8.ロテン風呂
文字数 7,944文字
軽いお昼をカエルと食べて、さて昼から何をしようかと初めて悩んだ。
と言っても出来ることは限られているので、何が出来るのかと悩んだと言うべきか。
朝読みかけの本を読んでしまうのでもいいかな。
ずっとばたばたしていたので、少しゆっくりしよう。
朝読んでいた箇所を探して本をぱらぱらと捲っていると、食器を置きに行っていたカエルが戻ってきた。
「あ、おい、先に『時の鐘』を覚えろ」
そうだ。鐘の時間の数え方を聞くんだった。
抽斗の中から紙を1枚出して何度か折り畳むと、カエルはすっと1本横線を引いた。続けて線の上にいくつか短い縦線を加えていく。
「春の始まりの日の日の出時刻を基に、朝の1刻の鐘が鳴る」
幾つ目かの縦線の上にカエルは丸を三つ描いた。いち、にぃ、さん、と私は小さな縦線を数える。
「朝の6時くらいが1刻ってことかな……」
次と次の縦線の上には丸ひとつ。その隣に丸3つ。
鐘3つと1つが2回。それがワンセットだった。
「だいたい1刻の鐘の頃に起き出して、商売人は2刻を目安に店を開ける。昼が3刻で、訪問客などは4刻の頃。5刻が夕食の頃で、酒場などが閉まるのが6刻という感じだ。この村には無いが、大きい街なんかだと外門があって、1刻と6刻で開け閉めされてる。夜中には入れないってことだ」
21時で閉まる酒場って、なんて健全。
「夜中はさすがに鳴らないんだね」
「寝れないだろ」
書かれた線をにじゅういち、にじゅうにと数えてふと違和感を覚えた。
「カエル、線1本多くない?」
「ん?」
25時まである。
「あってるぞ。0から始まって25まで」
変な顔をした私に、カエルも妙な顔になった。
1日25時間! 1時間当たりの時間の長さってどうなんだろう?
お腹の空き具合とか変わらない気がするから、大きくは違わないよね。
昨日も特に時間に違和感は感じなかったし、1時間て微妙?
「ねぇ、1年って、何日?」
また唐突な質問に、カエルが瞳を揺らす。
「ひと月が28日だから……364日、か?」
1ヶ月が28日って、太陰暦っぽい? 1年の日数はほぼ変わりないんだ……でも、1日1時間長いんだから実質15日程長い感じ?
計算上は地球じゃないってことになる。
「……そう」
数歩下がって、ベッドにぽふりと腰掛ける。
『帰る』という選択肢を今度こそ塗り潰された気分だ。真剣に身の振り方を考えよう。
いきなり来たのだから、いきなり帰れるということもあるだろうが、なんとなく、あの夢の中の『あっ』が離れない。あれは、何か不測の事態だったのだ。
「ユエ?」
訝しげなカエルの声に我に返る。
「あ。うん。大丈夫。教えてくれてありがとう。だいたい解った」
「本を読むなら、俺もちょっと時間貰おうかと思ってたんだが……」
何か心配させてしまったらしい。後半言い淀まれてちょっと申し訳ない。
「いいよいいよ。カエルもすることあるよね。大人しく本読んでるから大丈夫だよ!」
「そう、か? 具合が悪いとか……」
「ないない。元気元気」
「……多分、前庭にいるから、何かあったら呼べ」
前庭かぁ。ここからだと見え辛いな。
「じゃあ、談話室にいるよ。あそこからの方がよく見えそうだし。窓際にいればそっちからも見えるよね?」
「部屋にいてもいいぞ」
言わんとしていることが伝わったのか、カエルはちょっと眉を顰めた。
「向こうの方が景色も綺麗に見えるし、本に飽きても暇潰せそう。飽きたら戻ってくるよ。気にしないで、いってらっしゃい」
手を振って、カエルを送り出す。
それからのんびり本と紙と色鉛筆を持って談話室に向かった。
談話室のソファからクッションをひとつ拝借して、靴を脱いで行儀悪く窓際まで上がり込む。
まだ人影は見えなかった。
今日もいい天気で、視線を移すと水道橋が綺麗に見える。ちょっと気分が上がった。
物語を2つ読み終わって庭に視線を向けると、少し開けた芝生の上にビヒトさんとカエルが見えた。
ビヒトさんは上着を脱いで袖のボタンを外していて、カエルは屈伸運動したり、体を捻ったりしてる。あれ。カエル黒い手袋をはめてる?
何が始まるんだろう、と興味深く見ていると、2人とも左腕をクロスするように軽くぶつけてから後ろに飛びのいた。
乱取り、という感じでもなく攻撃はビヒトさん、それを避けるカエルという風だった。
最初はゆっくり、徐々に早く。次第にビヒトさんの手数が増えていく。
もしかして、ビヒトさんて強い? 動きがとても綺麗だ。
テリエル嬢が言っていた『手練れ』って、彼のことなんだろうか。
ひょいひょいと余裕そうに避けていたカエルが、真剣な顔になり、蹴りの1つを避けきれずに受け止めたところで、雰囲気が変わった。
今度はカエルも攻撃を加える。
連続の蹴りはスピードが乗っているものの、軸が少しぶれている(と思う)。早さに体が引きずられる感じというのか。
そういう隙にビヒトさんは何度か軽い攻撃を当てる。腰の辺りだったり、肩を押してバランスを崩させたり。
慣れてきたのか、カエルのぶれが減ってくると、ビヒトさんは突っ込んでくるカエルから目を逸らさずに足元の木刀のような物を蹴り上げた。木刀はすんなりと彼の手に収まってカエルを横薙ぎにする。
カエルは避けるでもなく、左腕で下から掬い上げる様に軌道を逸らし、そのまま鳩尾に拳を叩き込むよう腕を振った。
それを難なく避けて、軽い蹴りで牽制を入れるビヒトさん。
苦しい、と思ったら息を止めていた。自分の拳にも力が入っている。
呼吸を思い出して、何でビヒトさんの方が木刀なんだろうと不思議な気持ちで見ていたら、完全にバランスを崩したカエルの頭上に木刀が下りていく。
うわっと目を瞑る前にきらりと光りを反射するものが木刀を受け止めた。
それがカエルの腰の後ろにあった短剣だと思い当たるのに少し時間がかかった。
彼は躊躇うことなくビヒトさんに剣を振るう。
小さくうわ、うわっと声が出るほど冷や冷やした。
ビヒトさんはカエルの剣を受け止め、いなし、避ける。
最後に、カエルの懐に入り込んで伸びきった腕を絡め取ると、足払いを掛けそのまま地面に押し倒した。ぴたりと木刀が喉元に突きつけられる。
うわ。ちょっとカッコイイ!
ぱちぱちぱちとひとり拍手していると、仰向けのカエルと目が合ったような気がした。
休憩を挟みつつ、何度かそんな組手を繰り返す。
カエルがビヒトさんに上手く誘導されているのがだんだんわかってきた。
同じ時間動いているはずなのに、カエルの方が息が上がるのが早い。基礎体力の差ばかりではない気もする。
結局最後まで彼らの組手を見学してしまった。
4刻の3つの鐘が鳴ると、彼らは右手の拳をぶつけて組手をやめ、体に付いた草や土を軽く払って館の方に戻ってきた。
全く動いていない私も何故だか軽い高揚感があって、荷物もそのままにブーツを履くとホールまで駆け降りる。
階段下まで来ていた彼らに、私はそのままダイブした。
一度ビヒトさんの腰辺りに抱き着いて、がばりと起き上がると、ぎょっとしている2人の顔が見えた。
ビヒトさんは両手をばんざい、とホールドアップしている。
構わずに両手をぎゅっと握って力説の体制をとる。
「――すごい! ビヒトさんの蹴りとか、すごい綺麗! ああいうの、初めて見ました! いつもやってるんですか?! 型みたいなのとかもあるんですか!?」
キラキラした私の瞳に、先に我に返ったのはビヒトさんだった。
乱れた髪を撫でつけながら、まず私を窘 める。
「年頃の娘さんに抱き着かれるのは、老いぼれとしては嬉しいのですが、やめた方がよろしいかと。特に汗で汚れた上に坊ちゃまに虐められた後には少々きつう御座います。それと、型などは特に御座いません。すべて自己流で恥ずかしい限りです」
「ビヒト、坊ちゃまはやめろって言ってるだろ。それに、虐められたのは俺だ。ビヒトには掠りもしてないじゃないか」
憮然としてカエルが口を挟む。
うっかり坊ちゃまと口を滑らすほどには、ビヒトさんも何か混乱しているのかもしれない。
「カエル様も今日は少し速さがありましたね。初めは体がついてきていない感じではありましたが……」
「久々だったしな。動けるのは気持ちがいい。また頼む」
どこかすっきりしたような顔でカエルが頷く。
「お風呂で汗を流してきてはどうですか。風邪でもひかれては私が奥様に怒られてしまいます」
「そう……だな。ビヒトは?」
「私は仕事がございますので、体を拭くのに留めておきますよ」
少しおどけたビヒトさんも素敵だ。この穏やかそうな紳士のどこにあの激しさが潜んでいるのだろう。
そして、魅惑のワード。お風呂。
「お風呂って、温泉?」
「左様でございます。温泉を御存じで?」
「大好きです♪たまに旅行で行くのが楽しみで。ね、一緒に入ってもいい?」
「――は?」
カエルは本当に意味が分からないという顔をした。
ビヒトさんは苦笑を通り越して、爆笑を精一杯こらえている様な顔になっている。
「え。沐浴着着て入るんでしょ?」
何か着て入るのだから、混浴は当たり前だと思ってるんだけど。
「着てるからってっ! 夫婦でもあるまいし!」
ようやく意味が染みた、というようにかっとカエルの顔が朱に染まった。
こういう反応は新鮮だ。カエルは表情の動きが少ない。
「夫婦ならいいの?」
ちょっと、いたずら心が疼いてしまった。
私はにっこり笑う。
「じゃあ、カエルと夫婦になるから、一緒に入ろ♪」
「そういうことを軽々しく言うな!」
ちょっと本気で怒られた。あれ。こういう冗談 は駄目か。でもお風呂には入りたい。
「んー。それでもいいと思ったんだけど……じゃ、ビヒトさんも、3人で入ろう! あ、テリエルさんも誘って、皆で入ればいいのかな」
「お嬢を誘うなら、お嬢と入れよ。俺たちがお嬢と入るなんてありえないだろ」
テリエル嬢なら入りそうな気がするんだけど……
「お風呂は交流の場でしょ? 皆で入るのがいいんじゃない。ん。でも、ビヒトさんはもしかして奥さんとかに怒られる?」
「寂しい独り身ですので、誰かに怒られる、ということはございませんが……」
自分に矛先が向かって、ビヒトさんはちょっと及び腰になる。
「じゃあ、ビヒトさんのお嫁さんでもいいよ! えっと、ビヒトさんより家事ができるか不安だけど……」
がばっと両手を広げてビヒトさんに飛び付こうとして、その両腕を抑え込まれる。
「やめろって、言われたばかりだろ! 風呂に入りたいだけで嫁に行くやつが何処にいるんだっ」
ここにいます。
いいじゃないか。永久就職。職の無い私は切実なんだ。美味しい話に飛び付いて何が悪い。
私は腕を掴んでいる黒い手をむーっと睨みつけた。
「情熱的なプロポーズはありがたいのですが、その辺りは奥様にもご相談しませんとなんとも……ちょっと、業務進行も聞いて参ります」
明らかにその場を逃げ出したビヒトさん。
カエルは溜息を吐いて私の腕を乱暴に離した。
「ちょっと考えて行動しないと、取り返しのつかないことになるぞ」
「これでも人を見てるつもりだけど……行き遅れになるよりはもらってもらえる方がいいなぁ」
「本当に20歳だっていうなら、充分行き遅れてんじゃないのか」
カエルに鼻で笑われた! どういうこと?!
「だいたい、ビヒト『でもいい』って、ビヒトに失礼だろ」
はっ、と気付く。
「ビヒトさんがいいって言わなきゃ駄目だった!」
「本気でビヒトの嫁に行くと?」
呆れ顔でカエルが聞く。
「なんで? カッコイイし紳士だし、独身だし問題ないよね?」
答えた途端、もの凄く苦い顔を彼はした。
何が苦いのか、私には想像もつかない。歳の差婚はこういうところでは珍しくないのが普通じゃないの?
黙り込んでしまったカエルに、私は付け足しておく。
「……相手が嫌だっていうのに、押しかけるつもりまでは無いよ?」
カツカツと、やや急ぎ足でビヒトさんが戻ってくる。
「おふたりとも、奥様がとりあえず風呂に行くようにと」
「――はぁ?!」
「『ぐだぐだ言ってるうちに汗が冷えて風邪をひいたら馬鹿らしいから、3人で入ってしまいなさい』と」
肩を竦めて、鍵をちらつかせる。
「ユエ様がいいとおっしゃるのだから、役得と甘えてしまいましょう」
さすが、年の功か、ビヒトさんはにっこりと笑って言い切った。
嫁入りは何処かに消えてしまったみたいだけど、とにかくお風呂に入れるよ!
「ビヒトさん、大好き!」
3度目の突進は本人に軽やかに避けられて、転びそうになる。
「お気持ちは有難く。若返った気になれますな」
ほっほっと笑いながら、ビヒトさんは階段を登って行った。
カエルはずっと不機嫌だった。本気で怒ると黙り込むタイプの人がいるが、まさにそれだ。
私のことを怒っているのか、テリエル嬢の決定に異議があるのか、怒りの元がわからなくてこちらも困る。
温泉に続くドアを開けると、左右の棚に沐浴着やタオルが並んでいる小部屋があり、そこから各々着替えを持ってさらに進む。
しばらく渡り廊下が続き、不意に開けた所に出たかと思ったら、目の前に湯気の立つ温泉が見えた。10人くらいは余裕で入れそうな岩風呂だ。
左右に分かれて小さな脱衣所がある。
沐浴着に着替えて脱衣所を出ると、ビヒトさんが木箱から手桶を出すところだった。
なるほど、と私も手桶を取り出してかけ湯する。下半身から、徐々に上半身だ。
露天だから、お湯の温度は少し熱めに感じる。そろそろと足を入れ、徐々に体を沈めると沐浴着がぴりっと熱さを伝えた。
うっふふ〜。極楽極楽♪
「随分手馴れてるのですな」
タオルを頭に乗せて鼻歌を歌っていたら、ビヒトさんが不思議そうに尋ねる。
「好きですから。お風呂。みんなで入るなら、マナーは大事ですし」
「このような風呂に、みなが入れる環境で?」
「そういう所もありましたよ。家のお風呂は温泉じゃなかったですけどね。ここはあちこちに温泉が湧いてるんですか?」
「何ヶ所かあるようですが、入れるように整備されたのはここくらいでしょうな。水は豊富な土地故、大衆浴場みたいなものは村に1つあるのですが」
銭湯があるのか。この村を興した人の中に日本人かローマ人が混じってたんじゃないでしょうね。
そう思って村と言われた方を向いてみる。
教会の鐘がかろうじて見えるくらいだった。木々の葉に視界を阻まれているのだ。
これ、秋には紅葉するのかな。
そういえば。
「教会に行くって言ってましたけど、何をするんですか? お祈りとか知りませんけど……」
「こちらにおいでの神官さんは『神眼』の加護持ちでいらっしゃられるので、嘘偽りがないか宣誓にかけられるのですよ。ついでにユエ様が加護をお持ちかどうかも視て頂きます」
人間嘘発見器ってこと? 余計なことは言わぬが花だね。
「『神眼』って凄そうですけど、もっと中央の方に居なくていいんですかね」
「さぁ……オトゥシーク教の中のことは私には分かりかねます。数年前に総主教が変わりましたから、その影響かもしれませんね」
ふぅん、と適当に相槌を打って、ちらりとカエルに目をやる。
ひとり逆サイドに離れて入っているのだが、まだ不機嫌そうだ。若い娘と混浴できるなんて、役得だと思えないのかねー?
あれ? 若いと思われてない? いやいや。まさかまさか。
「カエルって、女嫌い?」
小声でビヒトさんに聞いてみる。
きょとん、とした後悪い笑顔になって、ビヒトさんも小声になった。
「どうでしょう。ご縁は、あまりなかったですね。奥様に研究のためと今まで色々されてますので、もしかしたらその辺がトラウマに……」
「聞こえてるぞっ」
いらっとしたカエルの声に、2人で笑う。
一瞬だけ、家族で温泉にいるような気分になった。
仕事に戻るビヒトさんに合わせて早めに上がり、ほかほかの余韻に浸っているうちに晩御飯の時間になって食堂へ下りた。
給仕中のカエルは不機嫌の欠片もなく、穏やかな微笑みを浮かべていた。公私をきっぱりと分けるその姿勢は、褒めるべきところなのだろう。
今日はアレッタの姿もあって、テリエル嬢への給仕は彼女が行っていた。
ビヒトさんはカエルを逐一チェックしていて、視線が厳しい。
私はフォークとナイフに慣れてきたものの、まだまだぎこちない。お箸が恋しくなっていた。
あんなに便利なものは無い。豆類に逃げられることもない。くそう。
「カエル、お箸作って」
お皿の上の小さなお豆をフォークで刺せずにイライラしながら、理不尽なことを口走る。
細かい物やこういう取り難いものは残しても問題ないようなのだが、お米の一粒まで綺麗に食べなさいと躾けられた身としては、どうにも気になって仕方がない。
「――はい? 何を……」
「……ごめん。なんでもない」
イライラがピークだったので、もう手掴みでぽいっと口に入れてやった。もちろんその場の全員に睨まれたけど、気付かない振りをした。
「何を作れって?」
食後のお茶を飲んでると、執事の皮を脱ぎ捨てたカエルが仏頂面で聞いてきた。
お茶を片手にテーブルに腰掛けようとしてアレッタに注意されている。仕方なさそうに隣の椅子に腰かけて、こちらを見た。
「……いや、あればいいなってくらいで……無理にとは……」
「俺が作れそうな物なのか?」
ナイフや短剣を扱うくらいだから、多分できると思うんだけど。
「私よりは上手そう。このくらいの長さで、細い棒を2本作って欲しいの。片方の先を細くした形で」
「串みたいなもんか?」
「そんなに細くなくていいよ。危ないから先は尖らせすぎないでね。んー。小指よりちょっと細いくらいの太さで。出来る?」
「難しくはないが……何に使うもんだ?」
「ご飯食べるときに使う道具。暇な時でいいよ。豆にイラついて口に出ただけだから」
「豆?」
カエルの頭の中は『?』で一杯になっていそうだったが、とりあえず了承してくれた。
部屋に戻る途中談話室の前を通り過ぎようとして、はたと気付く。
本とか置きっぱなしだ!
2人の組手に興奮してそのまま飛び出したんだった。危ない危ない。
「か……カエル先に行ってて。私、談話室に忘れ物が……」
カエルも昼間のことを思い出したのか、呆れ顔で手を振った。
急いで出窓に向かい、クッションをぽふぽふ叩いて形を整え、元の位置に戻す。
本と紙類、色鉛筆を抱えようとして、真っ暗な外の景色に意識をとられた。
電灯の類がほとんどなく、たまに見える明かりもほの暗い。視線を上げると星が見えたが、室内の灯りが反射していて少し見づらかった。
私はカーテンをひき、もう一度窓際に乗り上がる。少し見やすくなった星空は、けれど知っている星座1つも見つからなかった。
と言っても出来ることは限られているので、何が出来るのかと悩んだと言うべきか。
朝読みかけの本を読んでしまうのでもいいかな。
ずっとばたばたしていたので、少しゆっくりしよう。
朝読んでいた箇所を探して本をぱらぱらと捲っていると、食器を置きに行っていたカエルが戻ってきた。
「あ、おい、先に『時の鐘』を覚えろ」
そうだ。鐘の時間の数え方を聞くんだった。
抽斗の中から紙を1枚出して何度か折り畳むと、カエルはすっと1本横線を引いた。続けて線の上にいくつか短い縦線を加えていく。
「春の始まりの日の日の出時刻を基に、朝の1刻の鐘が鳴る」
幾つ目かの縦線の上にカエルは丸を三つ描いた。いち、にぃ、さん、と私は小さな縦線を数える。
「朝の6時くらいが1刻ってことかな……」
次と次の縦線の上には丸ひとつ。その隣に丸3つ。
鐘3つと1つが2回。それがワンセットだった。
「だいたい1刻の鐘の頃に起き出して、商売人は2刻を目安に店を開ける。昼が3刻で、訪問客などは4刻の頃。5刻が夕食の頃で、酒場などが閉まるのが6刻という感じだ。この村には無いが、大きい街なんかだと外門があって、1刻と6刻で開け閉めされてる。夜中には入れないってことだ」
21時で閉まる酒場って、なんて健全。
「夜中はさすがに鳴らないんだね」
「寝れないだろ」
書かれた線をにじゅういち、にじゅうにと数えてふと違和感を覚えた。
「カエル、線1本多くない?」
「ん?」
25時まである。
「あってるぞ。0から始まって25まで」
変な顔をした私に、カエルも妙な顔になった。
1日25時間! 1時間当たりの時間の長さってどうなんだろう?
お腹の空き具合とか変わらない気がするから、大きくは違わないよね。
昨日も特に時間に違和感は感じなかったし、1時間て微妙?
「ねぇ、1年って、何日?」
また唐突な質問に、カエルが瞳を揺らす。
「ひと月が28日だから……364日、か?」
1ヶ月が28日って、太陰暦っぽい? 1年の日数はほぼ変わりないんだ……でも、1日1時間長いんだから実質15日程長い感じ?
計算上は地球じゃないってことになる。
「……そう」
数歩下がって、ベッドにぽふりと腰掛ける。
『帰る』という選択肢を今度こそ塗り潰された気分だ。真剣に身の振り方を考えよう。
いきなり来たのだから、いきなり帰れるということもあるだろうが、なんとなく、あの夢の中の『あっ』が離れない。あれは、何か不測の事態だったのだ。
「ユエ?」
訝しげなカエルの声に我に返る。
「あ。うん。大丈夫。教えてくれてありがとう。だいたい解った」
「本を読むなら、俺もちょっと時間貰おうかと思ってたんだが……」
何か心配させてしまったらしい。後半言い淀まれてちょっと申し訳ない。
「いいよいいよ。カエルもすることあるよね。大人しく本読んでるから大丈夫だよ!」
「そう、か? 具合が悪いとか……」
「ないない。元気元気」
「……多分、前庭にいるから、何かあったら呼べ」
前庭かぁ。ここからだと見え辛いな。
「じゃあ、談話室にいるよ。あそこからの方がよく見えそうだし。窓際にいればそっちからも見えるよね?」
「部屋にいてもいいぞ」
言わんとしていることが伝わったのか、カエルはちょっと眉を顰めた。
「向こうの方が景色も綺麗に見えるし、本に飽きても暇潰せそう。飽きたら戻ってくるよ。気にしないで、いってらっしゃい」
手を振って、カエルを送り出す。
それからのんびり本と紙と色鉛筆を持って談話室に向かった。
談話室のソファからクッションをひとつ拝借して、靴を脱いで行儀悪く窓際まで上がり込む。
まだ人影は見えなかった。
今日もいい天気で、視線を移すと水道橋が綺麗に見える。ちょっと気分が上がった。
物語を2つ読み終わって庭に視線を向けると、少し開けた芝生の上にビヒトさんとカエルが見えた。
ビヒトさんは上着を脱いで袖のボタンを外していて、カエルは屈伸運動したり、体を捻ったりしてる。あれ。カエル黒い手袋をはめてる?
何が始まるんだろう、と興味深く見ていると、2人とも左腕をクロスするように軽くぶつけてから後ろに飛びのいた。
乱取り、という感じでもなく攻撃はビヒトさん、それを避けるカエルという風だった。
最初はゆっくり、徐々に早く。次第にビヒトさんの手数が増えていく。
もしかして、ビヒトさんて強い? 動きがとても綺麗だ。
テリエル嬢が言っていた『手練れ』って、彼のことなんだろうか。
ひょいひょいと余裕そうに避けていたカエルが、真剣な顔になり、蹴りの1つを避けきれずに受け止めたところで、雰囲気が変わった。
今度はカエルも攻撃を加える。
連続の蹴りはスピードが乗っているものの、軸が少しぶれている(と思う)。早さに体が引きずられる感じというのか。
そういう隙にビヒトさんは何度か軽い攻撃を当てる。腰の辺りだったり、肩を押してバランスを崩させたり。
慣れてきたのか、カエルのぶれが減ってくると、ビヒトさんは突っ込んでくるカエルから目を逸らさずに足元の木刀のような物を蹴り上げた。木刀はすんなりと彼の手に収まってカエルを横薙ぎにする。
カエルは避けるでもなく、左腕で下から掬い上げる様に軌道を逸らし、そのまま鳩尾に拳を叩き込むよう腕を振った。
それを難なく避けて、軽い蹴りで牽制を入れるビヒトさん。
苦しい、と思ったら息を止めていた。自分の拳にも力が入っている。
呼吸を思い出して、何でビヒトさんの方が木刀なんだろうと不思議な気持ちで見ていたら、完全にバランスを崩したカエルの頭上に木刀が下りていく。
うわっと目を瞑る前にきらりと光りを反射するものが木刀を受け止めた。
それがカエルの腰の後ろにあった短剣だと思い当たるのに少し時間がかかった。
彼は躊躇うことなくビヒトさんに剣を振るう。
小さくうわ、うわっと声が出るほど冷や冷やした。
ビヒトさんはカエルの剣を受け止め、いなし、避ける。
最後に、カエルの懐に入り込んで伸びきった腕を絡め取ると、足払いを掛けそのまま地面に押し倒した。ぴたりと木刀が喉元に突きつけられる。
うわ。ちょっとカッコイイ!
ぱちぱちぱちとひとり拍手していると、仰向けのカエルと目が合ったような気がした。
休憩を挟みつつ、何度かそんな組手を繰り返す。
カエルがビヒトさんに上手く誘導されているのがだんだんわかってきた。
同じ時間動いているはずなのに、カエルの方が息が上がるのが早い。基礎体力の差ばかりではない気もする。
結局最後まで彼らの組手を見学してしまった。
4刻の3つの鐘が鳴ると、彼らは右手の拳をぶつけて組手をやめ、体に付いた草や土を軽く払って館の方に戻ってきた。
全く動いていない私も何故だか軽い高揚感があって、荷物もそのままにブーツを履くとホールまで駆け降りる。
階段下まで来ていた彼らに、私はそのままダイブした。
一度ビヒトさんの腰辺りに抱き着いて、がばりと起き上がると、ぎょっとしている2人の顔が見えた。
ビヒトさんは両手をばんざい、とホールドアップしている。
構わずに両手をぎゅっと握って力説の体制をとる。
「――すごい! ビヒトさんの蹴りとか、すごい綺麗! ああいうの、初めて見ました! いつもやってるんですか?! 型みたいなのとかもあるんですか!?」
キラキラした私の瞳に、先に我に返ったのはビヒトさんだった。
乱れた髪を撫でつけながら、まず私を
「年頃の娘さんに抱き着かれるのは、老いぼれとしては嬉しいのですが、やめた方がよろしいかと。特に汗で汚れた上に坊ちゃまに虐められた後には少々きつう御座います。それと、型などは特に御座いません。すべて自己流で恥ずかしい限りです」
「ビヒト、坊ちゃまはやめろって言ってるだろ。それに、虐められたのは俺だ。ビヒトには掠りもしてないじゃないか」
憮然としてカエルが口を挟む。
うっかり坊ちゃまと口を滑らすほどには、ビヒトさんも何か混乱しているのかもしれない。
「カエル様も今日は少し速さがありましたね。初めは体がついてきていない感じではありましたが……」
「久々だったしな。動けるのは気持ちがいい。また頼む」
どこかすっきりしたような顔でカエルが頷く。
「お風呂で汗を流してきてはどうですか。風邪でもひかれては私が奥様に怒られてしまいます」
「そう……だな。ビヒトは?」
「私は仕事がございますので、体を拭くのに留めておきますよ」
少しおどけたビヒトさんも素敵だ。この穏やかそうな紳士のどこにあの激しさが潜んでいるのだろう。
そして、魅惑のワード。お風呂。
「お風呂って、温泉?」
「左様でございます。温泉を御存じで?」
「大好きです♪たまに旅行で行くのが楽しみで。ね、一緒に入ってもいい?」
「――は?」
カエルは本当に意味が分からないという顔をした。
ビヒトさんは苦笑を通り越して、爆笑を精一杯こらえている様な顔になっている。
「え。沐浴着着て入るんでしょ?」
何か着て入るのだから、混浴は当たり前だと思ってるんだけど。
「着てるからってっ! 夫婦でもあるまいし!」
ようやく意味が染みた、というようにかっとカエルの顔が朱に染まった。
こういう反応は新鮮だ。カエルは表情の動きが少ない。
「夫婦ならいいの?」
ちょっと、いたずら心が疼いてしまった。
私はにっこり笑う。
「じゃあ、カエルと夫婦になるから、一緒に入ろ♪」
「そういうことを軽々しく言うな!」
ちょっと本気で怒られた。あれ。こういう
「んー。それでもいいと思ったんだけど……じゃ、ビヒトさんも、3人で入ろう! あ、テリエルさんも誘って、皆で入ればいいのかな」
「お嬢を誘うなら、お嬢と入れよ。俺たちがお嬢と入るなんてありえないだろ」
テリエル嬢なら入りそうな気がするんだけど……
「お風呂は交流の場でしょ? 皆で入るのがいいんじゃない。ん。でも、ビヒトさんはもしかして奥さんとかに怒られる?」
「寂しい独り身ですので、誰かに怒られる、ということはございませんが……」
自分に矛先が向かって、ビヒトさんはちょっと及び腰になる。
「じゃあ、ビヒトさんのお嫁さんでもいいよ! えっと、ビヒトさんより家事ができるか不安だけど……」
がばっと両手を広げてビヒトさんに飛び付こうとして、その両腕を抑え込まれる。
「やめろって、言われたばかりだろ! 風呂に入りたいだけで嫁に行くやつが何処にいるんだっ」
ここにいます。
いいじゃないか。永久就職。職の無い私は切実なんだ。美味しい話に飛び付いて何が悪い。
私は腕を掴んでいる黒い手をむーっと睨みつけた。
「情熱的なプロポーズはありがたいのですが、その辺りは奥様にもご相談しませんとなんとも……ちょっと、業務進行も聞いて参ります」
明らかにその場を逃げ出したビヒトさん。
カエルは溜息を吐いて私の腕を乱暴に離した。
「ちょっと考えて行動しないと、取り返しのつかないことになるぞ」
「これでも人を見てるつもりだけど……行き遅れになるよりはもらってもらえる方がいいなぁ」
「本当に20歳だっていうなら、充分行き遅れてんじゃないのか」
カエルに鼻で笑われた! どういうこと?!
「だいたい、ビヒト『でもいい』って、ビヒトに失礼だろ」
はっ、と気付く。
「ビヒトさんがいいって言わなきゃ駄目だった!」
「本気でビヒトの嫁に行くと?」
呆れ顔でカエルが聞く。
「なんで? カッコイイし紳士だし、独身だし問題ないよね?」
答えた途端、もの凄く苦い顔を彼はした。
何が苦いのか、私には想像もつかない。歳の差婚はこういうところでは珍しくないのが普通じゃないの?
黙り込んでしまったカエルに、私は付け足しておく。
「……相手が嫌だっていうのに、押しかけるつもりまでは無いよ?」
カツカツと、やや急ぎ足でビヒトさんが戻ってくる。
「おふたりとも、奥様がとりあえず風呂に行くようにと」
「――はぁ?!」
「『ぐだぐだ言ってるうちに汗が冷えて風邪をひいたら馬鹿らしいから、3人で入ってしまいなさい』と」
肩を竦めて、鍵をちらつかせる。
「ユエ様がいいとおっしゃるのだから、役得と甘えてしまいましょう」
さすが、年の功か、ビヒトさんはにっこりと笑って言い切った。
嫁入りは何処かに消えてしまったみたいだけど、とにかくお風呂に入れるよ!
「ビヒトさん、大好き!」
3度目の突進は本人に軽やかに避けられて、転びそうになる。
「お気持ちは有難く。若返った気になれますな」
ほっほっと笑いながら、ビヒトさんは階段を登って行った。
カエルはずっと不機嫌だった。本気で怒ると黙り込むタイプの人がいるが、まさにそれだ。
私のことを怒っているのか、テリエル嬢の決定に異議があるのか、怒りの元がわからなくてこちらも困る。
温泉に続くドアを開けると、左右の棚に沐浴着やタオルが並んでいる小部屋があり、そこから各々着替えを持ってさらに進む。
しばらく渡り廊下が続き、不意に開けた所に出たかと思ったら、目の前に湯気の立つ温泉が見えた。10人くらいは余裕で入れそうな岩風呂だ。
左右に分かれて小さな脱衣所がある。
沐浴着に着替えて脱衣所を出ると、ビヒトさんが木箱から手桶を出すところだった。
なるほど、と私も手桶を取り出してかけ湯する。下半身から、徐々に上半身だ。
露天だから、お湯の温度は少し熱めに感じる。そろそろと足を入れ、徐々に体を沈めると沐浴着がぴりっと熱さを伝えた。
うっふふ〜。極楽極楽♪
「随分手馴れてるのですな」
タオルを頭に乗せて鼻歌を歌っていたら、ビヒトさんが不思議そうに尋ねる。
「好きですから。お風呂。みんなで入るなら、マナーは大事ですし」
「このような風呂に、みなが入れる環境で?」
「そういう所もありましたよ。家のお風呂は温泉じゃなかったですけどね。ここはあちこちに温泉が湧いてるんですか?」
「何ヶ所かあるようですが、入れるように整備されたのはここくらいでしょうな。水は豊富な土地故、大衆浴場みたいなものは村に1つあるのですが」
銭湯があるのか。この村を興した人の中に日本人かローマ人が混じってたんじゃないでしょうね。
そう思って村と言われた方を向いてみる。
教会の鐘がかろうじて見えるくらいだった。木々の葉に視界を阻まれているのだ。
これ、秋には紅葉するのかな。
そういえば。
「教会に行くって言ってましたけど、何をするんですか? お祈りとか知りませんけど……」
「こちらにおいでの神官さんは『神眼』の加護持ちでいらっしゃられるので、嘘偽りがないか宣誓にかけられるのですよ。ついでにユエ様が加護をお持ちかどうかも視て頂きます」
人間嘘発見器ってこと? 余計なことは言わぬが花だね。
「『神眼』って凄そうですけど、もっと中央の方に居なくていいんですかね」
「さぁ……オトゥシーク教の中のことは私には分かりかねます。数年前に総主教が変わりましたから、その影響かもしれませんね」
ふぅん、と適当に相槌を打って、ちらりとカエルに目をやる。
ひとり逆サイドに離れて入っているのだが、まだ不機嫌そうだ。若い娘と混浴できるなんて、役得だと思えないのかねー?
あれ? 若いと思われてない? いやいや。まさかまさか。
「カエルって、女嫌い?」
小声でビヒトさんに聞いてみる。
きょとん、とした後悪い笑顔になって、ビヒトさんも小声になった。
「どうでしょう。ご縁は、あまりなかったですね。奥様に研究のためと今まで色々されてますので、もしかしたらその辺がトラウマに……」
「聞こえてるぞっ」
いらっとしたカエルの声に、2人で笑う。
一瞬だけ、家族で温泉にいるような気分になった。
仕事に戻るビヒトさんに合わせて早めに上がり、ほかほかの余韻に浸っているうちに晩御飯の時間になって食堂へ下りた。
給仕中のカエルは不機嫌の欠片もなく、穏やかな微笑みを浮かべていた。公私をきっぱりと分けるその姿勢は、褒めるべきところなのだろう。
今日はアレッタの姿もあって、テリエル嬢への給仕は彼女が行っていた。
ビヒトさんはカエルを逐一チェックしていて、視線が厳しい。
私はフォークとナイフに慣れてきたものの、まだまだぎこちない。お箸が恋しくなっていた。
あんなに便利なものは無い。豆類に逃げられることもない。くそう。
「カエル、お箸作って」
お皿の上の小さなお豆をフォークで刺せずにイライラしながら、理不尽なことを口走る。
細かい物やこういう取り難いものは残しても問題ないようなのだが、お米の一粒まで綺麗に食べなさいと躾けられた身としては、どうにも気になって仕方がない。
「――はい? 何を……」
「……ごめん。なんでもない」
イライラがピークだったので、もう手掴みでぽいっと口に入れてやった。もちろんその場の全員に睨まれたけど、気付かない振りをした。
「何を作れって?」
食後のお茶を飲んでると、執事の皮を脱ぎ捨てたカエルが仏頂面で聞いてきた。
お茶を片手にテーブルに腰掛けようとしてアレッタに注意されている。仕方なさそうに隣の椅子に腰かけて、こちらを見た。
「……いや、あればいいなってくらいで……無理にとは……」
「俺が作れそうな物なのか?」
ナイフや短剣を扱うくらいだから、多分できると思うんだけど。
「私よりは上手そう。このくらいの長さで、細い棒を2本作って欲しいの。片方の先を細くした形で」
「串みたいなもんか?」
「そんなに細くなくていいよ。危ないから先は尖らせすぎないでね。んー。小指よりちょっと細いくらいの太さで。出来る?」
「難しくはないが……何に使うもんだ?」
「ご飯食べるときに使う道具。暇な時でいいよ。豆にイラついて口に出ただけだから」
「豆?」
カエルの頭の中は『?』で一杯になっていそうだったが、とりあえず了承してくれた。
部屋に戻る途中談話室の前を通り過ぎようとして、はたと気付く。
本とか置きっぱなしだ!
2人の組手に興奮してそのまま飛び出したんだった。危ない危ない。
「か……カエル先に行ってて。私、談話室に忘れ物が……」
カエルも昼間のことを思い出したのか、呆れ顔で手を振った。
急いで出窓に向かい、クッションをぽふぽふ叩いて形を整え、元の位置に戻す。
本と紙類、色鉛筆を抱えようとして、真っ暗な外の景色に意識をとられた。
電灯の類がほとんどなく、たまに見える明かりもほの暗い。視線を上げると星が見えたが、室内の灯りが反射していて少し見づらかった。
私はカーテンをひき、もう一度窓際に乗り上がる。少し見やすくなった星空は、けれど知っている星座1つも見つからなかった。