86.エピローグ:シュクヤムビ(後編)
文字数 4,293文字
あおいとは家族だった。姉と弟。それが、あおいが望んでいた形だったから。
小学生のうちは本当に煩わしいだけだった。姉の弟に対する色々な理不尽を、毎日憤慨していた。
俺が思春期と呼ばれる時期に入っても、あおいは変わらなかった。
煩わしい、と思うのと同時に、俺に触れる時のあおいは少し様子が違うことに気付き始めた。
淋しさが、どこかに潜んでいるのだ。
それが、何に対する淋しさなのかまでは解らなかったけれど。
性的な触れ合いではない。あくまでも両親に甘える子供のような。その歳になって両親に甘えられないのを、俺で補っている。確信したのはつい最近かもしれない。
時々、若い自分の本能がそうする彼女を女として認知しそうになった。
うっかり、本当にうっかりそれに負けて彼女を押し倒したりしたら。あっさり受け入れるあおいが想像できて青くなった。
彼女は倫理観が薄い所がある。他人に迷惑さえかけなければ、自分のことにはこだわらない。
恐らく、ごめんごめん。誘っちゃったね。いやー。わたるも男だったんだねぇ。って笑って、次の日から俺に触れてこなくなる。それ以上俺が踏み外さないように。
俺はあおいの弟の位置を手放したくなかった。甘える彼女を離したくなかった。
だから、ことさらに冷たくした。冷たくしても、彼女が甘えるのは自分だったから。
あおいが天文サークルに参加するようになって、どうやら彼氏ができたようだったが、俺に甘える頻度は変わらなかった。
おかしいな、と思っていたら別れたとあの彼女に聞いた。私の監視が甘くてごめんなさいと謝られたけど、謝られてもどうしようもない。というか、俺には関係ない。
そう言うと彼女は面食らっていた。何か、誤解したかもしれない。
そういうことが何度か続いて、あおいが一人暮らしをするようになると、流石に甘えられる頻度は激減した。
俺も彼女がいたから、あおいが遠慮していたのかもしれない。
それが、卒業も見えてきて、就職が決まらないと、急に実家に戻ってくる頻度を増していた。
俺も受験だったから家で彼女と勉強してることもあって、ただいまと部屋を覗いて残念そうに去っていくこともあった。
俺は漠然と、このまま職が決まらなくて、あおいは家に戻ってくると思っていた。
穀潰し、と笑う俺をぽかぽかと殴るあおいが見えていた。
それなのに――。
いなくなって数ヶ月で、聞いたことも無いような言葉を話す男と結婚する?
こっちが必死で探して、繋がりを切らないように腐心してるっていうのに。
普通に暮らして、普通に出会って結婚したのなら、たまに帰ってきてまた俺に甘えるだろう。
でもこれは。このドアを閉めたら、もうあおいは戻って来ない。俺に甘えに来ることも無い。
弟をかなぐり捨てて追って行こうか?
幸せそうに手を繋ぐ2人が瞼に浮かぶ。出来る訳がない。
あおいが淋しくないのなら、俺が淋しくても我慢しなければ。俺は、あおいの家族なのだから。弟であると決めたのだから。
「馬鹿」
もう見えなくなったあおいの背中に一言だけ呟いて、俺はそのドアをぱたりと閉めた。
それからも何度か夢を見た。
もう2度とドアは現れなかったけど。
1度だけ、彼氏だけが出てきたことがあった。その時だけ硝子の壁の真ん中に丸い卓袱台 が埋まり込むように置いてあって、卓上の真ん中付近の壁にはコップが通るくらいの四角い穴が開いていた。
俺は一升瓶を持っていて、テーブルにはコップが2つ。
なんだこれ。差向かえってか。
多少不安になりつつも、その日本酒をコップに注いで1つを穴を通して押しやった。
彼もいつもと違う雰囲気に躊躇いつつ、それに手を伸ばし、穴の所で乾杯とコップを合わせた。
何に乾杯なのかも2人とも分かっていなかった。
彼はそれに口を付けると、旨い、と呟いた。それで、穴から聞こえる言葉は翻訳されるのだと解った。
きりりと辛口の酒だったが、彼は強いのかもしれない。
ぽつりぽつりとあおいの近況などを聞いた。
彼女は通訳なんてことをやってるらしい。英語も覚束ない彼女が? と思っていたが、本人は日本語を聞き、日本語を話しているようだ。便利だな。
「そちらの近況は伝えなくてもいいのか?」
残り少なくなったコップをこちらに寄越すよう促すと、それを差し出しながら彼は聞く。顔色1つ変わらない。ざるか。ウワバミか。
「俺と差し向かいで飲んで聞いたって言ったら、あいつ拗ねるぞ。日本酒なんて無いんだろう?」
ぱちぱちと瞬いて、注がれた酒に視線を落とすと、彼はふっと笑った。
「こんな強い酒、飲んだらすぐ潰れそうだな」
「それがなー。酔っぱらうんだが、潰れないんだよな」
「そう、なのか?」
「一緒に飲んだことは無いけどな。鬱陶しさが倍くらいになるから、おとなしく潰れてくれればいいんだが。一緒に飲まないのか?」
「……途中でやめさせるから……」
ぎょっとした。やめさせられて、おとなしく飲むのをやめてるのか! あの、人の言うことをこれっぽっちも聞かないあおいが!
俺が驚いてる間に、彼はす、と居住まいを正して頭を下げた。
「ムスメサンヲ、ボクニクダサイ」
落ち着こうと口に含んだ酒を吹き出すところだった。
頑張って覚えたんだろう日本語だったが、色々、間違ってる。
「あおいに聞いたのか? それは、父親に言う言葉だ。俺には娘はいないし、あおいは俺のモノじゃない」
なんとか飲み込んだ酒がひりひりと喉を焼いた。
彼は少し考えて、言い直した。
「ユエ……アオイ、さんを帰せなくてすみません」
「ユエ、でいい。それで分かる。あいつが決めたことだ。あいつが決めたなら、もう誰もどうしようもない」
進学先を決める時も独り暮らしをすると言った時も、両親は反対した。
反対したが、結局無駄だった。
普段はどっちでも良いとか、適当でとか言うくせに、1度決めたらそれを絶対に曲げない。
だから、彼と居ると決めたのなら、彼がたとえ他の誰かと結婚したとしても、恐らく彼の傍に居るのだ。それが、どんな形でも。
「だから――えっと、あんた――」
そういえば、名前もちゃんと聞いてない。あおいはそういうところが抜けている。
「カエルレウム。カエル、と」
「――カエルが気に病むことは無い。もう何を言っても無駄だから。逆に覚悟した方がいい。あれは死んでも押しかけてくるタイプだ」
思い当たる節でもあるのか、困ったような顔をしながら彼は声を出して笑った。
それから、彼の少し変わった体質の話とか、あおいにどれだけ助けられたかとか、訥々 と話してくれた。
理解されないかもしれないけれど、自分からはもう彼女を離せないとも。
でも、彼はあの時、あおいに行かないのかと聞いた。あおいが帰りたいと言ったら、その背中を押すだろう。
いい男過ぎて腹が立つ。
冷たくするしか出来なかった自分が惨めだ。
……いや。それで良いのか。
俺は冷たい弟だ。自分で選んでそうしていた。
恋敵では無い。
彼があおいに優しいのは望むところの筈だ。
だから、そんな弟として言うことは1つだけだ。
「あれの面倒をみるのは大変だ。あんたがそれを引き受けてくれるなら、俺は清々する」
コップの中味を一気に煽って、口を拭うと、じっと見ていた彼が頭を下げた。
「ありがとう」
その言葉は、俺の心の中を見透かされたようで少しだけ居心地が悪かった。
口にした言葉も嘘というわけでは無いけれど、淋しく思うシスコンの弟も確かにいたのだ。
どうせあおいのことだ。俺に会いに来る。もう触れられなくても、会いには来るだろう。
自分勝手に、会いたい時だけ――
◇ ◆ ◇
もそもそと黒飯の入った仕出し弁当を食べていると、母が向かいに座った。
「気は済んだのか?」
きょとんと母が俺を見つめる。
さっきまであんなに悲壮感を漂わせていたのが嘘のようだ。
「何言ってるの? 血痕1つ無いのに葵が死んだなんて、誰が信じるのよ。あんただっていつも言ってるじゃない。葵は元気だって」
は? と眉を寄せた俺に母は声を落として言った。
「煩い親戚がいるのよ。繋がってるかも分からないような遠いとこがね、失踪した姉の部屋に住み着いたりして、仲の悪かった弟君は何を隠したいんでしょうって、これまた遠い親戚に探りを入れたって言うのよ」
目が点になった。
想像力豊かな人達は何処にでもいるんだな。
「しばらく無視してたんだけど、あることないこと他の親戚にも吹聴するようになったからうんざりしてね。死んじゃいましたよってことにしとけば、これ以上は詮索のしようが無いでしょう? 届けを出したかどうかなんて、誰も気にしやしないんだし」
「だって……さっきあんなに泣いて……」
「笑うわけにいかないでしょう? 葬式なんだから。大体、あんた達を見て仲が悪いなんて思うのは、付き合いの浅い人達だけよ」
忘れていた。あの姉を産んだのは、この母だった。
「案の定、香典だけ送って寄越して、ここには来てないようだから、これで大人しくなるんじゃないかしら。焼くものも無いし、片付けてさっさと帰りましょ」
あんなに泣いてたはずの母親が、弁当はもりもり食べていて良いのか、と詰めの甘さに呆れてみたが、俺の為に金をかけて一芝居うったのかと思うとあまり強くも言えない。
焼かないので棺桶はレンタルだと言うし、元手はそれ程かかってないのかもしれないが。
詐欺罪で捕まるって事は……無いよな?
「あんたは気にしないでいつまでも葵を待ってればいいわよ。誰かと結婚するならするで、あの部屋は借りといてあげるから、心配しないで」
特にあの部屋に住むことを反対もされないなと思ってはいたが、俺が思うより、俺のことを良く解っているようだ。
あまり口出しもされたことはないが、そういえば時々鋭かった。
あおいも、そんな母になるのだろうか。
いや。あいつは溺愛しすぎて子供に鬱陶しがられるに違いない。
それともあの優しい旦那と、上手く愛情を半分に分けるのだろうか。
想像が付かない。
どちらかというと倍増させそうだ。
1年も経たないうちに、もうひとり増えるであろう幸せな家族を想像する。
羨ましいと思ってもいいのだろうか。
社会に出て、ようやくアップアップと暮らしている、彼女に逃げられた男だ。その位は許されるだろう。
姉の幸せも喜んであげられない小さな男を、それでも彼女は弟として愛してくれる。
俺は幸せを喜んではやらないが、いつでも願っている。
俺の 大好きな 姉。
俺の 大好きな 葵。
幸せで あれ。
― 蒼き月夜に来たる・終 ―
小学生のうちは本当に煩わしいだけだった。姉の弟に対する色々な理不尽を、毎日憤慨していた。
俺が思春期と呼ばれる時期に入っても、あおいは変わらなかった。
煩わしい、と思うのと同時に、俺に触れる時のあおいは少し様子が違うことに気付き始めた。
淋しさが、どこかに潜んでいるのだ。
それが、何に対する淋しさなのかまでは解らなかったけれど。
性的な触れ合いではない。あくまでも両親に甘える子供のような。その歳になって両親に甘えられないのを、俺で補っている。確信したのはつい最近かもしれない。
時々、若い自分の本能がそうする彼女を女として認知しそうになった。
うっかり、本当にうっかりそれに負けて彼女を押し倒したりしたら。あっさり受け入れるあおいが想像できて青くなった。
彼女は倫理観が薄い所がある。他人に迷惑さえかけなければ、自分のことにはこだわらない。
恐らく、ごめんごめん。誘っちゃったね。いやー。わたるも男だったんだねぇ。って笑って、次の日から俺に触れてこなくなる。それ以上俺が踏み外さないように。
俺はあおいの弟の位置を手放したくなかった。甘える彼女を離したくなかった。
だから、ことさらに冷たくした。冷たくしても、彼女が甘えるのは自分だったから。
あおいが天文サークルに参加するようになって、どうやら彼氏ができたようだったが、俺に甘える頻度は変わらなかった。
おかしいな、と思っていたら別れたとあの彼女に聞いた。私の監視が甘くてごめんなさいと謝られたけど、謝られてもどうしようもない。というか、俺には関係ない。
そう言うと彼女は面食らっていた。何か、誤解したかもしれない。
そういうことが何度か続いて、あおいが一人暮らしをするようになると、流石に甘えられる頻度は激減した。
俺も彼女がいたから、あおいが遠慮していたのかもしれない。
それが、卒業も見えてきて、就職が決まらないと、急に実家に戻ってくる頻度を増していた。
俺も受験だったから家で彼女と勉強してることもあって、ただいまと部屋を覗いて残念そうに去っていくこともあった。
俺は漠然と、このまま職が決まらなくて、あおいは家に戻ってくると思っていた。
穀潰し、と笑う俺をぽかぽかと殴るあおいが見えていた。
それなのに――。
いなくなって数ヶ月で、聞いたことも無いような言葉を話す男と結婚する?
こっちが必死で探して、繋がりを切らないように腐心してるっていうのに。
普通に暮らして、普通に出会って結婚したのなら、たまに帰ってきてまた俺に甘えるだろう。
でもこれは。このドアを閉めたら、もうあおいは戻って来ない。俺に甘えに来ることも無い。
弟をかなぐり捨てて追って行こうか?
幸せそうに手を繋ぐ2人が瞼に浮かぶ。出来る訳がない。
あおいが淋しくないのなら、俺が淋しくても我慢しなければ。俺は、あおいの家族なのだから。弟であると決めたのだから。
「馬鹿」
もう見えなくなったあおいの背中に一言だけ呟いて、俺はそのドアをぱたりと閉めた。
それからも何度か夢を見た。
もう2度とドアは現れなかったけど。
1度だけ、彼氏だけが出てきたことがあった。その時だけ硝子の壁の真ん中に丸い
俺は一升瓶を持っていて、テーブルにはコップが2つ。
なんだこれ。差向かえってか。
多少不安になりつつも、その日本酒をコップに注いで1つを穴を通して押しやった。
彼もいつもと違う雰囲気に躊躇いつつ、それに手を伸ばし、穴の所で乾杯とコップを合わせた。
何に乾杯なのかも2人とも分かっていなかった。
彼はそれに口を付けると、旨い、と呟いた。それで、穴から聞こえる言葉は翻訳されるのだと解った。
きりりと辛口の酒だったが、彼は強いのかもしれない。
ぽつりぽつりとあおいの近況などを聞いた。
彼女は通訳なんてことをやってるらしい。英語も覚束ない彼女が? と思っていたが、本人は日本語を聞き、日本語を話しているようだ。便利だな。
「そちらの近況は伝えなくてもいいのか?」
残り少なくなったコップをこちらに寄越すよう促すと、それを差し出しながら彼は聞く。顔色1つ変わらない。ざるか。ウワバミか。
「俺と差し向かいで飲んで聞いたって言ったら、あいつ拗ねるぞ。日本酒なんて無いんだろう?」
ぱちぱちと瞬いて、注がれた酒に視線を落とすと、彼はふっと笑った。
「こんな強い酒、飲んだらすぐ潰れそうだな」
「それがなー。酔っぱらうんだが、潰れないんだよな」
「そう、なのか?」
「一緒に飲んだことは無いけどな。鬱陶しさが倍くらいになるから、おとなしく潰れてくれればいいんだが。一緒に飲まないのか?」
「……途中でやめさせるから……」
ぎょっとした。やめさせられて、おとなしく飲むのをやめてるのか! あの、人の言うことをこれっぽっちも聞かないあおいが!
俺が驚いてる間に、彼はす、と居住まいを正して頭を下げた。
「ムスメサンヲ、ボクニクダサイ」
落ち着こうと口に含んだ酒を吹き出すところだった。
頑張って覚えたんだろう日本語だったが、色々、間違ってる。
「あおいに聞いたのか? それは、父親に言う言葉だ。俺には娘はいないし、あおいは俺のモノじゃない」
なんとか飲み込んだ酒がひりひりと喉を焼いた。
彼は少し考えて、言い直した。
「ユエ……アオイ、さんを帰せなくてすみません」
「ユエ、でいい。それで分かる。あいつが決めたことだ。あいつが決めたなら、もう誰もどうしようもない」
進学先を決める時も独り暮らしをすると言った時も、両親は反対した。
反対したが、結局無駄だった。
普段はどっちでも良いとか、適当でとか言うくせに、1度決めたらそれを絶対に曲げない。
だから、彼と居ると決めたのなら、彼がたとえ他の誰かと結婚したとしても、恐らく彼の傍に居るのだ。それが、どんな形でも。
「だから――えっと、あんた――」
そういえば、名前もちゃんと聞いてない。あおいはそういうところが抜けている。
「カエルレウム。カエル、と」
「――カエルが気に病むことは無い。もう何を言っても無駄だから。逆に覚悟した方がいい。あれは死んでも押しかけてくるタイプだ」
思い当たる節でもあるのか、困ったような顔をしながら彼は声を出して笑った。
それから、彼の少し変わった体質の話とか、あおいにどれだけ助けられたかとか、
理解されないかもしれないけれど、自分からはもう彼女を離せないとも。
でも、彼はあの時、あおいに行かないのかと聞いた。あおいが帰りたいと言ったら、その背中を押すだろう。
いい男過ぎて腹が立つ。
冷たくするしか出来なかった自分が惨めだ。
……いや。それで良いのか。
俺は冷たい弟だ。自分で選んでそうしていた。
恋敵では無い。
彼があおいに優しいのは望むところの筈だ。
だから、そんな弟として言うことは1つだけだ。
「あれの面倒をみるのは大変だ。あんたがそれを引き受けてくれるなら、俺は清々する」
コップの中味を一気に煽って、口を拭うと、じっと見ていた彼が頭を下げた。
「ありがとう」
その言葉は、俺の心の中を見透かされたようで少しだけ居心地が悪かった。
口にした言葉も嘘というわけでは無いけれど、淋しく思うシスコンの弟も確かにいたのだ。
どうせあおいのことだ。俺に会いに来る。もう触れられなくても、会いには来るだろう。
自分勝手に、会いたい時だけ――
◇ ◆ ◇
もそもそと黒飯の入った仕出し弁当を食べていると、母が向かいに座った。
「気は済んだのか?」
きょとんと母が俺を見つめる。
さっきまであんなに悲壮感を漂わせていたのが嘘のようだ。
「何言ってるの? 血痕1つ無いのに葵が死んだなんて、誰が信じるのよ。あんただっていつも言ってるじゃない。葵は元気だって」
は? と眉を寄せた俺に母は声を落として言った。
「煩い親戚がいるのよ。繋がってるかも分からないような遠いとこがね、失踪した姉の部屋に住み着いたりして、仲の悪かった弟君は何を隠したいんでしょうって、これまた遠い親戚に探りを入れたって言うのよ」
目が点になった。
想像力豊かな人達は何処にでもいるんだな。
「しばらく無視してたんだけど、あることないこと他の親戚にも吹聴するようになったからうんざりしてね。死んじゃいましたよってことにしとけば、これ以上は詮索のしようが無いでしょう? 届けを出したかどうかなんて、誰も気にしやしないんだし」
「だって……さっきあんなに泣いて……」
「笑うわけにいかないでしょう? 葬式なんだから。大体、あんた達を見て仲が悪いなんて思うのは、付き合いの浅い人達だけよ」
忘れていた。あの姉を産んだのは、この母だった。
「案の定、香典だけ送って寄越して、ここには来てないようだから、これで大人しくなるんじゃないかしら。焼くものも無いし、片付けてさっさと帰りましょ」
あんなに泣いてたはずの母親が、弁当はもりもり食べていて良いのか、と詰めの甘さに呆れてみたが、俺の為に金をかけて一芝居うったのかと思うとあまり強くも言えない。
焼かないので棺桶はレンタルだと言うし、元手はそれ程かかってないのかもしれないが。
詐欺罪で捕まるって事は……無いよな?
「あんたは気にしないでいつまでも葵を待ってればいいわよ。誰かと結婚するならするで、あの部屋は借りといてあげるから、心配しないで」
特にあの部屋に住むことを反対もされないなと思ってはいたが、俺が思うより、俺のことを良く解っているようだ。
あまり口出しもされたことはないが、そういえば時々鋭かった。
あおいも、そんな母になるのだろうか。
いや。あいつは溺愛しすぎて子供に鬱陶しがられるに違いない。
それともあの優しい旦那と、上手く愛情を半分に分けるのだろうか。
想像が付かない。
どちらかというと倍増させそうだ。
1年も経たないうちに、もうひとり増えるであろう幸せな家族を想像する。
羨ましいと思ってもいいのだろうか。
社会に出て、ようやくアップアップと暮らしている、彼女に逃げられた男だ。その位は許されるだろう。
姉の幸せも喜んであげられない小さな男を、それでも彼女は弟として愛してくれる。
俺は幸せを喜んではやらないが、いつでも願っている。
俺の 大好きな 姉。
俺の 大好きな 葵。
幸せで あれ。
― 蒼き月夜に来たる・終 ―