41.閑話:遠き国にて
文字数 1,645文字
全くついてない。
少しずつ手を広げて、販路も確保できてきていたのに。
ただ、彼を偶然見掛けたのは僥倖だった。あのピリピリとした雰囲気を纏っていなければ、気付けたかどうかは判らないが。
お陰で、机で金を数えるしか能のない豚を神の御許に送り届けるだけで、私の足跡を消せたのだから、俺は神に感謝しなければいけないな。
――ビヒト・アドウェルサ。
10年以上表舞台から消えていた天災の名を冠する冒険者……偶然とは言え、彼の関係者に手を出したとあれば、あの結末も致し方ない。
今はストラーノ商会 の執事だったか。誰もストラーノを潰せないわけだ。
初期には随分あちこちから横槍が入ったと聞いて、すぐに消えゆくものだと思っていたのだが。さもありなん。
鬼神などと二つ名の付く冒険者と組んだという噂は、あながち嘘ではなかった訳だ。
『鬼神のガラクタ屋』は当時笑いものだったのに――何があった?
冒険者から執事への転身など、誰が思い至ろう? 護衛や用心棒ならともかく……それをこなしているところも空恐ろしいと思うが。
そしてあの少女。
黒に近い茶の髪と瞳。諦めるでもなく、取り乱すでもなく、あれは彼に対する信頼だったのか。
もったいない――
囀 りも聞いておけば良かった。
商品としてしか見なかったが、取りこぼした物には妙に愛着が湧く。
あれだけ珍しい見目だ。次に会ってもすぐに分かるだろう。
問題はストラーノと同じ村にあのテル・ルーメンも居るということか。
……忌々しい。
彼が彼女に目を付けていれば、また厄介だな。目立つというだけで女に興味を示すヤツではないが――
前総主教猊下の愛情を一身に受けた寵児。
ちょっと見目がいいばかりの孤児上がりが。
『神眼』がなければ今頃は神の御許で午睡に興じていただろうに。
だが、ヤツの不気味さは『神眼』のみに非ず。前総主教猊下の一番近くに居ながら、あの事件の外側へ外側へと逃げ果 せた手腕。
同時に彼の命を狙っていた者達の失脚や死亡率の高さ。
彼自身、大主教の位を剥奪され、請うてあの田舎に引っ込んだはずだが、未だ呼び戻そうという声は大きい。
総主教猊下然り……
そんなに『神眼』が欲しいのか。あれは諸刃の剣だ。現にあれを巡って教団内が分裂しかけたではないか。
あれがあるうちは教団は神の物では無く、彼の物のように振る舞う事になる。
放っておけばいいのだ。
まあ、彼がごねてくれるお陰でいい商売をさせてもらったのも事実だが。
知らず、溜息が漏れた。
いけない。幸運が逃げてしまう。
一度あの半島からは手を引こう。なに、ルートは他にもある。
慎重に事を進めてここまでやって来たのだ。まだ全てを手放すのは惜しい。
休息はたっぷりと。
危うきには近寄らず――
質のいい年代物の葡萄酒を口に運びながら、灯りのつき始めた街を見下ろして、宝石箱を覗き込むような甘美な気持ちを噛み締める。
帝国はほぼ掌握した。
後の小国はこの巨大な権力を有意義に使って、じわじわと絡め取っていけばいい。
――そして。
そしてゆくゆくは、ここよりまだ高い所から世界を見下ろすのだ。
くくっと喉が鳴る。
「――ねぇ……」
ベッドで女の呼ぶ甘ったるい声がする。名前は何といったか。もう覚えていない。
俺は葡萄酒を口に含むとベッドに戻った。
媚びるように俺を見上げる女に、口移しで葡萄酒を注ぎ込み、溢れて口の端から胸元まで滴り落ちたそれを、もったいないとばかりに丁寧に舐め取っていく。
俺の物だ。一滴たりとも零すものか。
女の吐く息に熱がこもり始めるのを待ってから、俺は彼女をベッドに押し倒した。
時間は出来た。
しばしの間、酒と女に溺れるのも悪くない。
俺の未来と教団の行方を夢想しながら――
あれ
はいい稼ぎ頭だったのに。少しずつ手を広げて、販路も確保できてきていたのに。
ただ、彼を偶然見掛けたのは僥倖だった。あのピリピリとした雰囲気を纏っていなければ、気付けたかどうかは判らないが。
お陰で、机で金を数えるしか能のない豚を神の御許に送り届けるだけで、私の足跡を消せたのだから、俺は神に感謝しなければいけないな。
――ビヒト・アドウェルサ。
10年以上表舞台から消えていた天災の名を冠する冒険者……偶然とは言え、彼の関係者に手を出したとあれば、あの結末も致し方ない。
今は
初期には随分あちこちから横槍が入ったと聞いて、すぐに消えゆくものだと思っていたのだが。さもありなん。
鬼神などと二つ名の付く冒険者と組んだという噂は、あながち嘘ではなかった訳だ。
『鬼神のガラクタ屋』は当時笑いものだったのに――何があった?
冒険者から執事への転身など、誰が思い至ろう? 護衛や用心棒ならともかく……それをこなしているところも空恐ろしいと思うが。
そしてあの少女。
黒に近い茶の髪と瞳。諦めるでもなく、取り乱すでもなく、あれは彼に対する信頼だったのか。
もったいない――
商品としてしか見なかったが、取りこぼした物には妙に愛着が湧く。
あれだけ珍しい見目だ。次に会ってもすぐに分かるだろう。
問題はストラーノと同じ村にあのテル・ルーメンも居るということか。
……忌々しい。
彼が彼女に目を付けていれば、また厄介だな。目立つというだけで女に興味を示すヤツではないが――
前総主教猊下の愛情を一身に受けた寵児。
ちょっと見目がいいばかりの孤児上がりが。
『神眼』がなければ今頃は神の御許で午睡に興じていただろうに。
だが、ヤツの不気味さは『神眼』のみに非ず。前総主教猊下の一番近くに居ながら、あの事件の外側へ外側へと逃げ
同時に彼の命を狙っていた者達の失脚や死亡率の高さ。
彼自身、大主教の位を剥奪され、請うてあの田舎に引っ込んだはずだが、未だ呼び戻そうという声は大きい。
総主教猊下然り……
そんなに『神眼』が欲しいのか。あれは諸刃の剣だ。現にあれを巡って教団内が分裂しかけたではないか。
あれがあるうちは教団は神の物では無く、彼の物のように振る舞う事になる。
放っておけばいいのだ。
まあ、彼がごねてくれるお陰でいい商売をさせてもらったのも事実だが。
知らず、溜息が漏れた。
いけない。幸運が逃げてしまう。
一度あの半島からは手を引こう。なに、ルートは他にもある。
慎重に事を進めてここまでやって来たのだ。まだ全てを手放すのは惜しい。
休息はたっぷりと。
危うきには近寄らず――
質のいい年代物の葡萄酒を口に運びながら、灯りのつき始めた街を見下ろして、宝石箱を覗き込むような甘美な気持ちを噛み締める。
帝国はほぼ掌握した。
後の小国はこの巨大な権力を有意義に使って、じわじわと絡め取っていけばいい。
――そして。
そしてゆくゆくは、ここよりまだ高い所から世界を見下ろすのだ。
くくっと喉が鳴る。
「――ねぇ……」
ベッドで女の呼ぶ甘ったるい声がする。名前は何といったか。もう覚えていない。
俺は葡萄酒を口に含むとベッドに戻った。
媚びるように俺を見上げる女に、口移しで葡萄酒を注ぎ込み、溢れて口の端から胸元まで滴り落ちたそれを、もったいないとばかりに丁寧に舐め取っていく。
俺の物だ。一滴たりとも零すものか。
女の吐く息に熱がこもり始めるのを待ってから、俺は彼女をベッドに押し倒した。
時間は出来た。
しばしの間、酒と女に溺れるのも悪くない。
俺の未来と教団の行方を夢想しながら――