71.オアシス
文字数 5,612文字
完全に陽が落ちてしまうと、今度は一面の星空が広がっていた。
天の川が3本並んでるように見えて、地球から見る星空よりも絶対に星の数が多い。今夜は月も円に近くて随分明るいというのに、だ。
「あれに名前はあるんですか?」
神官サマに天の川を指差して尋ねてみる。
「『トリス・ウィア・ラクテウス』ですよ。流石に綺麗に見えますね」
「空の基準となる星はどれになるんですか?」
「……方角的にちょっと移動中は見えませんね。星見の時に見る物は真ん中と左の帯の間にあるのですが。あの、上の方の青白い明るい星です」
へぇ、と目星をつけておく。
気温が下がってきていて、ぶるりと体が震えたが、私はその場を離れがたかった。本当に降ってきそうなほどの星たちを、ただただ眺めていたかった。
カエルが毛布を肩に掛けてくれて、そっと傍に座る。少し空を覗き込んで、凄いなと呟いた。
「少し、方向のチェックをしてきます」
神官サマは前方の幌の切れ込みから外に出て行き、沈黙が下りてくる。少し視線を降ろすと、砂山の稜線が切り絵のように星空に張り付いていた。
「ねぇ、カエル。宇宙人っていると思う?」
「宇宙人?」
「あんなに沢山星があるんだから、同じように人が住んでる星もあるかなって」
「……そうかもな」
「私も……」
突然そりが跳ねた。
カエルの手が伸びてきて少し中に引き寄せられる。
「もう少し下がれ」
引き寄せられた半身がカエルにくっついて、とても暖かかった。
「ふふ。あったかい」
「冷えるまで風に当たってるからだ」
カエルは、私に掛けた毛布を前から掛け直して完全に私を包み込むと、少し体勢を変えて後ろから抱きしめるように抱え込んだ。
「……暖まるまでだから」
「カエルは寒くないの?」
「俺は割と着込んでる」
そういえばそうかと思い出す。昼間が逆に辛そうなのだ。
「さっきなんか言いかけたか?」
「ん? えっと……もし私があの星々のどれかから落ちてきたんだとしたら、どうする? ……的なことを聞きたかった、ような。跳ねたら忘れちゃった」
「星から?」
カエルは3本の天の川を見上げると少し笑った。
「あんな所から落ちてきたら無事では済まないな。ユエが無事で良かった」
「最初はナイフを投げたのに?」
ぴくりとカエルは反応する。
「……あれは……あの時は……」
彼は私の顔を覗き込むようにして、もうとっくに消えている頬の傷のあった辺りをそっと撫でた。
「いつでも責任とってって言えるから良いんだけどね」
笑って言うと、彼は抱き締める腕に少しだけ力を込めた。
「……責任、俺に取れるだろうか」
その声がとても沈んでいて、そっと身体も離された。背中が急に寒くなる。
「冗談だよ? そんなこと言わないし、あの時は仕方ないって解ってる」
「解ってる。ユエはそんなこと言わない」
もう一度、今度は正面からカエルは私の頬を指先で撫でた。細かいスエードのような感触の黒い手袋越しに、カエルの何かの想いが伝わってきそうで、わからなかった。
一度きつく瞳を閉じてから、彼は立ち上がる。
「俺も少し外にいる」
神官サマの後を追うように、細い隙間から御者台に出て行く彼を引き止めたくて、引き止める理由が無いことに唇を噛んだ。
あの夢の中と同じだ。何も聞こえない。肝心なところが何も。
少しふて腐れて毛布に包まったまま、ぱたりと横になった。ぐるりと巻き付けて蓑虫のようになると、頭を反らして星空が見える角度を探す。
街中で見ると頼りないのに、砂漠の月は煌々と私を照りつけているようだった。
◇ ◆ ◇
「ユエ」
耳元で呼ばれて驚いて目が覚めた。
……目が覚めた?
横になったからか、そりの走る音が眠りを誘ったのか、いつの間にか眠っていたらしい。ちゃんと起きているつもりだったのに、ちょっと恥ずかしい。
カエルが跪いて私を覗き込むようにしており、そりは止まっているようだった。
身体を起こして周りを確認すると、低い木々や草が見える。
「……もしかして、オアシスまで着いてる?」
「予定より早く着いたんだ。彼等は優秀だな」
ここからは見えないけれど、カエルは前方に視線を向けた。
「寝ていてくれても良かったんだが、それだと昼に休めないかと……」
「うん。起こしてくれてありがとう。神官サマは?」
「火を熾してる」
ひょいと荷台から飛び降りて、カエルは私に手を差し出した。
「エスコートされるほど高くないよ。周りの目も無いんだし」
「俺の仕事に文句を付けるな」
カエルは苦笑してる私の手を掴むと軽く引いて降りるのを促した。
よっと飛び降りて首を巡らすと、少し離れたところにテントが張ってあって、その前で神官サマが焚き火に木の枝をくべていた。
焔石があるから、この世界の火熾しは楽だね。
カエルに手を引かれて行く間に振り返ってみると、砂トゲトカゲは水に頭を突っ込んでいた。
お疲れ様。明日もよろしくね。
焚き火の傍はほんのりと暖かく、パチパチと木の爆ぜる音が心地良かった。
「どのくらいの時間なのかな」
月を見上げても、時間までは分からない。
神官サマは懐に手を入れると何かを取り出した。掌に収まるくらいの鎖の付いた何か。
「ちょうど日付が変わるくらいですよ」
へ、と神官サマの手元を凝視する。
それは。まさか。
「時計、ですか?」
彼はふふ、と笑って私にそれを渡してくれた。
オープンフェイスの、シンプルな懐中時計。25の点がぐるりと打ってあり、数字は5つおきにあった。
彼の言うように針が2つ頂点で重なるところだ。
「ありがとうございます。砂、入るといけないんでもう返しますね」
機密性がどの位の技術で出来ているのかどきどきする。この世界ではまだ随分お高い物だろう。
「頂き物ですよ。壊れたら壊れたで良いのです」
「よ、良くないですよ! 高級品でしょう? 頂いた方に悪いじゃないですか」
「高くとも安くともいつかは動かなくなる物です。これはもう随分役に立ってくれましたから、そろそろ休んでもらっても良いのです」
そういう考え方も一理あるのか。
いやいや。動くうちは大事にするべきだ。
「最近は少し値段も落ちてきているみたいですよ? ユエは水時計にも興味を示していましたし、時計がお好きならば買って差し上げますよ」
「……やめて下さい。確かに見るのは好きですが、借金をしている気になって落ち着きません。大体、そのお金は何処から出てくるんですか」
神官サマは少し目を細めて、口元だけ笑みを湛えた。
「……そうですね。ユエに知られると怒られそうな処から、ですかね」
あ、これ以上聞いちゃダメだ。
そしてやっぱりかなり物騒な感じじゃないか!
「ユエを物で釣ろうとするな」
「釣れるだなんて思ってませんよ? ユエには目に見えないモノを色々頂いているので、少しお返ししたいだけです。本人に欲があまりないので難しいのですが……」
「何もしてませんよ」
カエルの視線が怖くて慌てて否定する。
「――と、本人がこの調子なので」
カエルは眉間に皺を寄せたまま溜息を吐いた。
「――茶でも淹れるか」
彼は荷物から五徳とポットを取り出すと、オアシスの水をそのまま汲んで火に掛けた。
五徳、と呼んだが、両端が鉤型に曲がった2本の棒を片側で繋げたようなシンプルな物で、開くとV字になる。開く角度で乗せられる物が変わりそうな優れものだった。
「折角なのでこちらを淹れませんか?」
神官サマが取り出した袋に入っていたのはお茶っ葉ではなく、いい香りのする黒い丸い粒だった。
「コーヒー!」
「ユエは知ってるのですか? 本当に、思いもよらない物を知ってますね……」
「ミルもあるんですか?」
「ありますよ」
挽きます! と手動のミルを貰い受けてうきうきと豆を挽く。良い香りが周りに広がった。
「カエルも知ってる?」
「知識としては。淹れたことはないな」
カエルは豆を幾つか掌にのせて匂いをかいだりしている。
荷物を入れている小さな木箱をテーブル代わりに、布製のフィルターに挽いた豆を移してカップにセットする。
1杯だけ淹れさせてもらった。物凄く久しぶりだったけど、ちゃんと豆を蒸らすようにしてから淹れるのは忘れてなかった。
「どうぞ」
その1杯目をカエルに差し出して反応を見守る。
「……にが」
「言っとくけど、そういうものだからね。私の淹れ方が悪いわけじゃないよ? 飲みづらかったらミルク入れると良いから」
笑いを堪えながらミルクを勧めてみたけど、カエルは眉を顰めながらもそのまま飲み続けていた。
2杯目以降はカエルにお任せした。私のやるのを見ていたから、私より上手く出来るだろうと思ったのだ。
「ユエもミルクは要らないのですか?」
意外そうに神官サマがブラックで飲む私を見詰めている。
「眠気覚ましにはそのままが1番ですから。神官サマは何度か飲んだことがあるんですか?」
「趣味で資料に没頭していると眠気は邪魔になるので……手に入りにくくなったレモーラでの方が飲む頻度は高くなった気がします」
そうだった。この人もマッドな感じだった。絶対身体に悪い生活を送ってるタイプだ。
「空腹で飲むと胃をやられたりしますよ。ちゃんと何か食べて下さいね」
「本当に、どうしてそんなことを知っているんです?」
神官サマはふふ、と笑うだけだった。
聞く気のない人の受け答えだ。まったく。
1杯を飲み終えたカエルはそのカップの底をじっと見ていた。
「どうだった?」
「旨くは、無い。が、癖になりそう、というか……香りは良いし」
「飲み過ぎると本当に中毒になるから、程々がいいよ」
「随分詳しいんだな。国でよく飲んでたのか?」
「まぁ、たまには? お茶や水程じゃなかったけど」
この場合のお茶はペットボトルのいわゆるブレンド茶だから、紅茶とはまた違う物だけどね。
葉の種類は変わらないはずだから、緑茶も何処かで飲まれてておかしくないと思うんだけどな。お米とかも、食べたいなぁ。リゾットとかじゃなく、塩むすびが恋しい。
「ユエの国は裕福だったんだな」
「……そうだね。水に困ることも無かったし、飢える人も少なかった」
神官サマが興味深げに見詰めているのが分かった。
「美しい花の咲く国でもありますね」
「桜は、国の花です。春になると一斉に咲いてすぐに散っていく。短い花の盛りをみんな木の下で宴会をして楽しむんです」
「すぐに散ってしまうんですか?」
「7日ほどでしょうか。潔いというか、儚いというか。そういうものを愛する国民性なのかもしれません。まぁ、何かにかこつけてお酒を飲みたいだけとも言えるんですが」
「ジョットみたいだな」
うっかり笑ってしまって、代書屋さんがくしゃみしてるんじゃないかとまた笑った。
「ああ、でも彼、確かに
「ユエは少し受け入れすぎですよ? 視えやすいのは魔力が無いからなのかもしれませんね。反発するものが無いのでユエの方も不快感が少ないのかも」
なるほど、と納得のいく仮説だった。まぁ、理由なんてどうだっていいのだが。
カエルが少し面白くなさそうに目を伏せた。
「――となると、最初の不調も、魔力に対するアレルギー反応みたいな物だったのかも……」
神官サマは頤 に手を当てて、ぶつぶつと呟きながら思考の海に漕ぎ出してしまった。すっかり研究者の顔をしている。
ちらちらと揺れる炎を見詰める琥珀色の瞳にその炎が映り込んで、まるで瞳が燃えているようだった。
「……ユエ、もう1杯淹れるが、お前も飲むか?」
神官サマの瞳に見惚れていた私はカエルの声に少しどきりとした。
ち、違うよ? 神官サマに見惚れていたわけじゃなくて、瞳に映る炎に見惚れてたんだよ?
胸の中で無駄な言い訳をしてみるが、綺麗な物に惹かれる性分はどうしようもない。
「コ、コーヒー淹れるなら豆挽くけど?」
「いや、茶にする。どうする?」
「欲しいな」
「畏まりました」
カエルが少し戯 けてくれたのでほっとした。何も言わなかったけれど、ちゃんと神官サマの分も淹れていて、執事教育の賜物なのかと感心する。
いつものカエルのお茶はコーヒーで浮き立った心を鎮めてくれる味だった。
「……貴方達、身体の関係はまだですか?」
唐突にこちらに帰ってきた神官サマの発言に、カエルはお茶を少し噴き出して咽せていた。
その様子で判ったのか、少し不満そうに首を傾げる。
「口づけ位はしてますよね? 私の祝福を覆い隠したのは貴方でしょう?」
咽せながらカエルは神官サマを睨んでいる。
うーん。どうしたものか。
「実地の結果が知りたかったのですが……まさか、ユエに触れてもいない訳では」
「よ……けいなお世話だっ」
ふっと神官サマの顔が険しくなった。
「それは、ユエを危険にさらす可能性があると解ってのことですか?」
「ユエは護る。問題ない」
「変なところで我慢強いのも困りものですね」
しばし2人は睨み合う。
そして私は話について行けてない。私を危険にさらすってどういうこと?
「分かりました。貴方がしていないなら、自分で確かめることにします。合理的な実験ですので、その事について文句を言われる筋合いはありませんね?」
神官サマはおもむろに立ち上がり、私の手からカップを取り上げると耳元に口を寄せた。
『動くな』
二ヶ国語放送のような二重の響きだったけど、通訳のそれとは全く違っていた。何より言葉通り動けなくなっている。
神官サマの綺麗な顔がとても近くて、でも表情のないそれは少し怖かった。
顎を持ち上げられてキスの距離だと理解した時、思わず拳を振り上げていた。
けれど、それを振り抜くより先に目の前にカエルの拳が見えて、私の拳は行き場をなくしてしまう。
「ユエを……利用するな!」
荒く息をしているカエルとは対照的に、神官サマは殴られたというのにほんのりと微笑んで いた。
天の川が3本並んでるように見えて、地球から見る星空よりも絶対に星の数が多い。今夜は月も円に近くて随分明るいというのに、だ。
「あれに名前はあるんですか?」
神官サマに天の川を指差して尋ねてみる。
「『トリス・ウィア・ラクテウス』ですよ。流石に綺麗に見えますね」
「空の基準となる星はどれになるんですか?」
「……方角的にちょっと移動中は見えませんね。星見の時に見る物は真ん中と左の帯の間にあるのですが。あの、上の方の青白い明るい星です」
へぇ、と目星をつけておく。
気温が下がってきていて、ぶるりと体が震えたが、私はその場を離れがたかった。本当に降ってきそうなほどの星たちを、ただただ眺めていたかった。
カエルが毛布を肩に掛けてくれて、そっと傍に座る。少し空を覗き込んで、凄いなと呟いた。
「少し、方向のチェックをしてきます」
神官サマは前方の幌の切れ込みから外に出て行き、沈黙が下りてくる。少し視線を降ろすと、砂山の稜線が切り絵のように星空に張り付いていた。
「ねぇ、カエル。宇宙人っていると思う?」
「宇宙人?」
「あんなに沢山星があるんだから、同じように人が住んでる星もあるかなって」
「……そうかもな」
「私も……」
突然そりが跳ねた。
カエルの手が伸びてきて少し中に引き寄せられる。
「もう少し下がれ」
引き寄せられた半身がカエルにくっついて、とても暖かかった。
「ふふ。あったかい」
「冷えるまで風に当たってるからだ」
カエルは、私に掛けた毛布を前から掛け直して完全に私を包み込むと、少し体勢を変えて後ろから抱きしめるように抱え込んだ。
「……暖まるまでだから」
「カエルは寒くないの?」
「俺は割と着込んでる」
そういえばそうかと思い出す。昼間が逆に辛そうなのだ。
「さっきなんか言いかけたか?」
「ん? えっと……もし私があの星々のどれかから落ちてきたんだとしたら、どうする? ……的なことを聞きたかった、ような。跳ねたら忘れちゃった」
「星から?」
カエルは3本の天の川を見上げると少し笑った。
「あんな所から落ちてきたら無事では済まないな。ユエが無事で良かった」
「最初はナイフを投げたのに?」
ぴくりとカエルは反応する。
「……あれは……あの時は……」
彼は私の顔を覗き込むようにして、もうとっくに消えている頬の傷のあった辺りをそっと撫でた。
「いつでも責任とってって言えるから良いんだけどね」
笑って言うと、彼は抱き締める腕に少しだけ力を込めた。
「……責任、俺に取れるだろうか」
その声がとても沈んでいて、そっと身体も離された。背中が急に寒くなる。
「冗談だよ? そんなこと言わないし、あの時は仕方ないって解ってる」
「解ってる。ユエはそんなこと言わない」
もう一度、今度は正面からカエルは私の頬を指先で撫でた。細かいスエードのような感触の黒い手袋越しに、カエルの何かの想いが伝わってきそうで、わからなかった。
一度きつく瞳を閉じてから、彼は立ち上がる。
「俺も少し外にいる」
神官サマの後を追うように、細い隙間から御者台に出て行く彼を引き止めたくて、引き止める理由が無いことに唇を噛んだ。
あの夢の中と同じだ。何も聞こえない。肝心なところが何も。
少しふて腐れて毛布に包まったまま、ぱたりと横になった。ぐるりと巻き付けて蓑虫のようになると、頭を反らして星空が見える角度を探す。
街中で見ると頼りないのに、砂漠の月は煌々と私を照りつけているようだった。
◇ ◆ ◇
「ユエ」
耳元で呼ばれて驚いて目が覚めた。
……目が覚めた?
横になったからか、そりの走る音が眠りを誘ったのか、いつの間にか眠っていたらしい。ちゃんと起きているつもりだったのに、ちょっと恥ずかしい。
カエルが跪いて私を覗き込むようにしており、そりは止まっているようだった。
身体を起こして周りを確認すると、低い木々や草が見える。
「……もしかして、オアシスまで着いてる?」
「予定より早く着いたんだ。彼等は優秀だな」
ここからは見えないけれど、カエルは前方に視線を向けた。
「寝ていてくれても良かったんだが、それだと昼に休めないかと……」
「うん。起こしてくれてありがとう。神官サマは?」
「火を熾してる」
ひょいと荷台から飛び降りて、カエルは私に手を差し出した。
「エスコートされるほど高くないよ。周りの目も無いんだし」
「俺の仕事に文句を付けるな」
カエルは苦笑してる私の手を掴むと軽く引いて降りるのを促した。
よっと飛び降りて首を巡らすと、少し離れたところにテントが張ってあって、その前で神官サマが焚き火に木の枝をくべていた。
焔石があるから、この世界の火熾しは楽だね。
カエルに手を引かれて行く間に振り返ってみると、砂トゲトカゲは水に頭を突っ込んでいた。
お疲れ様。明日もよろしくね。
焚き火の傍はほんのりと暖かく、パチパチと木の爆ぜる音が心地良かった。
「どのくらいの時間なのかな」
月を見上げても、時間までは分からない。
神官サマは懐に手を入れると何かを取り出した。掌に収まるくらいの鎖の付いた何か。
「ちょうど日付が変わるくらいですよ」
へ、と神官サマの手元を凝視する。
それは。まさか。
「時計、ですか?」
彼はふふ、と笑って私にそれを渡してくれた。
オープンフェイスの、シンプルな懐中時計。25の点がぐるりと打ってあり、数字は5つおきにあった。
彼の言うように針が2つ頂点で重なるところだ。
「ありがとうございます。砂、入るといけないんでもう返しますね」
機密性がどの位の技術で出来ているのかどきどきする。この世界ではまだ随分お高い物だろう。
「頂き物ですよ。壊れたら壊れたで良いのです」
「よ、良くないですよ! 高級品でしょう? 頂いた方に悪いじゃないですか」
「高くとも安くともいつかは動かなくなる物です。これはもう随分役に立ってくれましたから、そろそろ休んでもらっても良いのです」
そういう考え方も一理あるのか。
いやいや。動くうちは大事にするべきだ。
「最近は少し値段も落ちてきているみたいですよ? ユエは水時計にも興味を示していましたし、時計がお好きならば買って差し上げますよ」
「……やめて下さい。確かに見るのは好きですが、借金をしている気になって落ち着きません。大体、そのお金は何処から出てくるんですか」
神官サマは少し目を細めて、口元だけ笑みを湛えた。
「……そうですね。ユエに知られると怒られそうな処から、ですかね」
あ、これ以上聞いちゃダメだ。
そしてやっぱりかなり物騒な感じじゃないか!
「ユエを物で釣ろうとするな」
「釣れるだなんて思ってませんよ? ユエには目に見えないモノを色々頂いているので、少しお返ししたいだけです。本人に欲があまりないので難しいのですが……」
「何もしてませんよ」
カエルの視線が怖くて慌てて否定する。
「――と、本人がこの調子なので」
カエルは眉間に皺を寄せたまま溜息を吐いた。
「――茶でも淹れるか」
彼は荷物から五徳とポットを取り出すと、オアシスの水をそのまま汲んで火に掛けた。
五徳、と呼んだが、両端が鉤型に曲がった2本の棒を片側で繋げたようなシンプルな物で、開くとV字になる。開く角度で乗せられる物が変わりそうな優れものだった。
「折角なのでこちらを淹れませんか?」
神官サマが取り出した袋に入っていたのはお茶っ葉ではなく、いい香りのする黒い丸い粒だった。
「コーヒー!」
「ユエは知ってるのですか? 本当に、思いもよらない物を知ってますね……」
「ミルもあるんですか?」
「ありますよ」
挽きます! と手動のミルを貰い受けてうきうきと豆を挽く。良い香りが周りに広がった。
「カエルも知ってる?」
「知識としては。淹れたことはないな」
カエルは豆を幾つか掌にのせて匂いをかいだりしている。
荷物を入れている小さな木箱をテーブル代わりに、布製のフィルターに挽いた豆を移してカップにセットする。
1杯だけ淹れさせてもらった。物凄く久しぶりだったけど、ちゃんと豆を蒸らすようにしてから淹れるのは忘れてなかった。
「どうぞ」
その1杯目をカエルに差し出して反応を見守る。
「……にが」
「言っとくけど、そういうものだからね。私の淹れ方が悪いわけじゃないよ? 飲みづらかったらミルク入れると良いから」
笑いを堪えながらミルクを勧めてみたけど、カエルは眉を顰めながらもそのまま飲み続けていた。
2杯目以降はカエルにお任せした。私のやるのを見ていたから、私より上手く出来るだろうと思ったのだ。
「ユエもミルクは要らないのですか?」
意外そうに神官サマがブラックで飲む私を見詰めている。
「眠気覚ましにはそのままが1番ですから。神官サマは何度か飲んだことがあるんですか?」
「趣味で資料に没頭していると眠気は邪魔になるので……手に入りにくくなったレモーラでの方が飲む頻度は高くなった気がします」
そうだった。この人もマッドな感じだった。絶対身体に悪い生活を送ってるタイプだ。
「空腹で飲むと胃をやられたりしますよ。ちゃんと何か食べて下さいね」
「本当に、どうしてそんなことを知っているんです?」
神官サマはふふ、と笑うだけだった。
聞く気のない人の受け答えだ。まったく。
1杯を飲み終えたカエルはそのカップの底をじっと見ていた。
「どうだった?」
「旨くは、無い。が、癖になりそう、というか……香りは良いし」
「飲み過ぎると本当に中毒になるから、程々がいいよ」
「随分詳しいんだな。国でよく飲んでたのか?」
「まぁ、たまには? お茶や水程じゃなかったけど」
この場合のお茶はペットボトルのいわゆるブレンド茶だから、紅茶とはまた違う物だけどね。
葉の種類は変わらないはずだから、緑茶も何処かで飲まれてておかしくないと思うんだけどな。お米とかも、食べたいなぁ。リゾットとかじゃなく、塩むすびが恋しい。
「ユエの国は裕福だったんだな」
「……そうだね。水に困ることも無かったし、飢える人も少なかった」
神官サマが興味深げに見詰めているのが分かった。
「美しい花の咲く国でもありますね」
「桜は、国の花です。春になると一斉に咲いてすぐに散っていく。短い花の盛りをみんな木の下で宴会をして楽しむんです」
「すぐに散ってしまうんですか?」
「7日ほどでしょうか。潔いというか、儚いというか。そういうものを愛する国民性なのかもしれません。まぁ、何かにかこつけてお酒を飲みたいだけとも言えるんですが」
「ジョットみたいだな」
うっかり笑ってしまって、代書屋さんがくしゃみしてるんじゃないかとまた笑った。
「ああ、でも彼、確かに
ぽい
ところはありますね。何でも柔軟に受け入れて、自分の中で折り合いを付けていくところとか」「ユエは少し受け入れすぎですよ? 視えやすいのは魔力が無いからなのかもしれませんね。反発するものが無いのでユエの方も不快感が少ないのかも」
なるほど、と納得のいく仮説だった。まぁ、理由なんてどうだっていいのだが。
カエルが少し面白くなさそうに目を伏せた。
「――となると、最初の不調も、魔力に対するアレルギー反応みたいな物だったのかも……」
神官サマは
ちらちらと揺れる炎を見詰める琥珀色の瞳にその炎が映り込んで、まるで瞳が燃えているようだった。
「……ユエ、もう1杯淹れるが、お前も飲むか?」
神官サマの瞳に見惚れていた私はカエルの声に少しどきりとした。
ち、違うよ? 神官サマに見惚れていたわけじゃなくて、瞳に映る炎に見惚れてたんだよ?
胸の中で無駄な言い訳をしてみるが、綺麗な物に惹かれる性分はどうしようもない。
「コ、コーヒー淹れるなら豆挽くけど?」
「いや、茶にする。どうする?」
「欲しいな」
「畏まりました」
カエルが少し
いつものカエルのお茶はコーヒーで浮き立った心を鎮めてくれる味だった。
「……貴方達、身体の関係はまだですか?」
唐突にこちらに帰ってきた神官サマの発言に、カエルはお茶を少し噴き出して咽せていた。
その様子で判ったのか、少し不満そうに首を傾げる。
「口づけ位はしてますよね? 私の祝福を覆い隠したのは貴方でしょう?」
咽せながらカエルは神官サマを睨んでいる。
うーん。どうしたものか。
「実地の結果が知りたかったのですが……まさか、ユエに触れてもいない訳では」
「よ……けいなお世話だっ」
ふっと神官サマの顔が険しくなった。
「それは、ユエを危険にさらす可能性があると解ってのことですか?」
「ユエは護る。問題ない」
「変なところで我慢強いのも困りものですね」
しばし2人は睨み合う。
そして私は話について行けてない。私を危険にさらすってどういうこと?
「分かりました。貴方がしていないなら、自分で確かめることにします。合理的な実験ですので、その事について文句を言われる筋合いはありませんね?」
神官サマはおもむろに立ち上がり、私の手からカップを取り上げると耳元に口を寄せた。
『動くな』
二ヶ国語放送のような二重の響きだったけど、通訳のそれとは全く違っていた。何より言葉通り動けなくなっている。
神官サマの綺麗な顔がとても近くて、でも表情のないそれは少し怖かった。
顎を持ち上げられてキスの距離だと理解した時、思わず拳を振り上げていた。
けれど、それを振り抜くより先に目の前にカエルの拳が見えて、私の拳は行き場をなくしてしまう。
「ユエを……利用するな!」
荒く息をしているカエルとは対照的に、神官サマは殴られたというのにほんのりと