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文字数 1,785文字

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 授業後に数時間バイトをしてから裕海は帰宅した。鞄を投げやりに床に置き、そのままベッドに仰向けに寝転がる。
 今日は普段より遅くまでシフトが入っていたせいか、たまたま両親も仕事で疲れた日だったのか、家の鍵を開けた時には家の中が暗くなって静まり返っていた。どうやら既に寝てしまっているらしい。ただいまと声をかけなくて済んだことが、裕海にとっては一抹の安堵となった。今はきっと上手く笑えもしないのに、家族でも誰かと顔を合わせるのはそれなりにきつい。
『なぁ金澤』
 気を抜くとすぐに、先程言われた言葉が脳内で再生される。
『お前、このバイト始めて大分経つだろ? 仕事はちゃんと出来てるんだから、もっと自信持ってやってみろよ。そんな顔して接客してたって、お客さんもいい気持ちにはなりづらいだろう』
「……それが簡単に出来たら、こんなに苦労してねぇよ」
 ぽつりと、誰に言うわけでもなく口から出てきたその言葉は、そのまま気怠い暑さの空気に紛れて消えてゆく。春と夏の、丁度間くらい。気候が安定しないこの時期は余計に疲れる。はぁ、と大きく溜息をついた。
 分かってる。そんなこと、ずっと前から分かってんだよ。臆病なだけで、考えすぎなだけで、実際は大して思うほどでもないことくらい知ってるんだよ。でも、もうどうしたらいいのか分かんないんだよ。
 本当は人一倍誰かに認められたいはずなのに、いざ認められようとしているのが分かるとその途端に自分に向けられた優しさも好意も何もかも、全てが怖くなる。
 このままベッドに溶け込んで眠ってしまいたいくらいには疲れていた。だけど、あぁ、お風呂にも入らなきゃ、着替えなきゃ、歯も磨かなきゃ、明日の準備もしておかなきゃ、やることはまだある……。
 残り僅かな体力を使ってなんとか起き上がり、着替えを手に持ってふらふらと部屋を出る。せめて、シャワーを浴びるだけでも今夜のうちにしておこう。
 一旦自己嫌悪に苛まれてしまうともうどうしようもない。早く眠りに就きたかった。

『大丈夫だって、最後までいけるって!』
『絶対勝ち取れるってあたし信じてるもん。てか信じてしかいないし!』
 懐かしい声がした。これはいつのことだろう。……あぁ、そうだ。高三の時か。
『――行くぞッ!』
 丸く重なった手が、一度下に押されてから上に放たれる。お決まりの円陣だ。
 そうして一度暗転した、始まりの闇の中へ俺たちは進んでいったんだ。無数の光が集まる場所へ。
 ――あの悲劇が起こるまでは、紛れもなくあそこは光だったんだ。
 光の中で突然、打ち付けられたダンッという重い音が響く。さっきまで明るい未来を信じていた仲間の顔が、一気に崩れてゆく。
『ゆ、裕海! 裕海!!
『おい、大丈夫か! しっかりしろ!!
 どうして、ここで。こんなところで。あともうちょっと、だったのに――……。

 パッと目の前から人が消える。同時に景色も消える。まるで海の底に沈んでいくかのように、暗闇に一人取り残される。
『夢を返せよ』
 全く温度の伴わない声がどこからか降ってくる。
『逃げて終わらせる気なのか』
『あんたにはこれしかないんでしょ。だったら償ってよ』
『どうしてくれるんだよ、俺たちまで巻き込むなよ』
 降ってくる言葉は槍となって落ちてくる。それを防ぐ傘のようなものはない。ただひたすら体を丸くして、出来るだけ傷つかないようにするだけ。
 それでも、痛い。やっと治ったと思った傷からも、再び血が流れてゆく。これで何度目だ。あぁ。
 足元が崩れる。上手く蹲れない。怖い。痛い。誰か、誰か。
 償え。謝れ。責任取れ。裏切り者。卑怯者。
 ――もう何もないよ、今のお前には。

「――ッ!!
 体がガクンと落ちる感覚がして、裕海は目を覚ました。鼓動が速まり、汗もかいていた。上半身を起こして大きく呼吸を繰り返す。まだ部屋は暗かった。枕元に置いていたスマホを起動させると朝の四時半だった。普段起きる時間まであと数時間はある。
 あぁ、夢か。夢だったのか……。
 頭を手で押さえながら俯く。疲れを取るために寝ていたはずなのに、起きていた時以上に疲れている感覚しかなかった。今から起きていても仕方がない上、起きて何かをする気力も全くなかった。少し気持ちを落ち着けた後、もう一度ベッドに横になる。
 あの夢の続きを見ませんように、と祈るように裕海は強く目を瞑った。
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