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文字数 1,123文字

「……お、やっぱりここにあったか」
 裕海(ゆうみ)は自室でクローゼットの奥を探っていた。今ではすっかり色がくすんでしまった、青と黄色が使われた直方体の形をしたケース。それを見つけた途端に懐かしくなって思わず表情が緩んだ。最後に使ったのはたった一年前の話だというのに、不思議と懐かしさを感じるのは思い出のせいだ。
 埃を薄く被った蓋を開けて中を覗くと、そこにはちゃんと必要なものが揃っていた。太さの違う筆、パレット、バケツ、そして水彩絵具。基本の道具は小学生の時、絵具は中学生の時に配布されたものだ。今でも辛うじてまだ中身が残っている。
 それらを一旦机の脇に置き、机上の本立てからスケッチブックを手に取る。そこから画用紙を一枚剥がし、ペン立てから鉛筆を一本手に取った。
 こんな唐突にイラストのリクエストをしてくるなんて、本当に彼らしいなぁ。前にも一度そんなことがあったから、こっちに絵具セットを持ってきたままでよかった。
「まったく、俺も暇じゃないってのに」
 上方に伸びながらそんなことを軽く独りごちてみたが、当時のようにイラストを描くという懐かしさも伴い、嬉しいことには変わりない。何よりこうして描く気満々になっている時点で、裕海は自分が彼のことを本当に好きなのだということを改めて自覚した。
 もう、何を描くかは決めていた。裕海は持っている鉛筆を迷うことなく紙面に走らせ始めた。

 *

 開かれた自動ドアを潜ると、病院特有の匂いがふわりと裕海の全身を包み込んできた。この匂いが嫌だという人もいるが、裕海にとってはそんなことはなかった。寧ろ今では、どこか落ち着くような安心感さえあった。通い慣れた結果、最早この病院が馴染みの空気と化しているからだろうか。
 迷うことなくエレベーターに向かってまっすぐ歩いていると、その横を通りかかった、中年くらいの看護師が声をかけてきた。
「あら、“お兄ちゃん”。今日も来たのね? こんにちは」
 彼女はいつも行く小児科フロアにいる看護師の一人だった。裕海は彼女の声かけに微笑みながら応える。
「こんにちは、菅野(かんの)さん。今週も来ました」
「あら、いつの間に私の名前まで覚えてくれてたの? 嬉しいわぁ」
「ここ来たら毎回見かけますし、名札見てたら覚えちゃいました。なんかすみません」
「えぇ何でよ、謝ることないのに。……あ、思わず引き留めちゃったわ。ごめんなさいね」
「あはは、それこそ全然大丈夫ですよ。じゃあ僕、上に向かいますんで」
 最後に小さく頭を下げてから再びエレベーターに向かい、上下ボタンの上を押した。少しして開いた扉の中に入り、“4”のボタンを光らせて扉を閉じる。
 あいつ、どこにいるかな。この時間だし、多分今は病室にいないかもしれないな。
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