(1)森より出づるモノ

文字数 9,716文字

丑の刻
羽倉城『物見櫓(ものみやぐら)』――


 大白山の奥深くから広がる原生林は、山裾からさらに東へ一里先まで――諏訪の半ばほどを豊かな緑で覆い尽くしている。
 通称『葉ノ倉林野』――木材の切り出しを生業とする『杣人(そまひと)』が神域としていたこの森林地帯に、『諏訪』の開祖が“自然の要害”と捉えて屋敷を構えたのは百年ほど前。
 はじめは小さな屋敷と自給自足の畑がある程度。それが諏訪家の隆盛と共に政務を司る屋敷や城詰め者の住居が増築されていき、堀を巡らし、ついには周辺林野を『防御林』に造り替えるに至り、拠点に相応しき今日の羽倉城へと成長を遂げていた。
 その羽倉城より天上へと一部突出している物見櫓からは、“ふたつの月”からたっぷりと降り注がれる淡い光によって、海原のように広がる葉ノ倉林野を一望することができる。
 ただ、いくら林野の頭髪ばかりを眺めても、その足下で何が起きているのかまでは、さすがに気づけるものではない。
 故に櫓に立つ歩哨の役目は、城の周囲堀からある程度の距離を草刈りした申し訳程度の“広場”を監視するくらいが関の山であった――今の今までは。

「む?」

 丑の刻に交代で物見櫓に上がったばかりの兵は、着任早々、視界の隅に異変を捉えた。

「何だ――?」

 目を(すが)めながら、そう遠くない森の一角が明るくなっているのに、一層、意識を集中する。
 すると、今度こそはっきりと明らかな炎が木々の間から噴き出すように燃え上がるのを目にした。

「や――あれは火事か?!」

 驚きは、人家もない森で発生したという一事ばかりではない。
 肌に触れる空気は湿潤で、風は凪いでいた。
 何より下から激しく噴き上がる炎の動きなぞ、もはや自然発生のものと考えることに無理があろう。
 警鐘を――そう、兵が思ったところで怪しげな炎が唐突に消えて、そのまま夢が覚めたように森が元の静けさを取り戻す。
 何だったのだ、今のは――?

「確か、あちらは出陣為された万雷様が、布陣しているあたり……か」

 少し違うような気もするが、当たらずとも遠からず。
 つまりは万一、問題ありし時は近くにいるはずの“彼の軍神”がそれを見逃すはずもなく、そう考えれば、さすがに警鐘はやり過ぎかと兵は思い直す。

「せめて斉藤様にお伝えしておきたいが……俺がおらぬ間に何かあったら、はて、どうすべきか」

 などと余計なことを考えてしまい、どうにもこの場を離れる踏ん切りがつけられない。

「えい、こんな時に矢三郎のやつ――」

 もう一人ここにいるはずの相方は、急な小用で(かわや)に行っている。あまりの間の悪さに毒づくものの、戻らぬ限り何ともならぬ。
 一人やきもき(・・・・)しているうちに、肝心の“見張り”からすっかり兵の意識が逸れていたのだが、偶然(・・)それに気づけたのは、やはり暁光と言うべきであろう。

「な、何だ――?!」

 それ(・・)は唐突に森の中から現れた。
 がさ藪を突き抜けるのにほとんど足音を立てず、どこかで見覚えのある(・・・・・・)影姿がするりと森から出てきて、そのまま音もなく城へと近づいてくる。
 黒い塊から数本のやけに細長い足を生やしたそれは――まぎれもなく“蜘蛛”であった。だが、兵の知る大きさは親指ほどもあれば立派なくらいで、決して胴回りだけで“()に匹敵するほどの(・・・・・・・・)巨体ではない。
 ならば、“あれ”は何だというのか――。

「ぁ…………ぉあ?!」

 最後の頓狂な声は、森からさらに一匹現れるのを目にしたためだ。
 度肝を抜かれて声が裏返る兵の心臓でも停めたいのか、留止めとばかりにさらに一匹、二匹と巨大な蜘蛛が次々と森より湧き出でる。
 何だ、これは――?
 もしや、矢三郎に付き合わされた“寝酒の一杯”がよくなかったのか?
 あるいは、これこそが物見頭(ものみがしら)にとっくりと聞かされた、『大凶殺』がもたらす凶事なのか?

「は……は……」

 もはや笑うしかない兵であったが、餌を欲しがる鯉のように、口をぱくぱくさせるだけで笑い声さえ上げられない。
 頭はとうに真っ白だ。
 こんなときこそ、矢三郎の脳天気な台詞が聞きたいのだが。
 あわあわと兵がひとり、操り人形のごとく滑稽な踊りを見せている間も、森から生まれ落ちた蜘蛛達が次々と城に近づいてくる。
 胴回りに比して糸のように細い足を絡ませることなく器用に動かし、想像以上に早い動きで迫り来る蜘蛛達に、生物としての防衛本能が働くのか、兵の全身にぶわりと鳥肌が立ち上がる。
 その何と気色悪い光景か。

 今度こそ警鐘を――。

 頭の片隅で“己の本分”が必死にもがくも身体は一向に言うことを聞かない。それが“恐怖に縛られる”ということなのだが、気づけぬ兵は、ただただ焦燥だけを募らせる。

(矢三郎の奴――っ)

 胸中で相方を恨みながら櫓の手摺りを強く握りしめ、ただ眼下の蜘蛛の動きを眺めることしかできない。
 最初の蜘蛛が城の周囲堀にたどり着いた。
 胴回りが牛ほどもあれば、支える足は竹筒くらいの太さにはなる。
 足の長さは三間ほど(約5.4m)。
 対する堀幅は六間もない。『白山四家』といっても所詮は地方豪族の城であり、それなりの(・・・・・)造りであるため怪物蜘蛛をあしらう防衛手段としてはあまりに心許ない。
 兵の胸中を絶望が満たしていく中、蜘蛛の足が躊躇なく水を張った堀に差し込まれ、思ったとおり、そのまま何の支障もなく踏破してしまう。

「ひっ――」

 思わず仰け反りよろめく兵。
 尻餅をついた勢いで、身体が後ろに倒れ込むのを支えんと両腕を突き出せば――そこはぽっかりと床が口を開ける梯子の取り口だった。

「……ぁ……」

 何とも間抜けた声を残し、兵は下へと転げ落ちてしまう。


(や、やさぶろ――――っ)


 やってしまったという諦めとこんなときでも忘れぬ相方への憤懣が湧き上がるも、もはや手遅れ。しかし。 


「――――ん、ぉわあっ?!」
「へぐっ」


 今宵、不運に見舞われた物見の務めであったが、唯一、兵にとって幸運だったのは、ちょうど小用から戻ってきた(くだん)の矢三郎と偶然にもぶつかり、地面との激突を免れたことであった。
 後に骨折していた事が判明するが、奇跡的に二人とも命に別状はなく、地面の上でしばらく身動きはとれなかったものの、物見の本分だけは何とか果たすことができた。

「だ、誰か……蜘蛛だ、蜘蛛の化け物が出たぞ!」

 激痛に歯を食い縛り、必死に叫ぶ声が城内に響き渡った。

         *****

同時刻
羽倉城『東の曲輪』――


 東手の曲輪(くるわ)が近づいてきたとき、城内はすでに喧噪に包まれていた。
 松明を掲げ、手槍をしっかと脇に挟んだ侍達があちこちから集まってきており、逆に血まみれの侍が担ぎ出されるのとすれ違う。
 夜番として城内警護にあたっている『夜廻り衆』であろう。もう少しすれば、城内警護を司る『近習衆』が見定めに人を寄越すはずだ。

「梯子じゃ、誰ぞ梯子を持って参れっ」

 喉が張り裂けんばかりに声を荒げ、月明かりでも気色ばんでいるのが見て取れる侍は、夜廻り衆頭の斉藤恒仁(さいとう つねひと)であった。

「お前らは曲輪へ急げ。そこの四人はもっと槍を持ってこいっ。できる限り長物を選べ!!」

 焦燥に背を突かれてでもいるように、必死に部下を急き立てる様に、どれほど現場が混乱しているかが窺われる。

「――む!」

 そこへ駆け急いでくる者達に気づき、安堵や喜びだけでなくわずかに嫉妬や悔しさなどが複雑に混じり合った表情を浮かべる。
 隠さず表情に出すのが実に斉藤らしい。
 遅れて気づいた部下達の反応は、素直に喜色一辺だ。その者達を見る目線が思わずといった感じで上下に動くのはご愛敬。

 諏訪軍斬り込み方『抜刀隊』――。
 袖が邪魔にならぬよう黒帯でたすき掛けをし、足裾も白布で十重二十重に巻き上げて、駆け足や跳躍など身軽に動けることを旨とする。
 仕上げは己の士気高揚に欠かすことのできない不動明王尊に“必勝”を願掛けした“鉢巻き”だ。
 瞑想し、最後にきゅっと後ろ手に引き結べば、己はひとりの“修羅”と化す。
 戦時下の城内で、甲冑もつけぬ者達を奇異な目で見るのは当然のこと。同時に、身に帯びる刀ひとつで戦場に立つ姿を騎馬隊や鉄砲衆含めて誰もが畏れを抱くこともまた――。
 それ故、敵味方の区別なく“修羅”あるいは“鬼人”と呼び怖れをなす。
 しかるに天下では、鉄砲の普及と共に“斬り込み隊”の居場所が急速に失われていっているのもまた事実。
 それでも『諏訪』では確かな必要戦力として君臨しているし、彼らも自負していた。
 そう。
 誰からも必要であらんとしてきたのだ。
 なればこそ、修練に明け暮れる。
 どの部隊よりも。

 音に聞く甲斐や越後の強部隊にも決して劣らぬっ。

 己らの存在意義を賭けて。
 まるで鉄砲と真っ向正面から打ち合うかのごとく、彼らの修練は苛烈さを窮めた。
 その力を見せぬわけにはいかぬ――。

 そして今宵もまた。

 ◇◇◇

 視線が合った一瞬、斉藤が小さく、だがはっきりと頷くのを目にする。
 その目にもはや一切の雑念はない。
 思うところはあれど、何より大事にすべきことを見誤るような男ではない、というだけのこと。
 ひときわ異彩を放つ侍衆の先頭を走る片桐十三(かたぎりじゅうざ)は、何かを返す素振りも見せず、その傍をただ通り過ぎる。
 求められているのは“相づち”ではない。
 現場に急ぐべく、己の進路に入る『夜廻り衆』を押し退けるようにして片桐達は駆け勇んだ。

「――退()け」

 ぼそりとした呟きも、不思議と相手に届くようで、びくりと肩をふるわせて誰もが素直に道を譲る。

 強い緊張に顔面を蒼白とさせる若い者も。
 太々しさを絵に描いたような中年の強面も。

 道が拓かれ、当然のように片桐達は礼も述べず走り抜けていく。
 端正ではあるが“無表情”という面を被せているような顔立ちと寡黙であるのとは裏腹に、片桐が醸し出す“空気”は雄弁にその感情を物語る。
 怒っているのか笑っているのか、言葉以上に周りに伝わってしまうのだ。むしろ、だからこそ寡黙になってしまったのかもしれないが。
 不憫なのは“独り言が多い”と揶揄される彼の嫁であったろう。
 寡黙な夫を相手に会話が弾むなど、知らぬ者が目にすればちょっとした怪談話だ。
 ようするに、“(くせ)のある人物”というのが皆の一致した見解だった。

「「「――――ぉおっ」」」

 角を曲がり、目的の曲輪に到着した途端、嫌でも“それ”が目に入り、片桐以外の全員が驚きの声を上げ、思わずその場でたたら(・・・)を踏んだ。
「何だ、あれは?!」
「ぐぅっ」
「副長……」

 戦となれば、修羅となって敵陣に突っ込み、血で血を洗う戦いを繰り広げる猛者達が、驚き戸惑い、顔色を七色に変化させて、挙げ句、気勢を削がれてしまう。

「――――」

 片桐の寡黙はいつものこと。いや、さすがの片桐も檄を飛ばすことも忘れ、思わずその光景に見入ってしまっていた。
 真っ先に目に飛び込んでくるのは、牛ほどもある黒い塊が宙に浮き、複数ある竹竿のような細長い足がそれを支えている、異様な生物のその姿――。

 何なんだ、“あれ”は――?
 
 実際のところ、見覚えのある姿に頭では分かっているが、己の常識が――いや本能がこんな生き物の存在を必死で否定する。

 それが城壁の上に一体。

 物見櫓に取り付いているのが一体。

 さらに、城壁の袂に足のようなものを縮めて丸まっているのが一体――折れ曲がった槍や刀が幾つも刺さっているのを見るに、死んでいるのか? 斃したと思えばいいのか。

 最後に曲輪のほぼ中央――『夜廻り衆』が遠巻きにしているのが一体。

(多すぎる――)

 思わずこぼれそうになる思いを、片桐は口角に力を込めて食い止める。
 さもあらん。
 化け物蜘蛛の戦力は推し量りがたいが、あれだけの大きな蟲ともなれば、その駆除に命がけで挑むことになるのは間違いない。そうであれば――

 甲殻の硬さは?

 動きの速さは?

 いかなる攻撃法を?

 何に反応する?

 力は?

 やはり重いのか?

 即座に、片桐は“敵戦力の見定め”に全神経を集中させ、併せて戦いの術理を構築せんと、己の脳内で目まぐるしく数々の戦法を展開する。

「…………っ」

 敵の戦力と己らとの相違を見極め、有効な手法を模索しようとするが、人が相手ならばともかく、化け物――いや本質は蜘蛛であっても、その習性なぞ知らなくては、戦う術どころか要となる“敵との相違”さえ見出せない。
 短い時間で片桐の額に脂汗が浮き上がり、首元にまで濡れ光らせる。

「――――っ」

 じりじりと彼にしては珍しい焦りが、当然のように背後にいる隊員達にまで如実に伝わってしまう。それにすら気づく余裕もなく。
 少なくとも、ひとつだけはっきりしていた。
 だからこそ、片桐は先ほど、眼前の光景を目にするなり思わず胸中で呻いたのだ。

 問題は“それ”が三体もいるということ――。

 それでも眉間に皺寄せることもなく、無表情を保つ片桐は、あたりに倒れ伏したままの『夜廻り衆』たちを視界に捉える。
 月明かりで血まみれになっているのは十分に知れたが、骸が激しく毀損し臓物をまき散らしているものも多く、つい今し方まで、尋常でない戦いが繰り広げられていたことを窺わせる。
 これだけの被害を出してようやく一体。
 三体同時に相手取るなど言わずもがな。

「ぐ……ぶ……」

 汚泥の中で出したような呻き声を目で探すと、中央に居座る“黒い塊”の真ん中あたりに、両手をだらりと下げた男の姿があることに気がついた。
 見えるのは上半身のみ。
 しかも、逆しまになっている(・・・・・・・・・)男の上半身に深々と食い込む上下に並んだ棘は“それ”の歯列か。
 知らせを受けたときに聞いてはいたが、まさか本当に、化け物と呼ぶに相応しい大きさの蜘蛛に襲われていたとは。

「馬鹿な。あれが、“蜘蛛”じゃと……? こんな……大きな……」

 隊員の虚ろな声を耳にする。
 百戦錬磨の隊員でさえ、“戦場”と言っても過言ではないそれを見ただけで、大いに困惑し毒気が抜かれたように士気を下げるのだ。ならばこれまで戦っていた者達の心境はどれほどか。

「おい、『抜刀隊』だっ」
「おぉ……」
「『言無し』が来たぞ」

 片桐達が立ち尽くしている間にも、周囲からは歓声と若干の戸惑いの声が上がっていた。
 歓声は諏訪軍屈指の剣士団への期待と信頼の高さであり、戸惑いはこんな状況にあっても『言無し』と呼ぶ片桐への苦手意識が思わず表に出てしまったものだ。
 彼らの焦燥を浮かべる顔よりも力なく落ちた両肩が、あと少し片桐達の到着が遅れれば、防衛線が崩壊していたことを窺わせた。
 むしろあの化け物蜘蛛を相手に、今までこの場に
留まっていた使命感と勇猛さをこそ(たた)えるべきであろう。
 ここでようやく片桐が軽く一息ついた。
 産みの苦しみ(・・・・・・)は言葉にできるものではなかったが、その事実から想像できぬほど、術理を決する時間は、実はさほど掛かっていなかった。

「――すぐに隊長をお呼びしろ」
「はっ」

 歓喜に沸く周囲を無視して、決した術理を実行すべく片桐が始めの指示を出す。
 途端に、隊員達の纏う空気が変わった。

 今代の抜刀隊は独特で、隊長は“独り”で立ち回るのを好むため、普段から隊の指揮は副長である片桐が執っていると言っても過言ではない。
 それ故、隊員は常に片桐の言動に注視する。
 片桐の指示で最重要なのは第一声だ。
 はじめに“方針”が出され、次に“捕捉”が告げられる。しかし今回に限っては、遊撃隊であるはずの隊長を(かなめ)と目する“異例の指示”が出されたのだから、隊員達が身構えるのも無理はない。
 真っ先に“隊長が必要”と副長が判断するほどの事態――無論、眼前の光景を目にして異論を抱く者などいるはずもなかった。


「聞け」


 決して声を張っていないのに、『夜廻り衆』まで含めた曲輪にいる全員に片桐の声が通る。

「ここは若の御寝所に近すぎる」

 それで十分、言わんとする事が伝わった。疲労の色が濃い侍達の両目に、闘志が再び湧き上がったからだ。

「よいか――」

 言いざま、片桐は腰に佩いた刀に手を掛け、かちりと鯉口を切る。

「化け物に、ここを突破させてはならぬ。身体を張ってでも、食い止めるぞ」

 漲る気迫が、集う者達の闘志に更なる火を付けて、「応っ」と声を張り上げる『夜廻り衆』が手槍を持ち直し、抜刀隊の隊員らが一斉に刀を振り上げた。

「何としても、若をお守りしろっ」
「妖かしなぞ、我らの槍で退治してくれようぞ!」
「抜刀隊がいれば百人力よ――」

 勇ましい言葉を吐き出し、槍を手近の者とぶつけ合い、己を味方を鼓舞し合う。その気勢に引きつけられるように化け物蜘蛛が動き出した。

「頼む」

 片桐が手近の『夜廻り衆』に告げれば、中年の侍は分かっているとばかりに、悲壮な決意を滲ませた顔つきで頷いた。

「皆、儂に続けぇ!!」

 叫びながら中年の侍がやや左回りに駆け出し、他の者が勇躍してそれに追随する。
 夜目にも砂埃を舞い上がらせる集団の突撃に、当然、化け物蜘蛛が反応した。
 幸いなことに、まるで様子を窺う感じで、蜘蛛はそろりそろりと集団へ近づいていく。この動きで右手に走り込む“場”ができる。

「よし――行くぞ」

 すかさず、機を見た片桐が空いた“場”に向かって走り出した。こちらは兵法の熟練者故か、隊員すべてがわずかに埃を巻き上げるのみで、足音も静かに移動する。
 だが懸念はある。
 そのまま進めば、城壁の上にいる蜘蛛にかなり近づくことになるのだが、それでも片桐の視線はあくまで中央の蜘蛛に向けられていた。

 無論、本命は曲輪中央の蜘蛛。

 狙いは夜廻り衆を囮にした抜刀隊による接近戦での痛撃だが、“城壁の蜘蛛”がどう動くかによって策の成否が決まるだけに、非常に危険な賭でもあった。

 だが、やるしかない。

 未知の相手に戦力を分散するは愚策と判じるからだ。少なくとも、片桐は、あの化け物を複数一度に相手取れば、戦力不足であるこちらの負けは必至とこの戦局を読んでいた。
 故に蜘蛛が群がり集まることなどないように、どんどん先手を取っていき、できる限り早く各個撃破で打ち倒すと決めた。

 時間との勝負でもあった。

 実際に一体は斃しているのだ。こちらの攻撃が通用するのならば、勝機はある。
 左手の喧噪が大きくなった。夜廻り衆が蜘蛛の注意を引きつけるために、ついに決死の突撃を仕掛けたのだ。
 彼らが致命的な損耗を被る前に、何としても主攻としての役目を成し遂げねばならない。
 そうこうする間に城壁が近づく。

「目線を合わせるな」

 片桐は横目で意識することすら放棄して、中央の蜘蛛へ視線を向け続ける。蜘蛛を相手に何が最善かは分からぬが、下手な反応を見せて“城壁の蜘蛛”の注意を引く訳にはいかない。

(集中しろ。まずは中央の一体――)
 
 蜘蛛ならば本体は黒い塊だ。地面から二間(約3.6m)ほどは宙に浮いているため、刀を振っても届くまい。
 長物を持たない抜刀隊には相性が悪すぎる相手だが、それに対する策は単純なものだった。

「足を狙え」

 呟やく程度の指示が、隊員全員に行き渡ったと片桐は確信している。
 他の隊ならいざ知らず。
 否――天下のいかなる抜刀隊であろうと、いざ知らず。
 甲冑を身に着ける鎧武者を相手取ることを想定した我らに――斬れぬ物なし。
 発せられた指示を耳にしても、隊員すべての表情にいかなる不安の蔭も見られなかった。


 ――トス


 その時、片桐の目線はあくまで中央の蜘蛛にだけ向けられていたのは確かだ。
 ふいに斜め上から降ってきた“何か”をまるで気づいていたように、片桐は滑らかな足裁きで回避した。
 直前に片桐が走っていた場所に棒状の何か――蜘蛛の足だ――が突き刺さる。
 足を置いた、わけではない。
 殺意なくして、人の力では為し得ぬほど、地面深くに足を突き刺すわけがあるまい。
 しかし、蜘蛛が足を武器にするだなどと聞いたこともなく、それでも否定しようのない現実が目前にあった。しかも、これだけ大きい足になると、それはまさにちょっとした“攻城兵器”。

「副――」

 長、と真後ろにいた隊員が警告を発する間もなかった。


 トス
 トス


 すぐに連続で降ってきたのを片桐はやはり難なく躱し、二つ目を右に一歩避けたところで、勢いを殺すことなく踏み込んだ足を軸に、くるりと身を回転させた。
 その凄まじい遠心力を利用して、

「疾っ」

 鋭い吐気と共に片桐の右手が霞む。


 ひらめく白光――。


 気づけば、まるで始めからそうしていたように、白刃を抜き放った姿勢の片桐がいた。
 無論、隊員でさえも、そこまでの動きを目にした者はいない。
 どこか美しささえ感じられる姿勢から居直り、片桐はおもむろに刀身の露を払い、滑らかな動作で鞘内に収める。――そこまでが瞬き二回ほどの間。
 ちん、と澄んだ音を響かせて片桐が刀の柄から右手を離した。

「「「おお――っ」」」

 どよめきは、夜廻り衆が発したものだ。
 きれいな切り口を見せて蜘蛛の足が地面に倒れるのに気づいた者がいたらしい。それも、甲殻の硬さに手こずった彼らとは違い、一撃の下に部位を両断して見せたのだから、歓喜も混じって驚きも一入(ひとしお)であったろう。
 無論、喜ぶのはまだ早く、足を一本切断したくらいで蜘蛛が体勢を崩すことはない。それでも、もっと数をこなせば、いずれは本体が地に墜ちよう。
 片桐の一撃が味方の士気を上げることに一役買ったのは間違いなかった。

「あれが……『言無し』の抜刀術か」

 誰かの感嘆を含んだ呟きが夜気に溶けて消えた。

 『諏訪』の抜刀隊は、近習衆と違い、ただ剣力にのみ重きを置いて選抜される特異な部隊であった。
(実際、特異である本当のところはあらためて別に述べるものとする)
 無論、隊である以上、規律に準じることは当然求められるが、何より“強きこと”が重んじられ、それだけに、四十に届かんとする今もなお、片桐が部隊の副長に座するのは、純粋に強者であるからに他ならない。
 その“強さ”の象徴が片桐の最も得手とする『抜刀術』であった。
 歴代最強と言われる現隊長に「抜かせてからが勝負」と言わしめる初撃の凄まじさは、これまで片桐と二合を打ち合う者がほとんどいなかったことからみても窺えよう。
 それ故、当人の自負か修めた流派の倣いか定かではないが、片桐は戦場にあっても、隙あらば納刀し常時居合いの体勢を保つという変則的な戦い方をする。
 『夢想流』の流れを汲む剣術ではと噂されているが、当人がそれに答えることはなく、ただ明らかなことは、“電瞬”の抜付(ぬきつけ)を前に、敵として相対した者は皆倒れ伏したという事実のみであった。
 それでも戦場でなければ、片桐の抜刀術を目にする機会はまずなく、警護が主任務の夜廻り衆が初めて目にして驚愕し興奮するのも無理はない。
 ちなみに『言無し』とは片桐が“寡黙”であるからだけでなく、もうひとつ――その凄まじき抜付を見た者が、誰しも“言葉を無くす”ことからも付けられている。

「構うな――行けっ」

 足を緩める隊員達に片桐が鋭く先へと促す。

「――ご武運を」

 その背に副長の覚悟のほどを見出したか、隊員達が躊躇うことなく掛け去っていく。言葉に籠もるは決して“別れの意”ではない。
 片桐はそのまま足を止め、今し方一連の攻撃を仕掛けてきた“城壁の蜘蛛”に正対した。
 “次善の策”は始めから決めていたことだ。
 いかに気を遣っても、さすがに一部隊が通りがかれば蜘蛛を触発しないわけもなく、こうなれば、己が身を費やして足止めをするしかない。
 幸いにも、まるでこちらの様子を窺うように蜘蛛は攻撃の手を止めたまま、だからと城壁から降りてくる気配もない。
 人を相手にしているようだ。

(蟲なら蟲らしく、気の赴くままに仕掛けてくればよいものを)

 厄介な――いや。
 ものは考えよう、と片桐は捉え直す。
 ならば一人、蜘蛛を相手取り、時間稼ぎの一興というのにも思うところがあった。

「幼き頃の夢が、“天狗と仕合うこと”だったのだが――」

 軽く腰を落とし、再び鯉口を切りながら片桐はゆるりと歩を進めはじめる。

(――相手が“物の怪”というのも悪くない)

 底冷えするような光を両眼に湛えて、片桐の口元がごくわずかに笑みを描いた。
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