65.シンモン
文字数 6,042文字
カルガモの雛になった気分で神官サマの後をついて行き、ようやく部屋まで帰り着くと、彼はカエルの部屋をノックして開けた。
「ちゃんとユエを届けに来ましたよ。フォルティス、ご迷惑になっているのなら、一緒に戻りましょう」
中で何やらフォルティス大主教がカエルに言っていたが、口が動くのが見えるだけで音が聞こえてこない。
カエルは少し視線を泳がせて、小さく首を振っていた。
なんだか新鮮な反応だ。
大主教が立ち上がってこちらにやってくる。
「もう少し話してる。先に戻ってていいぞ。なんなら部屋にある酒を持ってきてくれてもいい」
「もう空けたのですか? ご迷惑になっていないのなら、持ってきて差し上げても構いませんが……」
「おう。頼む」
大主教は私にもにっこり笑いかけると、また奥へと戻って行った。
「仕方ありませんね」
神官サマは苦笑してドアを閉めると、私をきちんと部屋まで送り届けてからゆっくりと廊下を引き返して行った。
部屋で作務衣に着替えてしまっても、私の神経はまだ高ぶっているようで寝られそうにない。
さして興味も無かったのだが、沢山の文字列を見れば眠くなるかと思い、机の上の教典を適当にぱらぱらと覗いてみた。
嘘をつかないとか、他人と分かりあおうとか、ありがちな教訓の中に、他の神と呼ばれる者は全てまやかしか偽りであるから、それらを信じる者達をそこから救い出すのだと熱く書いてあった。
皆を助け出すなら、剣を持って戦うことも厭わない、と。
余計なお世話だと、思わなくもない。
それを信じて幸せでいるのならば、それでいいではないか。
私は価値観を押し付けられたくない。決めるのは私だ。
故に誰かに価値観を押し付けるのもしたくない。
こういう宗教とは結局合わないんだなぁと教典を閉じた。
否定するつもりはない。自分とは合わないだけで。これも1つの形だ。
目を閉じてみるとそのまま寝てしまいそうだったので、慌ててベッドへ潜り込んだ。
カエル達はまだ飲んでいるのだろうか。何の話をしているのか少し気になる。
うとうとと微睡む私の目の前に、神官サマの作った青白い炎がゆらゆらと天に昇っていく幻が見えた。
◇ ◆ ◇
決戦の朝――というほど緊張してはいなかった。
どちらかというとぼんやりしていて、カエルが朝食に誘いに来た時もまだ着替えずにいたくらいだ。
もちろん呆れられて、ついでとばかりに荷物の中から今日着る物一式まで選んでから出て行った。紺色のシンプルなワンピースは確かに教会の雰囲気に合っているし、偶然かもしれないが彼の色だった。会場まで来てもらえないので、少しだけ心強い。
忘れないように、貰ったアームレットも二の腕に付けて朝食に向かった。
カエルは朝から大主教と手合わせしたようで、昨夜飲んで遅くなかったのだろうかと呆れる。
本人は、ビヒト以外の手合いとやれて勉強になったと嬉しそうだったので、まぁ、いいんだろう。
手合せなんて久しぶりにしたと、楽しそうに話してくれた大主教とは食事の後すぐに別れた。
準備とか、打ち合わせとか、お偉いさんの仕事が結構あるらしい。
神官サマは大丈夫なのかと思ったら、被害者側だから仕事は特にないし、黙っていると厄介事が増えるので私についている方が楽だと言っていた。
黙ってると増える厄介事ってナニ!?
確かに彼と居ると時々ひどく冷たい目を向けられる。聞えよがしに「恩知らず」だの「恥知らず」だの言われることもあった。
彼はと言えば、そんな人たちにも薄く微笑みを向けて軽く会釈することまである。絵的には柔らかなものだが、代書屋さんの言うように、その雰囲気はぴりりと尖っていた。
そんな中を半ば強引に案内しますと連れ歩かれていたのだが、必要以上に丁寧なエスコートと、私を見る瞳の甘さに困惑してしまう。
悪意ある人もそうでない人も、すれ違う教団関係者が皆が皆、こちらを凝視しているのが分かる。
絶対何か企んでるんだと思って、こっそり聞いてみても、目立つようにしてるだけなので気にするなと言われるだけだった。
彼が何を意図してそうしているのか、解ってはいけない気がしてきた。
少しイライラしていたカエルが、唯一興味を引かれていたのが図書館だった。
昨日の図書室とは違い、木製の明るい館内には多種多様な本が集められていた。ここは一般にも公開されているということで、貸し出しはされていないが、読むのは自由だ。
「審問会の間こちらで待たれるといいかもしれませんね。結構面白い資料も置いてあるので、お役に立つと思いますよ」
余計なお世話だ、と顔に書いてあったが、嫌だとは言わなかった。確かに退屈はしないかもしれない。
興味惹かれる物をぱらぱらと見るだけでも結構な時間を消費した。
お昼を食べてしまうとさすがに神官サマも私についていることは出来ないようだ。大人しく部屋に戻る。
カエルに髪と化粧を整えてもらって時間が過ぎるのを待った。
「ユエ……昨日あいつと何かあったか?」
ひとつに纏めた髪を梳きながら、カエルが控えめに聞いてきた。
「……なんか変?」
「ユエへの接し方が変わった」
「捜し物を手伝ったくらいだよ。すぐ見付かったし。あぁ……なんか企んでるみたいだから、その一環かも。目立つようにしてるって」
「そう……か」
納得はしてなさそうだが、それ以上言葉も見つからないようだ。
必要以上に梳かれてサラサラになった髪が首元に当たってくすぐったかった。
神官サマが迎えに来て、会場に向かう。
彼の衣装も、いつもの黒い神官服の上に銀糸の刺繍の入ったガウンの様なものを羽織っていて、それが礼装なのだと分かる。
エスコートの為に腕に触れると絹のようにさらりとした感触だった。
代書屋さんの姿を結局見掛けなかったのでどうしたのか聞いてみると、先に控室に入っているとのこと。
私もそことは別の控室に案内された。
証言をするときだけ呼ばれるそうだ。
ドアの内と外に監視するかのように人が立っている。衛兵ほど屈強ではないけれど、帯剣しているのでそれなりの人なんだろう。
部屋に入る前に1度だけカエルを振り返った。立ち入れるぎりぎりまで付いて来てくれていた。
軽い頷きに私も頷き返す。
部屋に入ると椅子が1脚だけ用意されていて、そこに座ると神官サマが跪いて私の手を取った。
「ユエ、なんの心配もありません。見たままを、ありのままに」
そしてその手の甲にそっと口づけをした。
びっくりして思わず手を引込めると、抱き締めるふりをした神官サマに耳元で50点、と囁かれた。
50点て何!?
何の点数!?
部屋の中には意外と人が居て、彼がわざとそういう振舞いをするのだとすぐに解ったが、私がどう反応するのが正解なのかは教えてくれない。
演技に期待されてないんだろう。好奇の視線がとても痛かった。
離れる寸前に、気を付けて、ともう一度囁かれ気を引き締める。
カエルに甘いと言われたことを思い出して、今は全てが敵だと思うことにした。
しばらくするとシスターがお茶を持ってきてくれた。
小さな丸テーブルを別の人が傍に置いてくれて、にこりと笑う。
置かれたお茶に手を伸ばそうとしたら、テーブルがガタリと揺れた。
倒れたカップから流れ出た紅茶はテーブルの端まで一気に到達し、滴り落ちるとスカートの裾を濡らした。
シスター達の慌てた気配にちょっとどぎまぎする。
「失礼致しました。お召し替えを用意致します」
「あ、いえ。大丈夫です。裾ですし、目立ちませんので」
片付けもとても手慣れたもので、私は少し場所を移されてスカートの裾をぽんぽんと染み抜きされていた。
何度か着替えを勧められたが頑なに断った。この場から移動してはいけない気がしたのだ。
よく考えたら出されたお茶も飲んだらダメかもしれない。零れてくれて良かった……
……零されたってこともあったりする?
疑い始めたらキリがないね。
新しく淹れてくれたお茶も、口を付ける振りだけで結局飲まなかった。
カエルのお茶が恋しい。しばらく淹れてもらってない。
緊張しすぎて胃が痛くなってきた頃、ノックと共に若い神官が顔を出した。
「ユエさんですね? 会場にご案内します」
立ち上がると、シスターも1人付いてきた。挟まれるようにして廊下を進む。
両開きの大きな扉の前で一旦止まると、彼は私の二の腕に嵌まっているアームレットを確認して、その扉を開いた。
「どうぞ」
先に扉を潜り、私を先導する。
扉はシスターが軽く礼をしながら押さえていた。彼女はここまでのようだ。
中は裁判所のような造りになっていた。
正面に半円を描くように並んだ机は1段高く、背後には大きなステンドグラスがあって、落とす影に色を付けている。
両サイドに並ぶ、神官サマと同じような礼服を身に纏った人々は、皆表情を硬くしていた。端の方に神官サマと代書屋さんも座っているのが確認できた。
神官サマを斬りつけた大主教がこちらに背を向けて立っている。
傍聴席部分がないので、私達は真直ぐに彼の元まで辿り着き、その横をすり抜けた。キツい視線を感じる。
中央の証言台まで案内すると、一礼して若い神官は戻っていった。
正面中央に座っているのが総主教だろう。
思っていたよりは随分若く、フォルティス大主教と同じくらいかもしれない。
ボリュームのあるウェーブの掛かった金髪を1つに纏めて片側に流し、少し華奢な身体を覆う衣装は、金糸と銀糸で一際豪奢な刺繍が施されていた。
何より彼を目立たせているのはその瞳だった。金とブルーのオッドアイ。
総主教になるには、そういう見た目からのカリスマも必要なのかもしれない。
膝を折り、軽く目礼して挨拶する。
すぐ傍にウィオレ総主教補佐が歩み寄ってきた。
「お名前を」
「ユエと申します」
「職業は」
少し戸惑うが、通訳は言わない方が良いんだろう。
「宿と酒場で、お手伝いをさせてもらっています」
「此度の出来事もその酒場で起きたことで間違いありませんか?」
「はい。ルベルゴの宿の酒場です」
ウィオレ総主教補佐は私の周りをゆっくりと回り込むように歩く。
「貴女はその時どちらに居たのでしょう」
「厨房に。その入口から丁度正面にお2人の座るテーブルが見えました。ウィディア大主教がこちらに背を向けて座っていました」
ふんふんと頷きながら、彼は歩みを止めない。
「何を話していたか聞きましたか?」
「いいえ。内容は聞こえませんでした」
「では何故それに気付いたのでしょう」
「気になって見ていたからです。お話し合いが膠着していて、目先を変えるのにお食事をということだったので」
元の位置まで戻って、菫色の瞳が私を見た。
「それでどうなりましたか?」
「ルーメン主教が何か仰って、ウィディア大主教が立ち上がりました。恐らくもう一言何か言われたのでしょう。手元にあった物を掴んで振り抜きました。もう1度振り上げたときに、それが食事用のナイフだと判ったので慌てて飛び出しました」
無言で先を促される。
「指をこじ開けようとしましたが、キツく握られていて上手く出来ませんでした。それで、代書屋さん――ジョットさんに助けを求めて、彼を拘束してもらったんです」
一通り話せて少しほっとした。小さく息を吐く。
「その直後、ルーメン主教は貴女を抱きかかえて教会に戻ったと」
「……はい。自分では気付かなかったのですが、左手を負傷していました」
そこ、事件とはあまり関係ないんだけど。
「彼との関係は?」
一瞬眉を顰めてしまう。
「関係と言うほどのものは何も。一応、友達ということになってますが」
ざわりと今まで静かだった会場にざわめきが広がった。
「友達? ルーメン主教とですか?」
「ウィオレ総主教補佐。補足します」
神官サマが手を上げた。
「私がお願いしたのです。やや強引にお友達になりたいと」
再びざわめきが大きくなる。
「お静かに。貴女がルーメン主教の愛妾であるという噂がありますが、事実ではないのですか?」
「違います。他に離れたくない人がいます」
「何方 か伺っても?」
「私の護衛をしてくれている彼です」
ほんの少しの間、ウィオレ総主教補佐の瞳が厳しくなり、眉間に皺が寄った。すぐに取り繕われたけれども。
彼は証言台に手をつき、顔を寄せた。
「……彼はずっと護衛を?」
「そうです」
「ウィオレ総主教補佐。それはこの出来事に関係のない話だと思われますが」
神官サマの声にはっとして、証言台から離れると、彼は咳払いを1つした。
「有難うございました。とりあえずあちらのお席に」
神官サマの隣を指示されて、大人しく従う。
「以上で証言は出揃いました。ウィディア大主教、何か申し開きはありますか」
ゆるゆると首を振って、ウィディア大主教は神官サマを睨みつけた。
「斬りつけたのは事実だ。だが、あいつが挑発したのだ。一方的に私が悪いわけではない。その小娘も奴と結託しているに違いない」
会場全体にやれやれ、という雰囲気が蔓延していた。
代書屋さんの証言もあっただろうし、何を言ってももう無駄なのだろう。
「大体、おかしいじゃないか! あの冷血漢が小娘1人に相手にされてもいないのに入れあげるなぞ。あり得ない!」
神官サマはゆっくりと手を上げた。
「1つだけ」
「許可する」
「ユエは私にとって特別なのです。それが神官としてあるまじき想いなのは理解しています。しかし、彼女の心が誰にあっても、もう止められないのです。このような想いを抱えて、中央に戻るなどとても出来ません。それは主を裏切る行為に等しいのですから。ですから、私は中央の、彼の要請を断るしか……断り続けるしかなかったのです」
熱く少し瞳を潤ませて私を見下ろす神官サマ。
しん、と静まり返った中、私はよく言うよと心の中で呆れていた。
私、もの凄く体の良い言い訳に使われてる!
このための振りだったのかと妙に納得して、彼の演技力に脱帽する。
「ルーメン主教」
総主教が口を開いた。皆固唾をのんで注目している。
「貴方がそこまで想うにいたった経緯を伺っても?」
「私はユエを宣誓にかけました」
ざわりと再びざわめく会場。落ち着くのを待って神官サマは続ける。
「記憶のあいまいな者を保護したと依頼されたからです。でも、彼女は身の潔白を証明したその後も、私を畏怖するでもなく、特別に見るでもなく、普通に接してくれたのです。どこにいても味わったことのない気持ちになりました」
ざわざわと落ち着かない空気は、今度は私に向けられている。
「ユエ、と言いましたか。貴女から見たルーメン主教とは?」
「少し性格の悪い、綺麗な顔をした教会の神官様です」
「その瞳も、怖くはないのですか」
「綺麗だと、思います」
総主教が息を呑むのが判った。
「ウィオレ。もう判りました。証言者のお2人は下がってもらって下さい」
「……畏まりました」
菫色の瞳が、名残惜しそうに私を見詰めた。
「ちゃんとユエを届けに来ましたよ。フォルティス、ご迷惑になっているのなら、一緒に戻りましょう」
中で何やらフォルティス大主教がカエルに言っていたが、口が動くのが見えるだけで音が聞こえてこない。
カエルは少し視線を泳がせて、小さく首を振っていた。
なんだか新鮮な反応だ。
大主教が立ち上がってこちらにやってくる。
「もう少し話してる。先に戻ってていいぞ。なんなら部屋にある酒を持ってきてくれてもいい」
「もう空けたのですか? ご迷惑になっていないのなら、持ってきて差し上げても構いませんが……」
「おう。頼む」
大主教は私にもにっこり笑いかけると、また奥へと戻って行った。
「仕方ありませんね」
神官サマは苦笑してドアを閉めると、私をきちんと部屋まで送り届けてからゆっくりと廊下を引き返して行った。
部屋で作務衣に着替えてしまっても、私の神経はまだ高ぶっているようで寝られそうにない。
さして興味も無かったのだが、沢山の文字列を見れば眠くなるかと思い、机の上の教典を適当にぱらぱらと覗いてみた。
嘘をつかないとか、他人と分かりあおうとか、ありがちな教訓の中に、他の神と呼ばれる者は全てまやかしか偽りであるから、それらを信じる者達をそこから救い出すのだと熱く書いてあった。
皆を助け出すなら、剣を持って戦うことも厭わない、と。
余計なお世話だと、思わなくもない。
それを信じて幸せでいるのならば、それでいいではないか。
私は価値観を押し付けられたくない。決めるのは私だ。
故に誰かに価値観を押し付けるのもしたくない。
こういう宗教とは結局合わないんだなぁと教典を閉じた。
否定するつもりはない。自分とは合わないだけで。これも1つの形だ。
目を閉じてみるとそのまま寝てしまいそうだったので、慌ててベッドへ潜り込んだ。
カエル達はまだ飲んでいるのだろうか。何の話をしているのか少し気になる。
うとうとと微睡む私の目の前に、神官サマの作った青白い炎がゆらゆらと天に昇っていく幻が見えた。
◇ ◆ ◇
決戦の朝――というほど緊張してはいなかった。
どちらかというとぼんやりしていて、カエルが朝食に誘いに来た時もまだ着替えずにいたくらいだ。
もちろん呆れられて、ついでとばかりに荷物の中から今日着る物一式まで選んでから出て行った。紺色のシンプルなワンピースは確かに教会の雰囲気に合っているし、偶然かもしれないが彼の色だった。会場まで来てもらえないので、少しだけ心強い。
忘れないように、貰ったアームレットも二の腕に付けて朝食に向かった。
カエルは朝から大主教と手合わせしたようで、昨夜飲んで遅くなかったのだろうかと呆れる。
本人は、ビヒト以外の手合いとやれて勉強になったと嬉しそうだったので、まぁ、いいんだろう。
手合せなんて久しぶりにしたと、楽しそうに話してくれた大主教とは食事の後すぐに別れた。
準備とか、打ち合わせとか、お偉いさんの仕事が結構あるらしい。
神官サマは大丈夫なのかと思ったら、被害者側だから仕事は特にないし、黙っていると厄介事が増えるので私についている方が楽だと言っていた。
黙ってると増える厄介事ってナニ!?
確かに彼と居ると時々ひどく冷たい目を向けられる。聞えよがしに「恩知らず」だの「恥知らず」だの言われることもあった。
彼はと言えば、そんな人たちにも薄く微笑みを向けて軽く会釈することまである。絵的には柔らかなものだが、代書屋さんの言うように、その雰囲気はぴりりと尖っていた。
そんな中を半ば強引に案内しますと連れ歩かれていたのだが、必要以上に丁寧なエスコートと、私を見る瞳の甘さに困惑してしまう。
悪意ある人もそうでない人も、すれ違う教団関係者が皆が皆、こちらを凝視しているのが分かる。
絶対何か企んでるんだと思って、こっそり聞いてみても、目立つようにしてるだけなので気にするなと言われるだけだった。
彼が何を意図してそうしているのか、解ってはいけない気がしてきた。
少しイライラしていたカエルが、唯一興味を引かれていたのが図書館だった。
昨日の図書室とは違い、木製の明るい館内には多種多様な本が集められていた。ここは一般にも公開されているということで、貸し出しはされていないが、読むのは自由だ。
「審問会の間こちらで待たれるといいかもしれませんね。結構面白い資料も置いてあるので、お役に立つと思いますよ」
余計なお世話だ、と顔に書いてあったが、嫌だとは言わなかった。確かに退屈はしないかもしれない。
興味惹かれる物をぱらぱらと見るだけでも結構な時間を消費した。
お昼を食べてしまうとさすがに神官サマも私についていることは出来ないようだ。大人しく部屋に戻る。
カエルに髪と化粧を整えてもらって時間が過ぎるのを待った。
「ユエ……昨日あいつと何かあったか?」
ひとつに纏めた髪を梳きながら、カエルが控えめに聞いてきた。
「……なんか変?」
「ユエへの接し方が変わった」
「捜し物を手伝ったくらいだよ。すぐ見付かったし。あぁ……なんか企んでるみたいだから、その一環かも。目立つようにしてるって」
「そう……か」
納得はしてなさそうだが、それ以上言葉も見つからないようだ。
必要以上に梳かれてサラサラになった髪が首元に当たってくすぐったかった。
神官サマが迎えに来て、会場に向かう。
彼の衣装も、いつもの黒い神官服の上に銀糸の刺繍の入ったガウンの様なものを羽織っていて、それが礼装なのだと分かる。
エスコートの為に腕に触れると絹のようにさらりとした感触だった。
代書屋さんの姿を結局見掛けなかったのでどうしたのか聞いてみると、先に控室に入っているとのこと。
私もそことは別の控室に案内された。
証言をするときだけ呼ばれるそうだ。
ドアの内と外に監視するかのように人が立っている。衛兵ほど屈強ではないけれど、帯剣しているのでそれなりの人なんだろう。
部屋に入る前に1度だけカエルを振り返った。立ち入れるぎりぎりまで付いて来てくれていた。
軽い頷きに私も頷き返す。
部屋に入ると椅子が1脚だけ用意されていて、そこに座ると神官サマが跪いて私の手を取った。
「ユエ、なんの心配もありません。見たままを、ありのままに」
そしてその手の甲にそっと口づけをした。
びっくりして思わず手を引込めると、抱き締めるふりをした神官サマに耳元で50点、と囁かれた。
50点て何!?
何の点数!?
部屋の中には意外と人が居て、彼がわざとそういう振舞いをするのだとすぐに解ったが、私がどう反応するのが正解なのかは教えてくれない。
演技に期待されてないんだろう。好奇の視線がとても痛かった。
離れる寸前に、気を付けて、ともう一度囁かれ気を引き締める。
カエルに甘いと言われたことを思い出して、今は全てが敵だと思うことにした。
しばらくするとシスターがお茶を持ってきてくれた。
小さな丸テーブルを別の人が傍に置いてくれて、にこりと笑う。
置かれたお茶に手を伸ばそうとしたら、テーブルがガタリと揺れた。
倒れたカップから流れ出た紅茶はテーブルの端まで一気に到達し、滴り落ちるとスカートの裾を濡らした。
シスター達の慌てた気配にちょっとどぎまぎする。
「失礼致しました。お召し替えを用意致します」
「あ、いえ。大丈夫です。裾ですし、目立ちませんので」
片付けもとても手慣れたもので、私は少し場所を移されてスカートの裾をぽんぽんと染み抜きされていた。
何度か着替えを勧められたが頑なに断った。この場から移動してはいけない気がしたのだ。
よく考えたら出されたお茶も飲んだらダメかもしれない。零れてくれて良かった……
……零されたってこともあったりする?
疑い始めたらキリがないね。
新しく淹れてくれたお茶も、口を付ける振りだけで結局飲まなかった。
カエルのお茶が恋しい。しばらく淹れてもらってない。
緊張しすぎて胃が痛くなってきた頃、ノックと共に若い神官が顔を出した。
「ユエさんですね? 会場にご案内します」
立ち上がると、シスターも1人付いてきた。挟まれるようにして廊下を進む。
両開きの大きな扉の前で一旦止まると、彼は私の二の腕に嵌まっているアームレットを確認して、その扉を開いた。
「どうぞ」
先に扉を潜り、私を先導する。
扉はシスターが軽く礼をしながら押さえていた。彼女はここまでのようだ。
中は裁判所のような造りになっていた。
正面に半円を描くように並んだ机は1段高く、背後には大きなステンドグラスがあって、落とす影に色を付けている。
両サイドに並ぶ、神官サマと同じような礼服を身に纏った人々は、皆表情を硬くしていた。端の方に神官サマと代書屋さんも座っているのが確認できた。
神官サマを斬りつけた大主教がこちらに背を向けて立っている。
傍聴席部分がないので、私達は真直ぐに彼の元まで辿り着き、その横をすり抜けた。キツい視線を感じる。
中央の証言台まで案内すると、一礼して若い神官は戻っていった。
正面中央に座っているのが総主教だろう。
思っていたよりは随分若く、フォルティス大主教と同じくらいかもしれない。
ボリュームのあるウェーブの掛かった金髪を1つに纏めて片側に流し、少し華奢な身体を覆う衣装は、金糸と銀糸で一際豪奢な刺繍が施されていた。
何より彼を目立たせているのはその瞳だった。金とブルーのオッドアイ。
総主教になるには、そういう見た目からのカリスマも必要なのかもしれない。
膝を折り、軽く目礼して挨拶する。
すぐ傍にウィオレ総主教補佐が歩み寄ってきた。
「お名前を」
「ユエと申します」
「職業は」
少し戸惑うが、通訳は言わない方が良いんだろう。
「宿と酒場で、お手伝いをさせてもらっています」
「此度の出来事もその酒場で起きたことで間違いありませんか?」
「はい。ルベルゴの宿の酒場です」
ウィオレ総主教補佐は私の周りをゆっくりと回り込むように歩く。
「貴女はその時どちらに居たのでしょう」
「厨房に。その入口から丁度正面にお2人の座るテーブルが見えました。ウィディア大主教がこちらに背を向けて座っていました」
ふんふんと頷きながら、彼は歩みを止めない。
「何を話していたか聞きましたか?」
「いいえ。内容は聞こえませんでした」
「では何故それに気付いたのでしょう」
「気になって見ていたからです。お話し合いが膠着していて、目先を変えるのにお食事をということだったので」
元の位置まで戻って、菫色の瞳が私を見た。
「それでどうなりましたか?」
「ルーメン主教が何か仰って、ウィディア大主教が立ち上がりました。恐らくもう一言何か言われたのでしょう。手元にあった物を掴んで振り抜きました。もう1度振り上げたときに、それが食事用のナイフだと判ったので慌てて飛び出しました」
無言で先を促される。
「指をこじ開けようとしましたが、キツく握られていて上手く出来ませんでした。それで、代書屋さん――ジョットさんに助けを求めて、彼を拘束してもらったんです」
一通り話せて少しほっとした。小さく息を吐く。
「その直後、ルーメン主教は貴女を抱きかかえて教会に戻ったと」
「……はい。自分では気付かなかったのですが、左手を負傷していました」
そこ、事件とはあまり関係ないんだけど。
「彼との関係は?」
一瞬眉を顰めてしまう。
「関係と言うほどのものは何も。一応、友達ということになってますが」
ざわりと今まで静かだった会場にざわめきが広がった。
「友達? ルーメン主教とですか?」
「ウィオレ総主教補佐。補足します」
神官サマが手を上げた。
「私がお願いしたのです。やや強引にお友達になりたいと」
再びざわめきが大きくなる。
「お静かに。貴女がルーメン主教の愛妾であるという噂がありますが、事実ではないのですか?」
「違います。他に離れたくない人がいます」
「
「私の護衛をしてくれている彼です」
ほんの少しの間、ウィオレ総主教補佐の瞳が厳しくなり、眉間に皺が寄った。すぐに取り繕われたけれども。
彼は証言台に手をつき、顔を寄せた。
「……彼はずっと護衛を?」
「そうです」
「ウィオレ総主教補佐。それはこの出来事に関係のない話だと思われますが」
神官サマの声にはっとして、証言台から離れると、彼は咳払いを1つした。
「有難うございました。とりあえずあちらのお席に」
神官サマの隣を指示されて、大人しく従う。
「以上で証言は出揃いました。ウィディア大主教、何か申し開きはありますか」
ゆるゆると首を振って、ウィディア大主教は神官サマを睨みつけた。
「斬りつけたのは事実だ。だが、あいつが挑発したのだ。一方的に私が悪いわけではない。その小娘も奴と結託しているに違いない」
会場全体にやれやれ、という雰囲気が蔓延していた。
代書屋さんの証言もあっただろうし、何を言ってももう無駄なのだろう。
「大体、おかしいじゃないか! あの冷血漢が小娘1人に相手にされてもいないのに入れあげるなぞ。あり得ない!」
神官サマはゆっくりと手を上げた。
「1つだけ」
「許可する」
「ユエは私にとって特別なのです。それが神官としてあるまじき想いなのは理解しています。しかし、彼女の心が誰にあっても、もう止められないのです。このような想いを抱えて、中央に戻るなどとても出来ません。それは主を裏切る行為に等しいのですから。ですから、私は中央の、彼の要請を断るしか……断り続けるしかなかったのです」
熱く少し瞳を潤ませて私を見下ろす神官サマ。
しん、と静まり返った中、私はよく言うよと心の中で呆れていた。
私、もの凄く体の良い言い訳に使われてる!
このための振りだったのかと妙に納得して、彼の演技力に脱帽する。
「ルーメン主教」
総主教が口を開いた。皆固唾をのんで注目している。
「貴方がそこまで想うにいたった経緯を伺っても?」
「私はユエを宣誓にかけました」
ざわりと再びざわめく会場。落ち着くのを待って神官サマは続ける。
「記憶のあいまいな者を保護したと依頼されたからです。でも、彼女は身の潔白を証明したその後も、私を畏怖するでもなく、特別に見るでもなく、普通に接してくれたのです。どこにいても味わったことのない気持ちになりました」
ざわざわと落ち着かない空気は、今度は私に向けられている。
「ユエ、と言いましたか。貴女から見たルーメン主教とは?」
「少し性格の悪い、綺麗な顔をした教会の神官様です」
「その瞳も、怖くはないのですか」
「綺麗だと、思います」
総主教が息を呑むのが判った。
「ウィオレ。もう判りました。証言者のお2人は下がってもらって下さい」
「……畏まりました」
菫色の瞳が、名残惜しそうに私を見詰めた。