(1)追跡

文字数 9,395文字

羽倉城外の森
 ――『ヴァル・バ・ドゥレ森林』



 篠ノ女軍帰城より、刻は少し遡る。

「――一体何なのでございましょうな、昨夜の輩共は」

 鼻腔を刺す冷たい空気にわずかに顔をしかめた共の者が、顔を潰されて死に絶えた鉄の鎧武者を見下ろす。
 まだ乾ききってない血糊の量に激戦の痕を留めながら、擦り傷しかついていない防具の頑健ぶりに驚かされるだけでなく、それを身に付けた恐るべき鎧武者の一団が相手だったのだと、あらためて、胃の腑が縮まるような戦慄を感じていた。

(これでは……鉄砲でもないかぎり、鎧の隙間を狙うしかあるまい)

 よくぞ、これほどの敵をこれだけ斃したものと味方を褒めたくなってくる。
 おそらくあの方(・・・)の仕業であろう、鎧ごとやられた遺骸を例外と除けば、やはりどうしても“何処の部隊や”と強烈な疑念がわき上がる。

「海を渡った遙か西方の国に、これ(・・)に似た鎧があるとか――榊様が見知っていたらしいが定かではないな」

 返事がないとみた今ひとりの共の者が代わりに応じて、自身が仕えるべき者へ視線を向けた。
 林内が白みはじめた頃合いに訪れて、激闘の余韻を濃密に残す戦地の中央にひとり立ってから、しばらく経つ。
 まるで放置された骸の無残な姿に、戦の無情を感じて打ちひしがれた仏僧のごとく。
 無論、仕えてそれなりの年月を経てる以上、もはや見慣れた光景であり、そうする理由も想像できるのではあるが、それでもいまだに奇異と見れる行動に戸惑わされることは多かった。

 殊に、大将からの直命を受けた身ともなれば。

 はじめのとっかかり(・・・・・)(つまづ)くことなど、あってはならぬと共の者が焦りを覚えるのは致し方あるまい。

(某にもっと力があれば――)

 口惜しいが、自分達ではこのような惨状で、何から手をつければよいのかなど皆目見当もつかぬ――やはり『雷四つ』のひとりに数えられ、大将の信任も厚い隊頭だけが頼りなのだ。

「何か見つけられたな……」

 気づけば同じところを三度も巡り、さすがに遺骸だらけの戦場を見飽きてきたところで、ようやく動きを見せた隊頭に共の者が声に安堵を滲ませる。
 ここへは“手掛かり”を捜しにきたはずが、ようやく動き出した隊頭は、精悍な顔をやや下向きに固定したまま、ゆるりと歩を進ませていた。

 それで何が分かるのか――?

 だが慎重であってもその足取りに迷いはなく、気づけば、何かを辿るかのように蛇行を始めたところで、「やはり手掛かりを?」と見守る共の者達も知らず胸の鼓動を逸らせる。
 そうして期待のこもる二対の眼差しを受けながら、戦場の端まで歩ききったところで、隊頭は腰を屈めた。

「……やはり(・・・)敵が持ち帰ったので?」

 草生えがまばらとなって腐葉土が見え隠れする地面に、そっと片手をつける隊頭へ待ちきれぬ共の者が声を掛ける。

「ああ。鎧の重さで、はっきりと跡がつくから分かり易い」

 どこがどうはっきり(・・・・)なのかは『辿り』の教えを受けたはずの共の者にとっても不明であったが、話の腰を折らぬよう「なるほど」と分かったような空気をつくる。

これ(・・)だけが特に深い」
「“殿の槍”の分、ですな」

 違いあるまいと隊頭も応じる。
 当然のように話を進めるが、普通の人にとって“体重の差”が“足跡の深さの違い”となって表れるというのはあくまで理屈上の話しに過ぎない。実際には素人目に判断できるような差異はなく、まして、戦いによって大きな力がかかれば、体重差に関係なく爪先や踵は深く抉ったような跡を残し、それも大勢によって荒らされた戦場ともなれば、もはやいかなる玄人も見極めるなど不可能と云わざるを得まい。

 それを隊頭は見極めたというのか――。

 何度経験しても驚かされる隊頭の眼力に、共の者二人は畏敬の念を抱きつつ、やはり自分達では遠く及ばぬと無力感も同時に味わう。

「他のところも検めますか?」
「いや。向こうで誰かが槍を拾い(・・・・)、この辺りで運ぶのが二人掛かり(・・・・・)に切り替わっている――まず間違いあるまい」
「――左様で」

 そこまで分かるのか、と思わず呻きそうになるのを共の者は(こら)える。それよりも、今のは朗報と捉えるべき情報ではなかったか。

「“重厚な鎧”に“殿の槍”――それだけの重さなら、急げば一両日中には追いつけますか」

 期待のこもるその声に、だが、隊頭は「どうかな」と素っ気ない。直命の重さを分かっているのかと質したくなるほどの軽い感じで。

「森を出れば荷車も使える。それにこれだけ重い鎧を身に付け、歩いて長く行軍するとも思えん」
「騎馬武者だと……?」

 実はよほどの精鋭部隊であったのかもと適当に見解を示す隊頭に「それは本意で?」と共の者が戸惑う。自分達の知るかぎり、白山にてそれほどの重装な騎馬軍団を耳にした覚えはないからだ。
 少なくとも、今回仕掛けてきた連合軍の『白縫』に『犬豪』の両家は、時に独自の武具を使うことで有名であったが、それでもこんな無骨なものを登用するはずがなかった。
 おかしな拘りだが、両家共に“趣向を凝らす”ところに矜持を抱いてる節がある。無論、白山以外の隣接国を支配する佐竹や蘆名など言うに及ばず。故に――

「まあ、追ってみれば分かるだろうさ」

 相変わらず、今ひとつ本気が感じられぬ隊頭のひょうひょうとした態度に、共の者二人は呆れることなく真剣な表情で深く頷く。
 立ち上がった隊頭の精悍な顔が、行くべき道を得たように、はっきりと一方向に向けられているのをみれば、不安など沸くはずもない。それに踏み荒らされた戦場で何かの痕跡を捜すのと違い、出発点が明らかとなった状態で、まっさらな森林から敵の撤退先を見極めるだけの行為ならば、自分達にもやれる自信があるために。 

「待て、捨丸(すてまる)

 勢い込んで先導を買って出た共の者に隊頭の制止がかかる。

「――いかがされました?」
「儂が出る」

 いつも通りの口調に問答無用の意志を感じとり、捨丸が「え?」と意表を突かれる。普段ならば「修行の一環」と(うそぶ)いて、高みの見物を決め込むものなのに。

「今回だけはいつもと違う」

 その一言で、参集された際に聞かされた眉唾としか思えぬ話しの数々を捨丸は思い出す。それを見抜いたように隊頭もあらためて事例を挙げてみせる。

「“見たこともない鎧武者”に“森林の結界”、そして“異形の蟲”……鉄砲隊の中には“光を放つ霊魂”を見た者もおるそうだ」
「戦ってる最中に?」

 さすがに疑心どころか呆れさえ含めるのはもう一人の共の者。だが、それに呼応することなく捨丸は真剣な眼差しで隊頭に確かめる。

「貴方様もそれを信じると?」
「少なくとも鎧武者は真であった。それに“ふたつの月”も、この目で見た」

 それは昨夜、万雷軍の誰もが、あるいは城に残った者達でも不気味な満月を見た者は多いはずだ。その体験がありながら、単に目を背けるのが得策とはさすがに云えぬ。
 他の武将ならいざ知らず、己の隊頭ならば安易な判断はしないだろうことは捨丸も分かっているが故に納得したのだろう。

「では、申し訳ありませぬがお任せ致します――秋水様」

 仲間が隊頭に先を譲るのをもう一人も異論を挟むことなく黙って見守る。思い起こせば今日に限って、何をやるにしても常に隊頭が率先して行動をしていたことに気づいたが故に。
 今回だけは(・・・・・)――あれは任務の重要性だけでなく、他にも懸念されることがあるからこそ、ついて出た言葉なのだと。

「少し間を空けてから来い」
「「はっ」」

 ほどなくして、三つの影が森の奥へと消えていった。彼らにとっては明らかな道標をなぞるようにして。
 受けたるは剛槍『二つ俵』の奪還。
 遂行するは『雷四つ』――いや諏訪においては異質な武将篠ノ女(しののめ)秋水(しゅうすい)とその技を伝授されし孫弟子二人。
 三人の命を賭した道行きが、人知れず始められるのであった――。

          *****

 歩き出してからいかほどもなく、それ(・・)にはじめに気づいたのはやはり秋水であった。
 林内に繁茂する草木の様相が自分達の知るものと異なるだけでなく、知り尽くしたはずの森林のどこに目を向けても、見覚えのある景色が現れないことも気掛かりのひとつである。
 まるで別の土地に迷い込んだような違和感がずっと胸に(わだかま)っていた。そしてそれを裏付けるように、ある変事に遭遇する。

「――襲われたのだろうな」

 先導する秋水の見立てに異論を挟む者はいない。
 背丈もある下生えが踏み荒らされた広めの場所で、(くだん)の鎧武者の骸だけでなく、奇妙な獣の死体がいくつも転がっていた。

「この獣――手に剣を持っております」

 得物を手にするどころか獣皮か何かの胸当てまで身に付けており、その上、歪な形状であっても人と同じく後ろ足で立っていたのではと思われる外見に三人は動揺を示してさすがに声が固くなる。

「あちらの茂みで襲われて……こちらの広場に移動して迎え討ったのでしょうな」

 周囲を見回していた共の者――拾丸(ひろうまる)が事実であるかのように告げれば、それをさらに、近くに横たわっていた鉄鎧の検分をはじめた捨丸が補足する。

「この鎧武者、矢傷が致命傷のような……犬顔に斬られたわけではないようです」
「武具がひどいから当然だな。錆もみられるし、所詮は犬畜生か」

 賛同するのは拾丸だ。秋水と共に獣の死体に近づいて、用心のために踏みつけた剣を値踏みする。
 使い込んだからというよりは、手入れが全く為されていないためとあっては侮蔑がこもるのは当然であろう。
 秋水はといえば、二人の会話に関心がないのか、犬顔の口腔をこじ開け覗き込んだり、毛並みの感触を味わい、死傷となったかもしれぬ傷口を丹念に調べ上げていた。

「何か気に掛かることでも?」
「この傷を見な」

 拾丸の問いに秋水が穴が穿(うが)たれた皮鎧を差す。

「槍で突いたように見えるのに、(ふち)の部分が焼け爛れている」
「火矢ですか……?」

 思いつきを口にしたろう拾丸に秋水は「否」と首を振り、回答を口にする代わりに獣の遺骸を仰向けから(うつぶ)せに転がす手伝いをさせる。

「どうだ?」
「これは……」
「矢では背中まで貫く力はありませぬ。そもそも、太さも違うかと」

 拾丸が信じがたいものを目にしたと唸れば、鉄鎧の検分を済ませて戻ってきた捨丸もどういうことだと眉間に皺を寄せる。

「親父殿に手傷を負わせたのが“炎の槍”だという話がある。さすがに信じがたいと思うていたが」

 いつもと違った重々しい口調も、現実的に奇怪な傷痕を目の前に突きつけられた驚愕故と察せられた。どちらかといえば、悪夢が現実になったような状況に心情が追いつかず、より混乱が深まるくらいだが。

「どうやら、儂らが追う敵には儂らの知らぬ武器があるらしい。それも一撃で致命傷を与える、とてつもない力を持った武器が」
「見つかったが最後……」

 これ以上ないほど声を固くする拾丸に「これを受けて死ななかったんだよな」と秋水は別の感慨を抱いたらしい。
 そしてやはりさらりと告げる。

「まあ、怖がりすぎる必要もあるまい」
「しかし……」
これ(・・)だけで戦に勝てるものをそうしなかった――できなかった理由に勝機はある。それに儂らは真っ向勝負をするつもりはない」

 「親父殿なら違うがね」と皮肉って秋水が別の話題を振ってくる。「実はもう一つ――あくまで憶測だが」と無精髭を生やした顎に手を添えて、犬顔の遺骸を見やった。

「“待ち伏せ”していたところをみるに、敵対関係なのは間違いあるまいが、しかし森の外から追ってきたとは思えぬ」

 犬顔の足裏を指差し、

「これはどう見ても、森で長く暮らしていた者の足の裏だ。身に付けた襤褸や獣皮のような鎧に枯れ枝などが食い込んだ感じも、平野や町の暮らしでできたものではあるまい」
「つまり……?」
「つまりはこの森こそが獣たちの住処――警戒しろということだ」

 敵だけでなく、自分達も同じ目に遭うかもしれぬと知って捨丸達が慌てて周囲へ視線を飛ばす。
 陽も徐々に高くなってきたものの、まだ、うっすらと朝靄がたゆたう幻想的な眺めが、何だか薄ら寒いものに見えてくるから不思議なものだ。

「どうやら儂らは……」

 途方もないことに巻き込まれてしまったのかもしれない。
 知らず浮かんだ思いをそのまま秋水が口にすることはなかった。あまりに無責任すぎる話しであり、この状況で悪戯に配下の不安を煽る愚かさを考えればこそ。
 そうでなくとも十分に恐怖心を煽ったと自覚するだけに、秋水は何食わぬ顔で遺骸の検分を続ける。

「これは何かの獣の牙だな……肉を食うなら、“狩り”かもしれぬ」

 犬顔の首に提げられた首飾りを手にする秋水に、拾丸が唇を歪めて嫌悪を露わにする。“敵の敵は味方”とも言えるが、人食いが相手ではその手を握ろうとは思えないからだろう。

「手強いのでしょうか?」

 己の腕っ節を振り翳すか、あるいは恐がり過ぎることなく冷静に見極めようとする姿勢に「よい心掛けだ」と秋水は口の端に微笑をつくる。

「四つ足より速さは劣ろうが、獣の筋力は侮れぬ。だが、錆びているにも関わらず、折れることなく使い込んだ感じがする武具から察するに、人を圧倒するほどの剛力は持っていないようだな」
「見た目ほど怖れる必要はないと?」
「“諦めるな”ってだけだ」

 そうしてさっさと立ち上がり、今度は鎧武者の遺骸へ向かう秋水に、捨丸と拾丸は何とも言えぬ表情で互いに視線を交わし合う。「まあ、いつものこと」という結論になるのは、それこそいつものことであったのだが。

「ん――動くなっ」

 唐突に放たれた秋水からの警告に、反応が一拍遅れたのは油断と責めるべきではないだろう。
 秋水の態度に少しだけ気をゆるめていた二人は、警告があってわずか一歩しか足を進めなかったのだが、事が起きるにはそれで十分であった。

 ――――っ

 警告と同時に何かが宙を走り、それが拾丸の側頭部一歩手前でぴたりと止められる。

「! ――申し訳ありませぬっ」

 気づいた拾丸がぱっと跳び退り、片膝つくのを秋水は片手を掲げたまま「動くなと云った」と叱責し鋭い視線を周囲に走らせる。

 握られた手には矢が一本。

 その凶器を手づかみで食い止めた秋水は自然体で立ちながら、その実、一切の隙がない。
 そのまま少し、これ以上の追撃がないと見てから、秋水は背中の刀剣を抜き放って、拾丸が足を引っかけたらしい地を這うツタを無造作に切断する。

「鎧武者のそばに折れた矢があった。防具の性能で難を逃れたようだが、おそらく誘い込まれたな」
「獣が“罠”を仕掛けたと?」

 さらに不用意な動きを見せた拾丸に「不甲斐ない」とばかりの視線を投げつつ、捨丸が疑念を口にする。
 脳裏に浮かぶは、自分で確認した鉄鎧の死因となった矢傷のことだ。

「ああ。存外に頭が回るようだ。だが、まさか罠が残っていたとはな」
「秋水様。まことに、申し訳ありませぬっ」

 二重の失態をしでかして、さすがに顔を俯けたまま、拾丸が歯ぎしりせんばかりに声を絞り出す。

「最後のは不用意すぎたな」
「命まで助けていただいて、気が動転してしまいました……」

 「礼も作法も状況を弁えてしろ」とだけ言い置いて、秋水は何事もなかったかのように、場の空気を切り替えに掛かる。
 
「早いとこ、ここから立ち去ろう」
「ええ、獣の仲間が来る前に」

 応じる捨丸に秋水が何か言いかけたが、そのまま先頭を歩き出す。ささいな仕草に捨丸も特に気にすることもなかったが、結局、何を云おうとしていたかはすぐに知れることとなる。

「――ゆくぞ、拾丸」

 隊頭が去った後も地に片膝ついた姿勢を保持する仲間に捨丸が冷たい口調で移動を促す。

「某がついていっては……」
「お役目を途中で投げ出すのか?」
「だが、本来ならば切腹ものだ」

 罰がなければないだけに、ケジメの付けられぬ苦しみというものもある。だが。

「……それを秋水様が望まぬ事は知っていよう?」

 ならば、何を為すべきかは云うまでもあるまいと捨丸は無言で問いかける。慈悲や同情を求めておらぬ以上、厳しく接することが最善と知れば。
 
「この道中で……必ず汚名返上してみせるっ」

 すでに確信があって歩を進めていた捨丸は、力強く吐かれた仲間の誓いを振り返ることなく背で受け止めた。

         *****

 元々、名のみであった秋水に“篠ノ女”の姓を授けたのは篠ノ女家当主の万雷であった。
 養子縁組の申し出は、秋水にとっては急に過ぎたが、篠ノ女家で異論が出ぬ状況を不思議と思うことはなかった。
 篠ノ女家を武でまとめ、一代で押し上げた力の源を武力に非ずその“人となり”に見出したが為だ。
 一緒にいると“気が大きくなる”――誰もが苦笑と共に笑みを洩らすのを、秋水もまた実感したからに他ならない。
 だが、縛られるのが嫌で住処を離れた自分だ。それが侍との養子縁組だなどと、一番面倒ごとに首を突っ込むのは、例え相手が万雷であっても(はばか)られたのは確かだ。その上――
 それなり(・・・・)の女好きであるにも関わらず、子種も有り余ってそうな巨漢の武人に子がいぬ事実は、「何の策略だ?!」と秋水を疑心暗鬼にさせたのだが、独自にいくら調べても、「事実」としか答えが出なかったため、ようやく本気にした頃には季節が丁度一巡していた。

「おぬし、疑り深いにもほどがあろう?」

 受け入れの意志を示すべく顔を出した際、その場で縁組を進めはじめた巨漢の当主の睨みは“圧巻”の一言に尽きた。
 これが諏訪を不敗に導く『軍神』の覇気かと思わせる息苦しさに、だが、秋水は屈することなく切り返した。

「通う女の数だけ刻を要しただけだ」
「む……まさかこよね(・・・)のことも?」
「それは知らぬ――日をあらためてもらってよいか?」

 今にも調べをはじめそうな秋水の物言いに、失言したと慌てたのは万雷だ。

「な、ならぬぞ? 武士に二言はないものだ」
「それはよかった。俺はまだ、武士になっていないはずだ」
「いやいや、成るものも(・・・・・)いかんっ」

 駄々っ子かよと義理の子息になろうという者に呆れられても「当主は儂だからっ」と万雷は頑として譲ることはなかった。

「なら、その女(・・・)で落ち着いてはどうだ? 素性も怪しげな子がほいほい出るような状況では、俺もあんたの子(・・・・・)として生きることに腹を決めかねる」
「……むむ」
「あんたが手を出すほどの女だ。いい女に違いないだろうし、女もあんたが相手なら幸せだろうさ。どのみち、このまま正妻がいないのは“家”としてもまずいだろう?」

 相手の出方によっては“敵の懐”にも成り得る状況で、秋水が非常に好き勝手口にできるのも、それだけ勝手知ったる屋敷というのもある。
 ただ、それでも生まれが生まれだけに言葉遣いがなっていないのをここまで通用させる秋水が勇猛なのか、万雷の一門掌握が並外れているのかは意見が分かれるところであろう。
 そうなるのも、ある種、それだけ秋水を認めているところがあるということだ。
 あの日、正妻まで決めさせてしまった己の大胆さに、さすがに恐くなったのはこよね(・・・)の年齢を聞いてからだが、別に驚くべき年齢差でもないかと今では自分を慰めている。

「存外に好き勝手させてもらったからな――」

 必要時以外に作法を求められることもなく、また、養父が気に入ってるらしい主君も暴君どころか乱世で不安になるほど人の良い(・・・・)人物だ。
 諏訪の生活も少しづつだがよくなっており、民の笑顔を見る機会が増えたように思えるのは気のせいではあるまい。
 要するに、非常に居心地が良いのだ。

(だからこそ――)

 命のやりとりをする世界に再び足を踏み入れても後悔はなかった。養父と共に戦に出ても、倒すのは領内に踏み込んできた悪党だと割り切ってもこれた。
 ただ、己の隊員を悪戯に死なせたくなくて、戦に消極的であったから――それで評価が得られないことを反省することはないが――養父に対する後ろめたさは正直持っていた。だから――

(願ってもない機会だ)

 それと同時に、

(俺の居場所を守るためにも、親父殿にあの槍は必要だろう)

 そう秋水は胸内でひとりごちる。
 己にしか果たせぬ困難な任務だけに。
 異界と化した森林を抜け、堅牢な防具と奇怪な術を駆使する敵対勢力の陣奥に侵入し、その上、四貫(約15㎏)ある重槍を大将の下まで運ばなければならぬのだ。
 立場が異なれば、笑い飛ばすほどの馬鹿げた任務だ。命じた者は、むしろ何かの罰としてやらせたのではないのかと。ならばこそ。

 己以外に誰ができるというのか――。

 巨漢の万雷と並べば長身痩躯と見られもするが、その実、人並み外れた筋量を有していることは、袖無しの無頼な着物から覗く盛り上がった肩と二の腕を見れば誰もが気づく。
 そして顎まわりの無精髭から受ける印象とは裏腹に、精気漲る双眸を覗き込めば、そこに何事もやり遂げる鋼の意志が宿っていることにも気づけるはずだ。
 いつもは飄然と佇み、あるいはどこでも寝転がって頭上を流れる雲海を眺めるだけの男に、「こいつなら何とかしてくれる」と思わせるものがある。
 万雷が感じたものも同じものであったに違いない。

「――秋水様」
「ああ。先に気づかれたか」

 捨丸の声で、ほんのひとときにすぎない追憶から意識を引き戻された秋水は、左手奥から明らかにがさ藪を掻き分け近づいてくる音に眉をひそめた。
 己の気配察知よりも相手側の察知能力が高いことに“厄介さ”を感じ取って。

「真っ直ぐ近づいてくる――いかように?」
「出たとこ勝負だな」

 任せておけと有無を言わさず二人を下げて、万一の場合は側面の援護を指示しておく。

(獣が相手ならば、“気配”か“臭い”か……)

 少し無造作すぎたかと追跡の手法を自省しつつ、秋水は肩幅立ちで足を止めた。
 刀を背負っているが、剣術を嗜んでいるとは思えぬ無造作な立ち姿。だが、『抜刀隊』の者であったとしても、「(くみ)(やす)し」とは思うまい。
 歴代最強と謳われた月ノ丞をして「量りがたい」と言わしめた者なれば。

「悪いがあまり刻をかけるつもりはないぞ?」

 そう誰にともなく不敵な宣言を放っていた。
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