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文字数 1,301文字

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「……俺な、暁人が毎日俺と話してくれたこと、本当に嬉しかったんだ」
 裕海の伝える言葉がかすかな震えを伴い始める。多分泣くかもしれないという予感もしていた。こんな歳下の子の前で泣くなんて、とも片隅で思ったが、それでも構わない気さえそこには存在していた。
「絵を描いていたのだって、現実逃避みたいなものだった。だけどそれを暁人がいつも凄いって褒めてくれて、それに俺がどれだけ救われていたのか、今ではちゃんと分かる」
 空虚を狙って襲いかかってくる被害妄想。そのせいで他人が怖くなった。将来のことも分からなくなった。だけど一時的にでも、暁人がそれを和らげてくれたことは紛れもない事実だった。暁人はきちんと目の前の裕海だけを見て、いつも接してくれていた。
「少なくとも暁人がいなきゃ、俺は今頃大学にも行けてなかったと思う。切り替えて勉強なんてあのままじゃ絶対に出来なかったし、後々そうやって逃げた自分にさえ耐えられなかったはずだ」
 奏と昼食を食べに行った時、大きく宣伝されていたボーカル&ダンスユニット。本来なら裕海はそれで華々しくデビューをしていたはずだった。あのメンバーの四人中三人は、Syncの他の三人だった。デビューの話は完全には消えていなかったのだ。裕海のいるはずだった所には、同じクラスにいた別の男子がちゃんと代わりに入っていた。
 ひたすらに怖くて、裕海は自分の過去をまっすぐに見返すことが出来ずにいた。だがこうして暁人に一つずつ話していくにつれて、やっとそれが自分の過去だと受け入れられた気がした。そして、あの三人と彼のデビューのことも。
 自分はどうしたって自分だ。それを認めずに別の誰かになろうとする必要なんて、最初からどこにもなかったんだ。
「なぁ、暁人」
 話しているうちに涙が滲み始めた目で、裕海は暁人をまっすぐに見つめた。
「身体的に強かろうが弱かろうが、誰かを助けることは絶対に出来る。というか、そんなのは本当は関係ないんだ。どんなに自分にとっては些細なことでも、それが誰かの助けになっていることだってたくさんある」
 上手く呼吸が出来なかった。それは込み上げてくる思いのせいか、涙のせいか。浅く息を吸って裕海は言葉を続ける。
「大事なのは心の強さだよ。それは体を鍛えて強くなるものじゃない。病気だって関係ない。相手を思いやれることが人を強くさせるんだ。
 強くなりたいってあの時言ってたけど、暁人は弱くなんてない。今でも十分強い。だって俺が入院していた時、暁人は紛れもなく俺のヒーローだった。あの時から暁人は俺のヒーローなんだよ。もう、誰かのこと救えてるんだよ暁人は。他人を救えるほどにはもうとっくに強いんだよ」
 だから俺は、今度は俺が、そんな暁人のことを支えたかったんだ。
 心の中でそう付け足した。耐え切れなかった雫が裕海の瞳から零れ落ちる。折角顔を上げたのに、涙が流れてしまった瞬間に再び俯いてしまった。しかしその後すぐに裕海がまた顔を上げたのは、前方から自分のものではない涙声が聞こえてきたからだ。パッと見ると、裕海のことを見つめたまま暁人が泣いていた。「本当に?」と呟くように繰り返して。
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