかった。

「どうぞ」

 その1杯目をカエルに差し出して反応を見守る。

「……にが」
「言っとくけど、そういうものだからね。私の淹れ方が悪いわけじゃないよ? 飲みづらかったらミルク入れると良いから」

 笑いを堪えながらミルクを勧めてみたけど、カエルは眉を顰めながらもそのまま飲み続けていた。
 2杯目以降はカエルにお任せした。私のやるのを見ていたから、私より上手く出来るだろうと思ったのだ。

「ユエもミルクは要らないのですか?」

 意外そうに神官サマがブラックで飲む私を見詰めている。

「眠気覚ましにはそのままが1番ですから。神官サマは何度か飲んだことがあるんですか?」
「趣味で資料に没頭していると眠気は邪魔になるので……手に入りにくくなったレモーラでの方が飲む頻度は高くなった気がします」

 そうだった。この人もマッドな感じだった。絶対身体に悪い生活を送ってるタイプだ。

「空腹で飲むと胃をやられたりしますよ。ちゃんと何か食べて下さいね」
「本当に、どうしてそんなことを知っているんです?」

 神官サマはふふ、と笑うだけだった。
 聞く気のない人の受け答えだ。まったく。
 1杯を飲み終えたカエルはそのカップの底をじっと見ていた。

「どうだった?」
「旨くは、無い。が、癖になりそう、というか……香りは良いし」
「飲み過ぎると本当に中毒になるから、程々がいいよ」
「随分詳しいんだな。国でよく飲んでたのか?」
「まぁ、たまには? お茶や水程じゃなかったけど」

 この場合のお茶はペットボトルのいわゆるブレンド茶だから、紅茶とはまた違う物だけどね。
 葉の種類は変わらないはずだから、緑茶も何処かで飲まれてておかしくないと思うんだけどな。お米とかも、食べたいなぁ。リゾットとかじゃなく、塩むすびが恋しい。

「ユエの国は裕福だったんだな」
「……そうだね。水に困ることも無かったし、飢える人も少なかった」

 神官サマが興味深げに見詰めているのが分かった。

「美しい花の咲く国でもありますね」
「桜は、国の花です。春になると一斉に咲いてすぐに散っていく。短い花の盛りをみんな木の下で宴会をして楽しむんです」
「すぐに散ってしまうんですか?」
「7日ほどでしょうか。潔いというか、儚いというか。そういうものを愛する国民性なのかもしれません。まぁ、何かにかこつけてお酒を飲みたいだけとも言えるんですが」
「ジョットみたいだな」

 うっかり笑ってしまって、代書屋さんがくしゃみしてるんじゃないかとまた笑った。

「ああ、でも彼、確かに

ところはありますね。何でも柔軟に受け入れて、自分の中で折り合いを付けていくところとか」
「ユエは少し受け入れすぎですよ? 視えやすいのは魔力が無いからなのかもしれませんね。反発するものが無いのでユエの方も不快感が少ないのかも」

 なるほど、と納得のいく仮説だった。まぁ、理由なんてどうだっていいのだが。
 カエルが少し面白くなさそうに目を伏せた。

「――となると、最初の不調も、魔力に対するアレルギー反応みたいな物だったのかも……」

 神官サマは(おとがい)に手を当てて、ぶつぶつと呟きながら思考の海に漕ぎ出してしまった。すっかり研究者の顔をしている。
 ちらちらと揺れる炎を見詰める琥珀色の瞳にその炎が映り込んで、まるで瞳が燃えているようだった。

「……ユエ、もう1杯淹れるが、お前も飲むか?」

 神官サマの瞳に見惚れていた私はカエルの声に少しどきりとした。
 ち、違うよ? 神官サマに見惚れていたわけじゃなくて、瞳に映る炎に見惚れてたんだよ?
 胸の中で無駄な言い訳をしてみるが、綺麗な物に惹かれる性分はどうしようもない。

「コ、コーヒー淹れるなら豆挽くけど?」
「いや、茶にする。どうする?」
「欲しいな」
「畏まりました」

 カエルが少し(おど)けてくれたのでほっとした。何も言わなかったけれど、ちゃんと神官サマの分も淹れていて、執事教育の賜物なのかと感心する。
 いつものカエルのお茶はコーヒーで浮き立った心を鎮めてくれる味だった。

「……貴方達、身体の関係はまだですか?」

 唐突にこちらに帰ってきた神官サマの発言に、カエルはお茶を少し噴き出して咽せていた。
 その様子で判ったのか、少し不満そうに首を傾げる。

「口づけ位はしてますよね? 私の祝福を覆い隠したのは貴方でしょう?」

 咽せながらカエルは神官サマを睨んでいる。
 うーん。どうしたものか。

「実地の結果が知りたかったのですが……まさか、ユエに触れてもいない訳では」
「よ……けいなお世話だっ」

 ふっと神官サマの顔が険しくなった。

「それは、ユエを危険にさらす可能性があると解ってのことですか?」
「ユエは護る。問題ない」
「変なところで我慢強いのも困りものですね」

 しばし2人は睨み合う。
 そして私は話について行けてない。私を危険にさらすってどういうこと?

「分かりました。貴方がしていないなら、自分で確かめることにします。合理的な実験ですので、その事について文句を言われる筋合いはありませんね?」

 神官サマはおもむろに立ち上がり、私の手からカップを取り上げると耳元に口を寄せた。

『動くな』

 二ヶ国語放送のような二重の響きだったけど、通訳のそれとは全く違っていた。何より言葉通り動けなくなっている。
 神官サマの綺麗な顔がとても近くて、でも表情のないそれは少し怖かった。
 顎を持ち上げられてキスの距離だと理解した時、思わず拳を振り上げていた。
 けれど、それを振り抜くより先に目の前にカエルの拳が見えて、私の拳は行き場をなくしてしまう。

「ユエを……利用するな!」

 荒く息をしているカエルとは対照的に、神官サマは殴られたというのにほんのりと微笑んで(わらって)いた。
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登場人物紹介

ユエ(葵):主人公。お気楽な性格。

      自分では平均的日本人だと思っているけどちょっとズレている。触り魔。

      一方的に可愛がっていた弟(わたる)がいる。


カエルレウム:ユエが落ちた先で出会った青年。両手首と胸に魔法陣のようなものが刻んである。

       真面目で人に触れるのを極端に怖がっている、トラウマ持ち。

       病弱だというのだが、ユエが来てからは一度も寝込んでない。


 ※アイコンのイラストは傘下さんからのいただきもの

(表紙イラストは151Aさんより)

ルーメン(神官サマ):村の教会の主教。天使のようと噂される銀髪の麗しの神官。

           全てを見通すという『神眼』と呼ばれる加護を持つ。

           お屋敷の面々にはひどく警戒されている。

ジョット(代書屋さん):教会のアトリウムで代書の仕事をしている青年。

            見かけは地味だが明るく人当たりが良い。

            酒好きで気持ちの切り替えはピカイチ。

ビヒト:お屋敷のロマンスグレイな執事。

    一見温和そうだが、実は強いらしい。ワーカホリックの気がある。

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