3.わたしはダアレ
文字数 4,819文字
だけど何処かひとつの
長く続いている友達もいるにはいるが、こちらもべったりというには程遠く、実際会うのは年に数回だ。
家でスナック菓子をつまみながら、ひとりネットサーフィンしたりゲームをしていることも多い。
『月』が中国語で『ユエ』と読むと知って、ネットでは『ユエ』を名乗っていた。
金環日食やスーパームーンが巷をにぎわせた頃、とあるオンラインゲームのイベントで知り合った女性に「天文サークルに興味はない?」と誘われた。『蝕』でモンスターが活性化するイベントだったのだが、月と空のグラフィックがとても綺麗で、イベントそっちのけでよく見渡せる丘に陣取ってお月見していたために、脈アリと思われたらしい。
相手は大学生。当時高校生だった私は最初こそかなり警戒していたものの、フレンド登録して遊んでいるうちにすっかり仲良くなってしまい、結局、昼の会に参加するようになった。
彼女はリアルでもちゃんと女性だったし、送り迎えと家族への連絡もきっちりしてくれた。
そうすると、夜の会に参加するまでにそう時間はかからない。私は大学生との夜遊びにすっかり舞い上がり、初ゲットした彼氏など、すぐに二股が発覚して別れることになったりと、その雰囲気に酔っていた。
彼女と大学でサークル活動をするのを楽しみに勉強も頑張っていたのに、ある日、はたと気づいてしまった。
彼女は私が入学する前に、卒業してしまう。
他のメンバーには正直あまり興味はなかった。顔ぶれはしょっちゅう変わっていたし、元カレと顔を合わすのは気が進まない。
親には専門学校を勧められたりして、迷ってしまう。
それでも私は『大学生』になりたかった。
何より、一人暮らしがしたかった。両親との関係は良好だったけれど、何に関しても最終的には「好きにしなさい」と丸投げされるのは、自由ではあるが、突き放されているようにも感じていたのだ。
だったら、早く自立できるようになりたかった。
そんな理由で、私は隣の市の短大を受けたのだ。
その街には彼女も就職するはずだったから、近くにいれば、会うこともたやすいだろうと。
働きだした彼女は忙しく、頻繁には会えなかったけれど、サークルも活動の場をネット上に移して細々と続いていた。
もうすぐ卒業。なのに、就職が決まらない。
結果待ちがまだ数社残ってはいるが、芳しくは無い。
春になっても決まらなければ、実家に帰ることになるだろう。
それは、ちょっと……こう、バツが悪い。一人暮らしを続けるにしても、親の援助に頼りたくない。バイトの掛け持ちでなんとかやっていけるもんだろうか……
時給と家賃、光熱費……食費もか。
あれもこれも考えるのが面倒臭くなって、近所のコンビニでチューハイを買ってきた。
大丈夫大丈夫! きっとなんとかなる!
ひとり酒盛りで盛り上がって――
気が付いたら、水の流れるあの場に立っていたんだ。
◇ ◆ ◇
お屋敷のドアの向こうには、お屋敷が広がっていた。
当たり前だって? うん。そうなんだけどね。
床は臙脂のカーペットが敷いてあるし、ドアの横には壮年の執事服を着た人が恭しく
「お帰りなさいまし。奥様。人払いは済ませてございます。ご安心を」
「治療室の準備はできていて?」
「問題なく」
そこでつと顔を上げて私を見ると、彼は少し目を眇めた。
ロマンスグレーの髪を後ろになでつけ、温和そうな顔立ちだが、薄い茶色の瞳の奥に油断ならない光を湛えている。
これぞ出来る執事! という感じ。
綺麗なお姉さんもダンディーなおじさまも、ワタクシ大好物であります。ここで暮らせるなんて、天国かもしれない。
「執事のビヒトと申します。お名前をお聞きしても? お嬢さん」
髪と同じグレーの口髭の下で口元が少しだけ緩む。
いかんいかん。熱い瞳で見つめてしまった。
「ユ……ユエと申します。えぇと。よろしく、お願いします」
私の声を聴くと、ビヒトさんはわずかに驚いて、テリエル嬢に確認するように視線を向けた。
彼女はひとつ頷く。
「ビヒトもそう思うのね。近いうちに教会に行ってくるわ」
「……それがよろしいかと。ところで坊ちゃ……カエル様は迎えが必要で?」
「いえ……大丈夫みたい。もう来ると思うわ」
話している間に、ガチャリと鍵の開く音が響く。
私は慌ててその場から少し離れた。
このドア、オートロックみたいに閉めると鍵が掛かるのか。
「立ち話か? ビヒトらしくもない」
「お帰りなさいませ。体調は……問題ないようですね。安心いたしました。では、こちらへ」
ビヒトさんは向かい側の部屋のドアを開けた。先ほど潜ってきたドアと同じ意匠のドアだ。
「ビヒトはどう思う?」
「そうですね……可愛らしい、お嬢さんですね。頬の傷が痛々しい」
にこりと笑う顔に顔が熱くなる。ほ、褒められ慣れないんだから、あんまり見つめないで!
「客扱いで、問題ないと?」
「とりあえずは。奥様もそうするおつもりのようですし」
カエルは一息つくと、そうかと頷いた。心なしか警戒が緩んだ気がする。
ビヒトさんのこと、ずいぶん信頼してるんだなぁ。
中は保健室、という感じの部屋だった。
簡易なベッドに衝立、薬の匂い……天井まである大きな棚で部屋を区切り、隣は薬品室といったところだろうか。シンプルなテーブルとその上に置かれた実験道具のような物がちらりと見えた。
「カエルが先ね」
小さめのクローゼットから白衣を取り出して羽織ると、聴診器のような物を首にかけ、テリエル嬢は机の前の革張りであろう椅子に、カエルは上着を脱ぐと簡易ベッドに腰掛けた。
お医者様とかいるのかと思ったら、彼女が診るの?!
「どうぞ、こちらに。大丈夫ですよ。奥様は医師の免状も薬師の免状もお持ちですから」
気が付くと、ビヒトさんが何処からか椅子を持ってきてくれて、私の驚きを察したように説明してくれる。なんてそつがない!
お礼を言って腰掛ける。
テリエル嬢は聴診器の先のラッパ型の部分の根元についている、小さな宝石のような緑の石を軽く爪で弾いてから彼の胸に当てた。
背中側も当て終わると、もう一度石を弾いてから耳から外す。
そわそわする。何の意味があるんだろう?
「ん。問題ナシ」
彼女は机を向いて、あまり質の良さそうでない生成りの紙に何か書き込む。万年筆の様な形だが、インクにつけているので、つけペンか。
その間にカエルは上着に腕だけ通していた。
続いてあかんべぇをさせられたり、喉の奥を覗かれたり。ペンライトの様な物を使うときも、石を爪で弾いてから使う。今度の石は淡い黄色だ。
スイッチみたいなものかなと予想を付ける。
最後に注射器が取り出された。
「どっちにする?」
言いながら薄手の手袋を外すと、消毒薬が満たされているであろう洗面器で手を洗い、白い布を用意した。
カエルは無言で腕まくりすると、左腕を差し出す。
彼女は慣れた仕種で彼に直接触らないように布をかけると、あっという間に採血を終わらせた。
「着替えていいわよ」
あっちで、と奥の薬品室を指さすと、彼女は手早くいくつかの試験管に血を分け、最後の数滴を見慣れない機器に垂らした。
その機器だけ妙に現代の測定器っぽかった。
塩分や糖分を計る機械のような……ただしデジタルの数値が出るわけではなく、針が振れるタイプのようだ。
彼が立ち上がって、彼女の肩越しに覗き込む。
次の瞬間、2人はぴたりと動きを止めた。テリエル嬢の顔が徐々に焦りの表情に変わる。
なんだろう? と首を伸ばす。針は真ん中を少し超えたくらいまで振れていた。
「カエル、本当に何ともない?! 何か、変わったこととか……」
「診察ではなかったんだろ?」
椅子ごと振り返って、彼に詰め寄る彼女がぐっと言葉を詰まらせる。
「……しいて言うなら、怖いくらい調子がいい……」
まるで悪いことを報告するかのように、彼は彼女から視線を外してぼそりと言った。
「……調子、いいの?」
拍子抜けしたように、浮かせかけていた腰を椅子に降ろすと、彼女はもう一度さっきの測定器を睨みつけた。
一度流水で受け皿部分を濯いで、さらに何か薬液でも洗うと、綺麗に水分を拭き取ってから今度は水を測定器に垂らす。
ほんの僅か、小さなメモリ一つ分もいかないくらい右に振れる。
「壊れたわけじゃ……なさそう」
難しい顔をして考え込む様子を見せた彼女に、カエルに着替えを渡していたビヒトさんが声をかける。
「ユエ様のご診察が先かと」
テリエル嬢は我に返って「そうね」とこちらを向いた。
ビヒトさんは、そのまま衝立を移動させて、薬品室の方からは完全に死角になるようにしてから、下がって行った。
私はカエルに倣って簡易ベッドに腰を掛けると、上着の紐を外した。
テリエル嬢が新しい紙にさらさらと何かを書きつける。
見たこともない字だったが、じっと見ているとぼんやりとルビが浮き上がってきた。日本語で。
ぎょっとしたが、気になったのでよく見てみると名前と性別、濃い茶髪などと書かれているようだ。
これ、そういう仕様の紙じゃないよね? 私に搭載された翻訳機能は優秀ってこと?
身長体重もその場で測られ、書き加えられる。
「覚えている範囲で持病はある? あと、大きな病気をしたこととか……」
「どちらもありません……多分……」
後はカエルと同じように聴診器を当てられ、目と咽喉を確認された。違ったのは全部素手で行われたことくらいだろうか。
目がちらちらとブラに向けられるのを、ちょっと面白く感じながら上着を羽織る。
「気になるなら、あとで貸しましょうか? じっくり観察してください」
「ホント? 何の生地なのか気になってたの! レース模様も素敵よね。布地部分が少なくて心配だけど、支えはしっかりしてそうだし……服飾業の知り合いに見せてもいい? あなたの着替えも必要でしょうし」
声が弾んで、目がキラキラしていた。
ブラ一枚で心証がよくなるなら、いくらでも。と、頷いて見せると、彼女は上機嫌で採血を終わらせた。
やはりカエルの時と同じように、いくつかの試験管に血を分けて、残りの数滴を測定器に垂らす。
とたん、すごい勢いで針が右に振りきれた。
彼女は口角を上げたまま石化して、しばらくそのまま動かなかった。
それからゆっくり時間をかけて振り返ると、そのままの表情で私の両肩をがっしり掴み、有無を言わせぬ声で言ったのだ。
「もう一本、血を頂戴」
ホラーですか。
「えっ。いいですけど、それ、何を測るモノですか? 病気の兆候とか、なんでしょうか?」
「大丈夫だと思うわ。でも、他の検査もしてみる必要があると思うの。そうよね? あなたもその方が安心よね?」
な、何事?!
目は笑ってないけど、爛々としてるし! 頬を上気させてにじり寄ってこられても!
不穏な空気を察知したのか、ビヒトさんとカエルが遠慮がちにこちらを覗いた。
2人は測定器を見て一瞬ぎょっとすると、憐れみを含んだ表情でこちらを見る。
「ユエ様。こうなっては奥様は止まりません。諦めて従ってくださるのが身のためです」
紳士は申し訳なさそうに頭を下げた。
「とりあえず、店は閉めなきゃ駄目そうだな。ビヒト」
「承知いたしました」
「俺も一旦部屋に戻る。しばらくしたら迎えに来るから、まぁ、頑張れ」
その応援が怖いんですけど!
彼らが出て行った後、さっきより多めに血を抜かれ、髪の毛や唾液をサンプルだと言って取られ、服をひん剥かれて体中確認された。
綺麗なお姉さんは、マッドなお姉さんだったのだ……