42.ハチミツ酒
文字数 5,540文字
薬のお陰か、帰ってきてから大人しくしていたからか、私の喉は5日程で調子を取り戻した。
毎日カエルが酒場に居るので、もっと女性客が増えて大変かと思っていたのだが、週2度あった礼拝の無い日があったりして比較的落ち着いていたのはラッキーだったのかもしれない。
人間必要に駆られれば必死になるもので、私の筆談のレベルはこの5日で随分上がったと言える。代書屋さんのようにとまではいかなくとも、日常会話くらいは何とかなるようになったのだから。
あーーー。と声を出してみて、毎日持ち歩いた黒板を抽斗に仕舞った。
ありがとう、私の相棒。また会う日まで。
まだ大声は禁止されているけど、実質完治したと言っていいだろう。
長かった気がするなー。
完治祝いに今夜は酒盛りしちゃおうかな? 港町で飲み損ねてから今日まで来ちゃったからね。
カエルにバレたら止められそうだから、酒場で蜂蜜酒でも貰ってこようか。
にまにましながら歩いていたら、後ろから軽やかな足音が追ってきた。
「ユエっ! ちょっと待てっ」
「もう大丈夫だってば〜。ほら、声も戻ったでしょー」
「うるさい。ユエの大丈夫は信用無い」
「それ、誰かさんも言われてなかった?」
ひと睨みされたが気にしない。
ああ、時間差なく答えを返せるって素敵!
「声が出るようになった途端、可愛げも警戒心も無くなるな」
カエルの声が刺々しい。
ほっといて下さい。
『可愛げ』なんてここ数年見たことも聞いたことも無いね。何処行っちゃったんだろうね?
「とりあえず宿までは行く」
むきになったようにカエルは私の隣に並んだ。
「話せないままの方が良かったの?」
「そんなことは言ってない」
私は普通に話せることが楽しくて、滔々と話せない間の辛さをカエルに語って聞かせてあげた。
そのせいかどうかは知らないが、宿の前でカエルはさっさと踵を返したのだった。
久しぶりのカエルのいないお昼。久しぶりに代書屋さんが顔を出した。
「ユエちゃん喉は良くなった?」
「お陰さまで今日から完全復活です」
カウンターの端の定位置に座ると、代書屋さんはほっとしたように笑った。
「ホントだ。ユエちゃんの声だ」
「店には毎日いたけどな。ジョットの兄ちゃんは休んでたのか?」
「え? そうなの?」
口を挟んだクロウに、彼はちょっと焦ったような声を上げた。
「なんだ、じゃあ顔出せばよかったな。てっきり休んでるものだとばかり思ってたから……僕も休んでたわけじゃないよ? 港町まで何度か往復させられてさー」
げんなりと、溜息を吐く。
「ま、いいんだけどね。ほら、港町の噴水のとこで見かけた大主教、何度かこっちに来てるんだよね。関係ないとは思うけど、ユエちゃんあんまり出歩かない方がいいかも?」
「……あ、礼拝が無かったのって、もしかして?」
「うん。そう」
結局足を運ばせてるんだ。流石、腹黒。
「ユエちゃんの仕事は減っちゃうけど、それでいいかなーって気になっちゃったよ」
「お気遣いありがとうございます」
私達は顔を見合わせてちょっと笑った。
今日は代書の通訳の仕事も無いと言って、彼はお昼を食べたら帰って行った。もしかしたらまた伝言でも言いつけられてるのかもしれない。
大変だなぁと他人事のように見送って、朝のカエルの言葉を思い出す。
――可愛げも警戒心も無くなるな。
ちょっと気を引き締めた方がいいのかな?
帰ってきて安心し過ぎ?
声が出るようになってから孤児院にお土産届けようと思ってたんだけど……教会に来客の時って、門閉まってるよね? 確認すれば大丈夫だよね?
……怒られそうだから、カエルに相談してからにしよう……
◇ ◆ ◇
私って馬鹿なのかな?
蜂蜜酒貰うのに、鞄も無ければ持って帰るのバレバレじゃん?
腰のお金入れてる袋に入る大きさじゃないし……
小さい瓶1本分の代金を払って譲ってもらったのだが、これをどうやって持ち帰ろうか、私は悩んでいる。
悩んでたってカエルは迎えに来るわけで。
「なんでこっちにいるんだ?」
酒場に下りてきたカエルの声に、私は反射的に背筋を伸ばした。
頬杖をついたクロウの馬鹿だなぁって顔が小憎らしい。
私の不審な動きとカウンターの上の瓶に気付いて、カエルは目を細める。
「……中身は何だ?」
「……蜂蜜酒です」
全然悪いことをしてる訳じゃないのに、この気まずさは何だろう?
私、成人してるし、ちゃんと自分のお金で買ってるし、酒乱でもないんだけどな。
「じ、自分の部屋でちょっとずつ飲もうかな〜って……」
蜂蜜って喉にも良さそうだし!
……駄目だ。言い訳くさい。
「部屋で、少しずつ、だな?」
形だけ笑うのやめて! 分かったから! 今日は飲まないよ!
泣く泣く今日の酒盛りは諦めて、瓶もカエルに預けた。預けたというよりは勝手に持って行かれたという方が正しいんだけど。……くそう。
「寝酒に一口くらいは……」
「今日はやめとけ。どうしても飲みたいって言うなら、この間のホットミルク作ってやる」
往生際の悪い私にカエルはこれっぽっちも譲歩してくれない。
いや、あのホットミルクが不味いとかそういう訳じゃないんだけど。むしろ美味しいと思う。でも、私は、今日、祝い酒を飲みたかったのに!
心の中でぶつぶつと文句を言っていたが、本当の口から出たのは全然違う言葉だった。
「……お願いします」
「承りました」
恭 しくお辞儀して、カエルはにこりと笑った。
背を向けて先に歩き出す彼の後を追いかけながら、クロウを振り返って手を振ると、何とかと口が動くのが見えた。頑張れ、か、可哀想に、だろうか。
お酒の味を知らない(だろう)子供に同情される。結構心にくるんだけど?
がっくりと肩を落とす私に、階段を下りてきた飲む気満々の常連さんが、また明日な、と陽気に声を掛けた。
もう! 戻ってこの常連さんと朝まで飲んでやろうかな!?
不穏な空気を察知した訳ではないと思うが、宿を出た所でカエルは私を振り返った。
「もう2、3日は我慢しろ。蜂蜜酒は思ったよりアルコールきついぞ? また声が出なくなるのは嫌だろう?」
至極正論で心配されて、私はぐうの音も出ない。
わかってるんだけどね! 意地悪で言ってるんじゃないってことは!
素直になれずにまだ不満顔な私を見て、カエルは少しだけ何か思案してから片膝をついた。それからおもむろに私の右手の指先を軽く揃えて持ち上げ、額の前に掲げるようにした。瞳も顔も伏せてしまったので、表情が見えなくなる。
「お嬢様の可愛らしいお声が聞けないのは、カエルレウムとしても辛うございます。どうか私を安心させるとお思いになって、応諾してはいただけないでしょうか」
顔から火を噴いたかと思った。
往来で、急に何を言うのだ! って、いうか、早く立って!
「ちょっ……やめて! わかった。分かったから!」
カエルの手は指先を摘まんでいるだけのようなのに、私が彼を立たせようと腕に力を込めても微動だにしなかった。
上目遣いに私を見てにやりと笑うと、手は離さずにゆっくりと立ち上がる。
「ではそのようなお顔をやめて下さいませ。カエルレウムも心が痛いのです」
「や、やめてってば! 胡散臭くて逆に説得力ないから!」
我慢できないかのようにぷっと噴き出して、カエルはいつもの顔に戻った。
「酷いな。こんなに心配してるのに」
「遊んでるの間違いでしょ? 思っても無いことは言うもんじゃないよ!」
「嘘は言ってないぞ」
顔の火照りが引いてくれない。くそう。
そんなの知ってるよ。
すっかり長くなった陽が恨めしい。
「カエルの馬鹿」
もう反論も出来なくて、子供並みの八つ当たりをしたら、カエルは鼻で笑って歩き出した。
叱られて俯いて歩く子供さながらに繋がれた手だけを見つめて歩を進める。
私はなんとなく気恥ずかしさから最初の頃のように人差し指だけを絡めてみた。離してしまうのはちょっと淋しかったから。
カエルはちらりと視線を寄越して、それから小さく笑った。
夕食の後、談話室に移動する。
蜂蜜酒の瓶はカエルが持って行ってしまったままだったので、なんとなく面白くない。私のなのに。
一度部屋に戻った時に机の上の海色の飴が入った瓶を見て、カエルに相談することがあったのだと思い出した。
お酒が飲めないくらいでうだうだ言ってる場合ではなかった。反省反省。
棚からカードを探し当て、暇潰しに一人遊びを始めた。4枚ずつ並べていって縦横斜めの何れかに同じ数字が揃ったら取り除いていく単純なものだ。
こちらのカードのスートに当たる模様は、剣と貨幣と聖杯と本のようだ。教団の教えが色濃く反映されているのかもしれない。礼拝室にあった神像は剣と本を持っていたことからの推測だが、全然的外れかもしれない。
結局テーブルの上にカードが残ったままの状態でカエルがやってきた。
慌てて片付ける。
目の前に置かれたトレーには、スパイシーな香りの湯気が上がるカップが2つ乗っていた。
「今日はカエルもミルクなの?」
「さすがに、あれだけ言って俺だけ飲んだら怒るだろう?」
怒るね。
「仕方ないから付き合ってやる」
そう言うともう一方の手に持っていた
手早くステアすると、どうぞと差し出す。
甘味が蜂蜜でつけられていて、最後に垂らした蜂蜜酒がほんのりと香る。飲み込むとスパイスが鼻に抜けた。
く。美味しい。
火にかける前にも蜂蜜酒を使ったのだろう。それで持って行ってたのか。
「満足したか?」
「しない」
カエルは眉を寄せた。
「明日と明後日も作って」
一転してきょとんとした表情になり、それから苦笑した。
「仰せのままに」
無くなるのがもったいなくて、ちびちびと飲みながら、私はカエルに切り出す。
「――あのね、喉が治ったら孤児院にお土産を届けようと思ってたんだけど」
カエルの目がそれが? と先を促す。
「この間も礼拝無い日があったでしょ? なんか、港町で見掛けた大主教が何度か来てるらしいんだよね……代書屋さんにあんまり出歩かない方がいいかも、とも言われたし、どうしようかなぁって……カエル、一緒に行ってくれる?」
断られるかもと思いながら、小首を傾げてみる。
「行くって……孤児院、だよな? ……孤児院」
カエルにしては珍しくかなり悩んでいる。行かないなら行かないで、そう言う人なのに。
「無理にって訳じゃないんだよ? カエルが教会嫌いなの知ってるし。駄目なら代書屋さんにでも一緒に行ってもらうから」
ちらりとこちらを見てから、すぐに視線を外し、ぼそりと何か呟いた。口元を手で覆っていたのでよく聞こえなかったけど。
「え? 何?」
「……いや。分かった。行くだけなら、行ってやる。少し早く上がれるなら、帰りに寄った方がいいかもな」
確かに礼拝の時間潰して会ってて日帰りしてるなら、夕方が一番会う確率低いかも。
「分かった。明日の朝ルベルゴさんに聞いてみるよ。よろしくね」
カエルは小さく溜息を吐くと、カップの中身を飲み干した。
「次から次へと……」
「え?」
「――飲まなきゃやってられんな」
蜂蜜酒の瓶に伸ばされた手を慌てて払って、私は瓶を抱え込む。
「これは私のだよ! カエルに飲まれたら無くなっちゃうじゃない」
「じゃあ、ユエにも注いでやる」
「え」
一瞬流されそうになった。
違う違う。
「だ、だめ。飲むならカエルも買えばいいじゃない」
「じゃあ、後で買ってやるからそれは寄越せ」
にやにやと笑って、いとも簡単に私の腕の中からするりと瓶を取り上げると、彼は自分のカップにその中身を注いだ。
「あーーー!」
カエルは笑いながらコルクの様な栓をしっかり閉めると、こちらに瓶を押しやった。
「護衛代金だ。言っとくが、厨房に蜂蜜酒のストックはあるぞ?
はっ! そうだった。ここん家 あの酒場からお酒仕入れてるんだった!
と、いうことは、厨房に忍び込めばいくらでも好きなお酒飲めるの?
何で気が付かなかったかな!? 自分!
ここに滞在し始めてから、他の人にお世話されるのに慣れきってて、厨房に忍び込もうだなんてこれっぽっちも思わなかったよ……何かもらうのもアレッタ経由が多かったし……
いや、待てよ。気が付いたからって居候の身としてはそうそう泥棒みたいな真似は出来ない、かも?
「地下に酒蔵もあるから、知ってれば好きな物飲み放題なんだがな。最初の言いつけを守ってて偉いな」
私は呆然とカエルがカップに口を付けるのを見ていた。
なんだか有耶無耶になってはいたけど、そういえばもう私に立入禁止はないはずなのか。
生活に難がなかったから、そのまま来てしまっていた。
「真面目なんだか、抜けてるんだか。監視役としては物足りないんだが……それ以上に変なとこからトラブルを持ち込むからな。今回は先払いだ。一杯だけにしといてやるから、有難いと思え」
「監視って……まだそうなの?」
「まぁ、半分個人的に、だ。防犯用の魔道具への登録が上手くいかないようで、他はまあいいんだが、裏口付近には近寄って欲しくない。いつまでも言いつけを守ってるから、もう言わなくてもいいかと思ってたとこだ」
若干面白くない感じがしないこともないけど、不便が無いのも事実なので何とも言えない。
「――お酒は言えばカエルが持ってきてくれるんだよね? じゃあ、いいや。もうそれで。ここにいる間はお嬢様気分を満喫することにするよ」
溜息を吐いてそう言った私を、そう言うと思ったというような顔で眺めて頷くと、カエルはもう一口お酒に口を付けて可笑しそうに笑った。
「……甘いな。ユエみたいだ」
毎日カエルが酒場に居るので、もっと女性客が増えて大変かと思っていたのだが、週2度あった礼拝の無い日があったりして比較的落ち着いていたのはラッキーだったのかもしれない。
人間必要に駆られれば必死になるもので、私の筆談のレベルはこの5日で随分上がったと言える。代書屋さんのようにとまではいかなくとも、日常会話くらいは何とかなるようになったのだから。
あーーー。と声を出してみて、毎日持ち歩いた黒板を抽斗に仕舞った。
ありがとう、私の相棒。また会う日まで。
まだ大声は禁止されているけど、実質完治したと言っていいだろう。
長かった気がするなー。
完治祝いに今夜は酒盛りしちゃおうかな? 港町で飲み損ねてから今日まで来ちゃったからね。
カエルにバレたら止められそうだから、酒場で蜂蜜酒でも貰ってこようか。
にまにましながら歩いていたら、後ろから軽やかな足音が追ってきた。
「ユエっ! ちょっと待てっ」
「もう大丈夫だってば〜。ほら、声も戻ったでしょー」
「うるさい。ユエの大丈夫は信用無い」
「それ、誰かさんも言われてなかった?」
ひと睨みされたが気にしない。
ああ、時間差なく答えを返せるって素敵!
「声が出るようになった途端、可愛げも警戒心も無くなるな」
カエルの声が刺々しい。
ほっといて下さい。
『可愛げ』なんてここ数年見たことも聞いたことも無いね。何処行っちゃったんだろうね?
「とりあえず宿までは行く」
むきになったようにカエルは私の隣に並んだ。
「話せないままの方が良かったの?」
「そんなことは言ってない」
私は普通に話せることが楽しくて、滔々と話せない間の辛さをカエルに語って聞かせてあげた。
そのせいかどうかは知らないが、宿の前でカエルはさっさと踵を返したのだった。
久しぶりのカエルのいないお昼。久しぶりに代書屋さんが顔を出した。
「ユエちゃん喉は良くなった?」
「お陰さまで今日から完全復活です」
カウンターの端の定位置に座ると、代書屋さんはほっとしたように笑った。
「ホントだ。ユエちゃんの声だ」
「店には毎日いたけどな。ジョットの兄ちゃんは休んでたのか?」
「え? そうなの?」
口を挟んだクロウに、彼はちょっと焦ったような声を上げた。
「なんだ、じゃあ顔出せばよかったな。てっきり休んでるものだとばかり思ってたから……僕も休んでたわけじゃないよ? 港町まで何度か往復させられてさー」
げんなりと、溜息を吐く。
「ま、いいんだけどね。ほら、港町の噴水のとこで見かけた大主教、何度かこっちに来てるんだよね。関係ないとは思うけど、ユエちゃんあんまり出歩かない方がいいかも?」
「……あ、礼拝が無かったのって、もしかして?」
「うん。そう」
結局足を運ばせてるんだ。流石、腹黒。
「ユエちゃんの仕事は減っちゃうけど、それでいいかなーって気になっちゃったよ」
「お気遣いありがとうございます」
私達は顔を見合わせてちょっと笑った。
今日は代書の通訳の仕事も無いと言って、彼はお昼を食べたら帰って行った。もしかしたらまた伝言でも言いつけられてるのかもしれない。
大変だなぁと他人事のように見送って、朝のカエルの言葉を思い出す。
――可愛げも警戒心も無くなるな。
ちょっと気を引き締めた方がいいのかな?
帰ってきて安心し過ぎ?
声が出るようになってから孤児院にお土産届けようと思ってたんだけど……教会に来客の時って、門閉まってるよね? 確認すれば大丈夫だよね?
……怒られそうだから、カエルに相談してからにしよう……
◇ ◆ ◇
私って馬鹿なのかな?
蜂蜜酒貰うのに、鞄も無ければ持って帰るのバレバレじゃん?
腰のお金入れてる袋に入る大きさじゃないし……
小さい瓶1本分の代金を払って譲ってもらったのだが、これをどうやって持ち帰ろうか、私は悩んでいる。
悩んでたってカエルは迎えに来るわけで。
「なんでこっちにいるんだ?」
酒場に下りてきたカエルの声に、私は反射的に背筋を伸ばした。
頬杖をついたクロウの馬鹿だなぁって顔が小憎らしい。
私の不審な動きとカウンターの上の瓶に気付いて、カエルは目を細める。
「……中身は何だ?」
「……蜂蜜酒です」
全然悪いことをしてる訳じゃないのに、この気まずさは何だろう?
私、成人してるし、ちゃんと自分のお金で買ってるし、酒乱でもないんだけどな。
「じ、自分の部屋でちょっとずつ飲もうかな〜って……」
蜂蜜って喉にも良さそうだし!
……駄目だ。言い訳くさい。
「部屋で、少しずつ、だな?」
形だけ笑うのやめて! 分かったから! 今日は飲まないよ!
泣く泣く今日の酒盛りは諦めて、瓶もカエルに預けた。預けたというよりは勝手に持って行かれたという方が正しいんだけど。……くそう。
「寝酒に一口くらいは……」
「今日はやめとけ。どうしても飲みたいって言うなら、この間のホットミルク作ってやる」
往生際の悪い私にカエルはこれっぽっちも譲歩してくれない。
いや、あのホットミルクが不味いとかそういう訳じゃないんだけど。むしろ美味しいと思う。でも、私は、今日、祝い酒を飲みたかったのに!
心の中でぶつぶつと文句を言っていたが、本当の口から出たのは全然違う言葉だった。
「……お願いします」
「承りました」
背を向けて先に歩き出す彼の後を追いかけながら、クロウを振り返って手を振ると、何とかと口が動くのが見えた。頑張れ、か、可哀想に、だろうか。
お酒の味を知らない(だろう)子供に同情される。結構心にくるんだけど?
がっくりと肩を落とす私に、階段を下りてきた飲む気満々の常連さんが、また明日な、と陽気に声を掛けた。
もう! 戻ってこの常連さんと朝まで飲んでやろうかな!?
不穏な空気を察知した訳ではないと思うが、宿を出た所でカエルは私を振り返った。
「もう2、3日は我慢しろ。蜂蜜酒は思ったよりアルコールきついぞ? また声が出なくなるのは嫌だろう?」
至極正論で心配されて、私はぐうの音も出ない。
わかってるんだけどね! 意地悪で言ってるんじゃないってことは!
素直になれずにまだ不満顔な私を見て、カエルは少しだけ何か思案してから片膝をついた。それからおもむろに私の右手の指先を軽く揃えて持ち上げ、額の前に掲げるようにした。瞳も顔も伏せてしまったので、表情が見えなくなる。
「お嬢様の可愛らしいお声が聞けないのは、カエルレウムとしても辛うございます。どうか私を安心させるとお思いになって、応諾してはいただけないでしょうか」
顔から火を噴いたかと思った。
往来で、急に何を言うのだ! って、いうか、早く立って!
「ちょっ……やめて! わかった。分かったから!」
カエルの手は指先を摘まんでいるだけのようなのに、私が彼を立たせようと腕に力を込めても微動だにしなかった。
上目遣いに私を見てにやりと笑うと、手は離さずにゆっくりと立ち上がる。
「ではそのようなお顔をやめて下さいませ。カエルレウムも心が痛いのです」
「や、やめてってば! 胡散臭くて逆に説得力ないから!」
我慢できないかのようにぷっと噴き出して、カエルはいつもの顔に戻った。
「酷いな。こんなに心配してるのに」
「遊んでるの間違いでしょ? 思っても無いことは言うもんじゃないよ!」
「嘘は言ってないぞ」
顔の火照りが引いてくれない。くそう。
そんなの知ってるよ。
すっかり長くなった陽が恨めしい。
「カエルの馬鹿」
もう反論も出来なくて、子供並みの八つ当たりをしたら、カエルは鼻で笑って歩き出した。
叱られて俯いて歩く子供さながらに繋がれた手だけを見つめて歩を進める。
私はなんとなく気恥ずかしさから最初の頃のように人差し指だけを絡めてみた。離してしまうのはちょっと淋しかったから。
カエルはちらりと視線を寄越して、それから小さく笑った。
夕食の後、談話室に移動する。
蜂蜜酒の瓶はカエルが持って行ってしまったままだったので、なんとなく面白くない。私のなのに。
一度部屋に戻った時に机の上の海色の飴が入った瓶を見て、カエルに相談することがあったのだと思い出した。
お酒が飲めないくらいでうだうだ言ってる場合ではなかった。反省反省。
棚からカードを探し当て、暇潰しに一人遊びを始めた。4枚ずつ並べていって縦横斜めの何れかに同じ数字が揃ったら取り除いていく単純なものだ。
こちらのカードのスートに当たる模様は、剣と貨幣と聖杯と本のようだ。教団の教えが色濃く反映されているのかもしれない。礼拝室にあった神像は剣と本を持っていたことからの推測だが、全然的外れかもしれない。
結局テーブルの上にカードが残ったままの状態でカエルがやってきた。
慌てて片付ける。
目の前に置かれたトレーには、スパイシーな香りの湯気が上がるカップが2つ乗っていた。
「今日はカエルもミルクなの?」
「さすがに、あれだけ言って俺だけ飲んだら怒るだろう?」
怒るね。
「仕方ないから付き合ってやる」
そう言うともう一方の手に持っていた
私の
蜂蜜酒の瓶の栓を開け、両方のカップに数滴ずつ垂らした。手早くステアすると、どうぞと差し出す。
甘味が蜂蜜でつけられていて、最後に垂らした蜂蜜酒がほんのりと香る。飲み込むとスパイスが鼻に抜けた。
く。美味しい。
火にかける前にも蜂蜜酒を使ったのだろう。それで持って行ってたのか。
「満足したか?」
「しない」
カエルは眉を寄せた。
「明日と明後日も作って」
一転してきょとんとした表情になり、それから苦笑した。
「仰せのままに」
無くなるのがもったいなくて、ちびちびと飲みながら、私はカエルに切り出す。
「――あのね、喉が治ったら孤児院にお土産を届けようと思ってたんだけど」
カエルの目がそれが? と先を促す。
「この間も礼拝無い日があったでしょ? なんか、港町で見掛けた大主教が何度か来てるらしいんだよね……代書屋さんにあんまり出歩かない方がいいかも、とも言われたし、どうしようかなぁって……カエル、一緒に行ってくれる?」
断られるかもと思いながら、小首を傾げてみる。
「行くって……孤児院、だよな? ……孤児院」
カエルにしては珍しくかなり悩んでいる。行かないなら行かないで、そう言う人なのに。
「無理にって訳じゃないんだよ? カエルが教会嫌いなの知ってるし。駄目なら代書屋さんにでも一緒に行ってもらうから」
ちらりとこちらを見てから、すぐに視線を外し、ぼそりと何か呟いた。口元を手で覆っていたのでよく聞こえなかったけど。
「え? 何?」
「……いや。分かった。行くだけなら、行ってやる。少し早く上がれるなら、帰りに寄った方がいいかもな」
確かに礼拝の時間潰して会ってて日帰りしてるなら、夕方が一番会う確率低いかも。
「分かった。明日の朝ルベルゴさんに聞いてみるよ。よろしくね」
カエルは小さく溜息を吐くと、カップの中身を飲み干した。
「次から次へと……」
「え?」
「――飲まなきゃやってられんな」
蜂蜜酒の瓶に伸ばされた手を慌てて払って、私は瓶を抱え込む。
「これは私のだよ! カエルに飲まれたら無くなっちゃうじゃない」
「じゃあ、ユエにも注いでやる」
「え」
一瞬流されそうになった。
違う違う。
「だ、だめ。飲むならカエルも買えばいいじゃない」
「じゃあ、後で買ってやるからそれは寄越せ」
にやにやと笑って、いとも簡単に私の腕の中からするりと瓶を取り上げると、彼は自分のカップにその中身を注いだ。
「あーーー!」
カエルは笑いながらコルクの様な栓をしっかり閉めると、こちらに瓶を押しやった。
「護衛代金だ。言っとくが、厨房に蜂蜜酒のストックはあるぞ?
それ
はお前好みのをもらってきたみたいだが」はっ! そうだった。ここん
と、いうことは、厨房に忍び込めばいくらでも好きなお酒飲めるの?
何で気が付かなかったかな!? 自分!
ここに滞在し始めてから、他の人にお世話されるのに慣れきってて、厨房に忍び込もうだなんてこれっぽっちも思わなかったよ……何かもらうのもアレッタ経由が多かったし……
いや、待てよ。気が付いたからって居候の身としてはそうそう泥棒みたいな真似は出来ない、かも?
「地下に酒蔵もあるから、知ってれば好きな物飲み放題なんだがな。最初の言いつけを守ってて偉いな」
私は呆然とカエルがカップに口を付けるのを見ていた。
なんだか有耶無耶になってはいたけど、そういえばもう私に立入禁止はないはずなのか。
生活に難がなかったから、そのまま来てしまっていた。
「真面目なんだか、抜けてるんだか。監視役としては物足りないんだが……それ以上に変なとこからトラブルを持ち込むからな。今回は先払いだ。一杯だけにしといてやるから、有難いと思え」
「監視って……まだそうなの?」
「まぁ、半分個人的に、だ。防犯用の魔道具への登録が上手くいかないようで、他はまあいいんだが、裏口付近には近寄って欲しくない。いつまでも言いつけを守ってるから、もう言わなくてもいいかと思ってたとこだ」
若干面白くない感じがしないこともないけど、不便が無いのも事実なので何とも言えない。
「――お酒は言えばカエルが持ってきてくれるんだよね? じゃあ、いいや。もうそれで。ここにいる間はお嬢様気分を満喫することにするよ」
溜息を吐いてそう言った私を、そう言うと思ったというような顔で眺めて頷くと、カエルはもう一口お酒に口を付けて可笑しそうに笑った。
「……甘いな。ユエみたいだ」