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文字数 1,448文字

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 時は過ぎ、梅雨の時期が巡ってきた。雨の日が続く中、裕海は相変わらず暁人の元を毎週欠かすことなく訪れていた。いつの間にか小児科フロアの壁の飾り付けも雨やカエル、てるてる坊主などのものに変わっていて、心做しか全体的に青っぽい雰囲気だった。
 傘をさしても防ぎきれなかった雨で濡れてしまった服をハンカチで拭きながら、裕海は暁人の病室へと向かう。
「暁人ー」
 横開きの扉を静かにスライドさせ、左奥側のベッドへ歩み寄る。半分だけ閉じられていた簡易的な仕切りのカーテンをそっと開くと気怠げに横になっている暁人がいた。
「あ、ゆうちゃんだー」
 暁人はいつも通り喜んでくれたが、見せてくれた笑顔もその声も普段と比べると元気がないのは明らかだった。裕海が来る時間帯にはいつもそばに加奈絵がいるのだが、今は姿が見当たらない。すれ違ってしまったかな、と思いながら、脇にあった丸椅子を近くに引き寄せて腰かける。
「今日はあんまり体調よくなさそうだな。大丈夫か?」
「んー、ビミョーかなぁ。怠い。でもゆうちゃんの顔見たら、ちょっとは元気になったかも」
「ほんとかよ? まぁ今日も雨だからな……無理だけはすんなよ絶対に」
「はーい、分かってるよ」
 小さく「お母さんみたいなこと言うなぁ」と半ば擽ったそうに暁人は笑った。「お前のお兄ちゃんみたいなもんなんだから、弟の心配するのは当たり前だろ」と、その言葉を聞き逃さなかった裕海が言うと「あはは、そっかぁ」と暁人は再び笑って呟くように返事をした。
「今日、美希ちゃんは? 会った?」
「んーん、俺が病室から出てないから会ってない」
「寂しい?」
「何で俺がそれだけで寂しくなるんだよー」
 一瞬ムッとして口を尖らせたが、すぐに表情を緩めた。ちらりと視界に入れた景色は、雨の色に染まっていた。改めて見た不気味な白い明るさを放つ空に思わず顔をしかめる。
「……ねぇ、ゆうちゃん」
 窓を間に挟んだ白色に吸い込まれそうになっていた意識の狭間で、それよりも溶けて消えていきそうな声が聞こえた。室内の方を振り向くと、暁人にしては珍しく弱気な両目が裕海を捉えていた。
「ん? どうした、暁人」
「ゆうちゃんはさ、大人になったら何になりたいの?」
 空を睨んでいたせいで元々そこまで笑っていなかった顔面から、砂のように表情が零れ落ちてゆく。その感覚がはっきりと分かった。慌てて取り繕うことなどしなかったが、表情を失った裕海の元に残るのはただの虚無であり“嘘”だ。
 俺は何を言えばいい、この目の前の少年に。何を、どうやって。
「……俺が、大人になったら?」
「うん」
「そうだなぁ、俺は……」
 ――裕海はほら、もう一筋だからさ。
 ――お前は絶対将来有能だよ。俺が保証する。
 ――誰も裕海には敵わないよね。最早嫉妬のレベル超えたわ、ひたすら尊敬する。
 奥の、そのまた奥の方で押し殺していた記憶が息を吹き返して、裕海の脳内を徐々に占領してゆく。言葉が消えてゆく。輪郭を持たない、名前も正体も分からない感情だけが、内側で増幅してゆく。
 あぁ、やめろ。やめてくれ。暁人のせいで傷ついたなんて、絶対に思いたくないのに。
「……んー、何だろなぁ。多分、普通に会社員でもやってるんじゃないかと思うよ」
「えー、何それ」
「あはは、いいのいいの。気にしなくて」
 少し不服そうな顔をする暁人の頭をポンと撫でた。そしてこれ以上何かを問われる前にと裕海は先に言葉を紡いだ。
「……そういう暁人は? そう訊いてきたってことは、暁人にも将来の夢があるってこと?」
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