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文字数 1,263文字

 *

「なぁ、裕海」
 それからまた、時は経って七月に入った。授業を終えてどこか覚束ない足取りで帰ろうとしていた裕海の肩を、引き寄せるように掴んだ人がいた。思いがけない引力によって裕海はバランスを崩しかけたが、なんとか立て直して後ろを振り向く。するとそこには奏がいた。
「ん? あ、奏いたのか……そういや今日午前中見なかったな、どうしたの」
「それは単なる寝坊だから気にすんな。それより裕海、この後時間あるか」
 そういう奏の口調は普段通り、相手にスッと入っていく穏やかなもののはずだった。しかし、目がいつものようには笑っていないことに裕海は気づいた。口では「時間ある?」と問いかけているが、その目は逃げることを許さない、有無を言わせないものだった。
 いいから付き合え。本当はそう言っている。これは面と向かって話している人にしか分からない。
 普段は相手に無理やり干渉することのなかった奏が、何故そんなことを……?
 困惑している裕海に対して、奏は表情を変えることなく言葉を続けた。
「俺はお前と話したいことがある。そしてお前も本当はそれを誰かに言いたいはずだ。違うか?」

 *

 裕海が奏に問いを投げかけたあの日、裕海は授業に出終えてからまっすぐに暁人の病院へ向かっていた。大学の最寄り駅に着くと、ホームは既に帰宅しようとする学生の姿で溢れていた。次の電車を待つことも一瞬考えたが、早く暁人に会いたいという気持ちもあってすぐに来た電車になんとか体を滑り込ませて乗り込んだ。
 暫くぼんやりと周りと一緒に揺られていたが、ふと気になったことがあり裕海は狭いスペースで自分の鞄の中身を探る。暁人にあげるはずの絵を置いてきていないかどうか心配になったのだ。
 いくつかあるファイルの中から目的の隙間を探り出し、その中で一つだけ材質も大きさも他とは異なった紙を見つけた。それを指先から手元に引き寄せて確認すると、そこにはちゃんと、今日あげる予定のイラストが描かれていた。今回のリクエストは、モンスター系のアニメのキャラクターだった。紙の上で小柄なモンスターが、お互いに向かい合って笑っている。
 あぁ、よかった。ちゃんとあった。
 そう思ってそれを再び元の位置に仕舞おうとした時だった。
 ――ガタンッ!!
 突然電車が急ブレーキをかけ、周りの乗客と共に大きくバランスを崩してしまった。そしてそのせいで、裕海は思わず指先に力を入れてしまった。そこから紙が歪んだ感覚が伝わる。
『あっ』
 そう零れ落ちた声と一緒に、崩したバランスもなんとか拾い上げ慌てて紙を広げ直す。幸いにもついた折り目の数は少なかったが変な位置に線がついてしまった。何だよ……、と心の中で吐きながら、裕海は止まってしまった電車の中に立ち続けるしかなかった。
 その後の車内放送で、原因は先の駅で押された緊急停止ボタンだったということが告げられた。暫く動かないかなとも思ったが、結局停車時間は十分程度で運転は再開された。
 この線、普段は遅延すら中々ないのに珍しいな……。
 そう思いながら、裕海は先を急いだ。
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