(6)風習の差異
文字数 7,507文字
「今は節度を弁えて、トッド」
城門を抜けてからの道中、岩リスのように忙しなく首を振り回しては、しきりに「へぇ」とか「ほぅ」とか物珍しげに声を上げていた皮鎧の男を、たまりかねたようにエルネが注意した。
だが、苛立ちを帯びる声に気づかないのか、「あの花はなんて云うんだ?」と道脇にひっそりと群生する白い花を指差しながら、逆に真顔で尋ねてくる。
「あなたね――」
「確かに、どれも初めて目にするものばかりだな」
細眉を逆立て声にはっきりと怒りを込めるエルネとは対照的に、後ろから、深みのある穏やかな声が発せられる。
「樹木を主材とした品のある建築物に独特の花々や低木、時折目にする自然石は観賞用として意図的に置いてあるのか……落ち着きのある、いい城館だ」
うっすらと苔むした地に真っ直ぐ敷き詰められた白い石畳の上を歩きながら、心地よさげに発する壮年剣士の声を耳にして、エルネの肩から力が抜ける。
「……確かに、何とも言えない、独特の趣がある造りね」
「だが不快ではない」
「むしろ、厳かな空気……カルソーニュの大聖堂に似た雰囲気があるわね」
“神聖さ”ではなく“厳粛さ”という意味で。
畏怖すべき存在を前にしたように、エルネはそっと胸に手を当てる。それは壮年剣士も同じ意見であったらしい。
「私もこの城館には……彼らの静かだが力強い“意志”のようなものを感じる」
剣士故かあるいは彼個人の感性か、彼なりに感じるものがあるようだ。
文化とは、人々の営みを積み重ね、醸成されることで生まれるものだ。そこには当然、関わった人々の考え方や価値観――言うなれば精神 が反映されている。
奇しくも二人が感じたものは、城に住まう者達が持つ“民族としての精神”――日ノ本の精神性であったのだろうが、学者でもないのにそこまで認識できたはずもなく、むしろ、二人の類い希な感受性に感嘆すべきであったろう。
それが今後に繋がるかどうかは別にして。
「――少しはお気に召されたかな」
前を行く弦矢の嬉しげな声に、エルネは素直に頷いた。
「私たちの城は石造りですから。趣 という点でいささか 難がありまして」
「石垣か? それは立派な城で羨ましい。……まあ、儂らにとっては、この森そのものが “城壁”ではあるがな」
爽やかに豪語する弦矢にエルネはぎこちない笑みを返す。
されば魔獣を“城兵”とでも呼ぶのだろうか?
“魔境”を城の防壁に例えられては、大陸一の列強である帝国さえも形無しの発言だ。実際、この城ひとつを落とすのに数万規模の軍団が必要となるだろう。
ただ、すべては魔獣の脅威さえ跳ね返し“魔境”で城を存続させることができて初めて可能な話しだ。だからこそ、エルネは思わず口にしてしまう。
「ですが、使い勝手の悪い 城壁では?」
「然りっ。いまだ儂らも馴染めない」
立ち止まって振り返り、戯 けたように眉尻を下げる弦矢にエルネはちょっと面食らう。それは魔境という危地で生きねばならぬ者の本音と建て前――あらためて、城より一歩外側の危険さが思い起こされる。
そう。
幾多の窮地を乗り越える道中、自分についてきてくれた供の者を失いながら、ようやく森を抜けたのが、つい先ほどのことであったのだと。
なのに城内へ一歩踏み入るだけで、こうして城館の趣に思いを馳せ、和んだ気持ちで伝承の異人と他愛のない歓談を愉しんでいたりする。
何なのだろう。
城の内と外にある大きな差――そこに感じるこの強烈な違和感は。
弦矢達とこうして直に会い、その人となり、服装、建築などに接するほど、エルネの中で疑念が頭をもたげてくる。
あまりに異質だ ――と。
いくら魔境と呼ばれし森に閉ざされていたとはいえ、広義では同じ地域 にありながら、こうも自分達と異なる文化が育つのだろうか?
勿論、文明レベルが低いのとは違う。建築技法も庭園の拵 えも、自分達と辿った道が違うというだけで、レベルの差異などまったく感じられない。
(一体、何だというの、彼らは――?)
まさか伝説に聞く『黄金郷 』に連ねる一族なのだろうか? ふいに寝物語りに聞かされた話を思い出し、エルネは軽く首を振った。と、そこで――
「待てぃ!!」
切りつけるような制止の声に、エルネはびくりと身を強張らせて我に返った。
気づけば、いつの間にか館の中に入っており、こじんまりとした玄関ホールらしきところで、弦矢達は一段上の板の間に上がり込んで、ちょうどこちらへ振り返ったところであった。
「え、どうされ――」
戸惑いつつも、怒り眉に険しい表情をした皆の視線が自分の足下に向けられているのにようやく気づく。
板の間に上がるため、マントから延びた細い足がくの字に曲げられ、少女とは思えぬ白く艶めかしい太腿がちょうど露わになっていた。
動きやすい短めのスカートにしたのが徒 となったが、さすがにはしたない ――殿方には少し毒が強すぎたのか?
「失礼を――」
頬を赤らめさっとマントで太腿を隠すエルネに、だが、近くの異人が血相を変える。
「土足で 我らの城を踏みにじるとは……」
声を震わせるや否や、いきなり抜剣してぬらりと光る抜き身の刃を空気にさらす。
「――え?」
あっけにとられたエルネを他所に、他でも数名が剣の柄に手をかけ、顔を真っ赤に染めるか真っ青に色を失うかの違いはあっても、明らかな憤怒の形相でエルネを睨み付けてくる。
膨れ上がった殺意。
凍り付くエルネ達。
一気に静まり返った場にひとつの影が進み出た。
「どういう了見かな、お客人?」
静かな声に身を竦 ませるほどの威圧感を込めて問いかけてきたのは、常に弦矢に付き従っていた護衛者らしき男。
普段からの怒り眉はびくとも動かず、しかし、真一文字に引き結ばれた唇が、より一層固く引き結ばれていることが男の怒りを如実に表していた。
答えによっては叩き切る――激しい気概がそこにはあった。
「え……あの……」
一体何がどうして。
突然のことに訳も分からず、そして眼前にいる男のあまりの迫力に圧倒され、言葉が出ないエルネに
救いの手が差し伸べられる。
「皆、落ち着けぃ」
凜とした発声は確かめるまでもなく弦矢のもの。
「エルネ姫を見よ。戸惑うておるではないか? 邪念をもって為したのではないと分かろうが」
「しかしながら兄上。他のいかなる意図なれば、土足を是とするので? むしろ、内心我らを見下すが故の不遜な振る舞いとしか見えませぬ。しかも、衆目の面前で……生足をこれ みよがしに 晒すなど」
最後は頬をうっすらと赤らめ若干尻すぼみになったものの、納得できぬと声に憤懣を含ませる男に、エルネは「それは誤解よ!」と強く反論したい部分があったが声が出ない。
口が渇き、口腔に貼り付いた舌が動かぬうちに、二人の会話は手前勝手に進んでいく。
「異人の様式美や美徳は我らと違うと聞く。足のひとつやふたつでおたつくな 」
そう弦矢が取りなせば、
「しかしながら、女には恥じらいがあって然るべきもの。いくら美麗であっても、晒す限度がございましょう」
「膝下までと……?」
「腿など滅相もござりませんっ」
力強く言い放つ男達に、問題はそこなのだろうかとエルネがぼんやりと考えているところへ、ふいに弦矢の黒い瞳と合ってしまう。
夜のように暗い色合いは、沈んだ気持ちになるどころか、むしろ心を落ち着かせる不思議な魅力に満ちている。
叔父の眼に似た自信に溢れた光。
「姫に他意はない……そうであろう?」
「え……何がです?」
そう、心ここにあらずで答えたエルネが確かに軽率すぎた。それ故、あまりに間の悪い返事に、周囲の者が不敬ととったのも致し方あるまい。
当然の帰結として、先ほど剣を抜き放っていた男が、こめかみの青筋を破れんばかりにして激高することとなる。
「殿のご厚意まで踏みにじるかっ」
そう叫び終える前に。
熟達した技倆で流れるように剣を上段に構えるや、躊躇うことなく振り下ろす。
閃く剣線。
最悪なのは、その動きに乗せられたように、隣の男も抜き様の斬撃をエルネに向かって横殴りに走らせたことだ。
弦矢は眼をわずかに見開き――。
正面の男は冷然と見守り――。
瞬時に閃いたふたつの刃を止める術はなかった。
「――エンセイ様」
目の前に差した影の主を、エルネは呆然と呼ぶ。
その場に落ちるは、先ほどと異なる驚愕故の 沈黙。
何だ――?
いつの間に?!
声にならぬ心の声が周囲から発せられ、すべての答えが斬撃した二人と壮年剣士 による三つの影像に収斂される。
誰もがその結果だけを目にしていた。
エルネを庇 うように現れた壮年剣士が、左手で掴んだ鞘で横殴りの一刀を受け、そこから右手で剣柄を逆手に持ち上げ、迫りくる上段唐竹割りの一刀を半抜きの剣身で受けきったその結末を。
咄嗟に死地としか思えぬ場へ踏み込んで、その上、術理にはない変則手技で受けきってのける――そんな神業としか思えぬ行為を体現しておきながら、壮年剣士の関心は全く別のことにあった。
「恐い思いをさせた」
「……ぃぇ」
さすがに顔色を青白くさせるエルネの声に震えが混じるのを壮年剣士は聴き取ったのだろう。いつもの深みのある声に慈愛を込めて告げる。
「案ずるな……例え『死神』であっても、斬って捨てる」
短く、はっきりと。
妄言としか思えぬ内容を自分なら能うと言ってのける。
その姿影が山のように大きく膨らんだのをエルネは感じとった。無論、包まれるような感覚は、怖さよりも身の強張りをほぐすような安心感が先に立つ。
「うぉっ」
「――っと」
両腕に力を込めたように見えぬのに、ふたつの刃が大きく弾かれ、男達にたたらを踏ませて壮年剣士が居直った。
鞘から剣身を半ば抜いた状態はそのままで、正面に出ていた男をしっかと見据える。
男の怒り眉がわずかに動いたのは、斬撃のような眼光を受け止めたせいであると、当人達にしか分からない事実だ。
「ゲンヤ殿の仰られるとおり、我らとそちらでは普段の慣習からして大きく違いがある。それを念頭に置いて頂き、非礼は詫びるので、どうかお心寛大に願いたい」
「……」
「我らとてこの会談を大事と思っており、破談させたくはない。互いに一歩づつ、歩み寄っていくべきであろう?」
低いが、不思議と場全体に響き渡る壮年剣士の声に身動ぎする者は誰もいない。それは声と眼光に秘められた“覚悟”が、剣身より溢れる凄まじい殺気が、有無を言わせぬ圧力となって決断を迫っているからだ。
戦り合うならば、殲滅を覚悟しろと――
解放してはならぬ“何か”が、自分達の眼前にあるのだと思い知らされるような濃密な殺意に、動けなくなるのは当然のことであった。
事実、一部を除いた全員が額に汗の珠を浮き上がらせ、瞬きもせずに不動像と化した壮年剣士に意識を吸い取られている。
それは仲間であるはずのエルネ達も同様であった。これまで苦労を伴にしてきた人物と別人であるかの如き変わり様に、目を見開き、あるいは大口を開けて呆気にとられている。
森で強敵に遭遇し戦った時も、これほどの“凄み”を見せられることはなかったからだ。
何も知らなかったのだ――自分達は。
これがヨルグ・スタン公国で“雲上に至る者”と畏怖される至高の武人――三剣士の真の姿なのか。
戦闘を囓った程度のエルネでも身震いするほどの“凄み”は背中からでも感じ取ることができる。ましてや、それを正面から受けている人達が抱く恐怖たるや想像すらできやしない。
「ふぅ……まさか万雷の爺様みたいな化け物と、かようなところで出会うとはのう」
大岩の如き重き圧迫感を意にも介さず、深いため息で流したのは城主である弦矢。
「屋敷の中で土足は禁じておる。外の穢れを持ち込まれては困るでな……注意為されよ」
“それで終い”というように、壮年剣士の視線を真っ向から受け止めつつ伝えた後、先の二名を鋭い視線で咎める。
「主らも不用意な行動は慎め」
「殿……」
「他所の侍は知らぬが、諏訪侍は女子供に刃は向けぬ。それは異人が相手でも同じ事」
主の言葉に、まるで雷に打たれたように二人が同時に身を震わせた。
それは侍としての在り様。
新緑の如き青々しい真っ直ぐな道を、ひたすら純真に説いたもの。
何者が相手でも“勝たねば守れぬ”この時代――勝つためには殺しを厭わず、非情に振る舞い、常に殺人技と諜略に磨きをかけねばならぬのが武辺の正道だ。
それがどれだけ嫌であったか。
嫌悪したか。
女子供を手に掛けるたびに心が岩のように固くなっていくのを感じた。それが強さだと己に言い聞かせて――。
腕試しの諸国放浪と称して逃げ出すのは必然であった。
そうして諏訪の地で出会ったのだ――武士ならば嘲弄し唾棄すべき諏訪侍の理念に。
殺伐とした乱世においては茨の道であり、だが、甘く青臭いと嘲笑される信条にこそ、己は憧れ、心酔したのではなかったのか。
己を捧げるに値すると、絶望の暗中に光明を見出していたのではなかったか――。
何のために刀を持ち、ここに立っているのか。
忘れていた初心を思い出し、同時に、いつの間にか“中身”より“殻”に妄信していた己に気づいて深く恥じ入る。
首から上を紅潮させるのは、見当違いの怒りでなく猛省からくる恥辱によるもの。
弦矢はそれをしっかり見て取ったのだろう。
「よいか……次に向ける先を誤れば、儂自ら素っ首切り落とすぞっ」
「「ははっ」」
その場で土下座して平伏する二人から視線を外し、そのまま前へ出るなり、弦矢はエルネに対して頭を垂れた。
「この通りだ。禁則を破るという原因はあっても、姫に刃を向けたことは儂らの落ち度。甚だ勝手ではあるが赦してくれ」
「お顔を上げてください、弦矢様。こちらも知らぬ事とはいえ、大変な失礼をしております。……互いに“水に流す”ということでいかがでしょう?」
「是非に」
弦矢が力強く同意し、エルネも微笑み返した。
「ちなみに、脚が見えたのは不可抗力ですから」
「破廉恥な女じゃありませんから」と重ねて言い募るエルネに「わかっておる」とちっとも分かってない感じで弦矢にあしらわれる。
それともうひとつ。
「もう、その物騒な気を収められよ」と壮年剣士へわざとらしく顔を顰 める弦矢の態度で、ようやく場の空気が弛緩したのだった。
*****
「助かりましたよ、エンセイ様」
「――何よりだ」
短く応じて剣を収める壮年剣士。その姿を横目で見ながら、「月ノ丞には合わせられぬな」と呟く弦矢が再び屋敷の奥へ進み始めると、どこかほっとしたような空気を漂わせながら、皆も支度を始めた。
多少なりと、畏怖混じりの視線が壮年剣士に向けられるのはやむを得まい。
「エルネ様……そろそろお手を」
「ああ……ありがとうミケラン」
「いえ、余計な気遣いをさせてしまい、むしろ申し訳ありません」
鎧に当てられていた小さな手を除けるエルネに鎧騎士――ミケランが申し訳なさそうに謝罪する。
先の一件で、実は真っ先に暴れそうになったミケランの動きを事前に察知し、細腕で制していたエルネが、ある意味“陰の功労者”であったことを知る者はほとんどいない。
無論、細腕一本で本当に封じていたのではなく、そこに込められた思いを察したミケランが歯噛みしながら自制した成果だ。
それでも会談の好機を失うどころか、凄惨な流血沙汰になる未来を避けられた事はとても大きい。
「これを使って」
唇を切ってわずかに血を流すミケランにエルネがそっとハンカチを差し出す。しかし、「もったいない」と固辞してミケランが掌で無造作に拭う。
腹の底ではどうか分からないが、少し落ち着いたのは確かなようだ。
「やべぇ……心臓が口から飛び出しそうになったぜ」
皮鎧の男――トッドが胸の辺りを鷲掴みにするのをすっかりペースを取り戻したエルネが茶化す。
「『探索者』の割に、修羅場をくぐり足りないんじゃない?」
「冗談キツいね……こんな修羅場 がそう簡単に転がっててたまるかってんだ」
後ろの定位置につく壮年剣士――エンセイを横目で見ながら、「旦那も人が悪いね」とトッドが恨めしそうに云う。
「何がだね?」
「あのままやり合ったら、俺たちどうなってたか、てことだよ」
まわりを気にして声を潜めるトッドに、エンセイが「心配はない」とさらりと応じてトッドを身震いさせた。
背を伝う冷たい汗を感じながら、トッドはそれが本気で云っているのだと気づく。いや、三剣士であれば可能なのだろう。
(周囲にいるのは凄腕の連中だぞ?)
護衛者らしい男達の腕前は、先の剣術を見ても明らかであり、『探索者』としては一流でもあるトッドの観察眼においても、剣術どころか“戦闘力”という総合的視点からも高いレベルに位置すると評価していた。
それでも、全員を相手に自らの完全勝利を疑っていないのだ――この壮年の剣士は。
(まったく……いよいよもって、とんでもない道行きになっちまったもんだぜ)
頼もしくもあり、正直恐くもある御仁に、お姫様と忠義一徹の護衛騎士……仲間であっても気を許せぬところがある。
ひねくれ過ぎかと思いつつ、トッドが意識を前へ向けたところでそれは起こった。
「エルネ様――っ」
悲鳴に似た声を上げたのは鎧騎士。
振り返って目を瞠 っている弦矢に付き添いの男。
それらの中心に倒れた少女の姿があった。
トッドの心臓が大きくひとつ跳ねる。
「嘘だろ……」
ざわめきが渦のように巻き上がる中、トッドは呆然と立ち尽くしていた――。
城門を抜けてからの道中、岩リスのように忙しなく首を振り回しては、しきりに「へぇ」とか「ほぅ」とか物珍しげに声を上げていた皮鎧の男を、たまりかねたようにエルネが注意した。
だが、苛立ちを帯びる声に気づかないのか、「あの花はなんて云うんだ?」と道脇にひっそりと群生する白い花を指差しながら、逆に真顔で尋ねてくる。
「あなたね――」
「確かに、どれも初めて目にするものばかりだな」
細眉を逆立て声にはっきりと怒りを込めるエルネとは対照的に、後ろから、深みのある穏やかな声が発せられる。
「樹木を主材とした品のある建築物に独特の花々や低木、時折目にする自然石は観賞用として意図的に置いてあるのか……落ち着きのある、いい城館だ」
うっすらと苔むした地に真っ直ぐ敷き詰められた白い石畳の上を歩きながら、心地よさげに発する壮年剣士の声を耳にして、エルネの肩から力が抜ける。
「……確かに、何とも言えない、独特の趣がある造りね」
「だが不快ではない」
「むしろ、厳かな空気……カルソーニュの大聖堂に似た雰囲気があるわね」
“神聖さ”ではなく“厳粛さ”という意味で。
畏怖すべき存在を前にしたように、エルネはそっと胸に手を当てる。それは壮年剣士も同じ意見であったらしい。
「私もこの城館には……彼らの静かだが力強い“意志”のようなものを感じる」
剣士故かあるいは彼個人の感性か、彼なりに感じるものがあるようだ。
文化とは、人々の営みを積み重ね、醸成されることで生まれるものだ。そこには当然、関わった人々の考え方や価値観――言うなれば
奇しくも二人が感じたものは、城に住まう者達が持つ“民族としての精神”――日ノ本の精神性であったのだろうが、学者でもないのにそこまで認識できたはずもなく、むしろ、二人の類い希な感受性に感嘆すべきであったろう。
それが今後に繋がるかどうかは別にして。
「――少しはお気に召されたかな」
前を行く弦矢の嬉しげな声に、エルネは素直に頷いた。
「私たちの城は石造りですから。
「石垣か? それは立派な城で羨ましい。……まあ、儂らにとっては、
爽やかに豪語する弦矢にエルネはぎこちない笑みを返す。
されば魔獣を“城兵”とでも呼ぶのだろうか?
“魔境”を城の防壁に例えられては、大陸一の列強である帝国さえも形無しの発言だ。実際、この城ひとつを落とすのに数万規模の軍団が必要となるだろう。
ただ、すべては魔獣の脅威さえ跳ね返し“魔境”で城を存続させることができて初めて可能な話しだ。だからこそ、エルネは思わず口にしてしまう。
「ですが、
「然りっ。いまだ儂らも馴染めない」
立ち止まって振り返り、
そう。
幾多の窮地を乗り越える道中、自分についてきてくれた供の者を失いながら、ようやく森を抜けたのが、つい先ほどのことであったのだと。
なのに城内へ一歩踏み入るだけで、こうして城館の趣に思いを馳せ、和んだ気持ちで伝承の異人と他愛のない歓談を愉しんでいたりする。
何なのだろう。
城の内と外にある大きな差――そこに感じるこの強烈な違和感は。
弦矢達とこうして直に会い、その人となり、服装、建築などに接するほど、エルネの中で疑念が頭をもたげてくる。
あまりに
いくら魔境と呼ばれし森に閉ざされていたとはいえ、広義では
勿論、文明レベルが低いのとは違う。建築技法も庭園の
(一体、何だというの、彼らは――?)
まさか伝説に聞く『
「待てぃ!!」
切りつけるような制止の声に、エルネはびくりと身を強張らせて我に返った。
気づけば、いつの間にか館の中に入っており、こじんまりとした玄関ホールらしきところで、弦矢達は一段上の板の間に上がり込んで、ちょうどこちらへ振り返ったところであった。
「え、どうされ――」
戸惑いつつも、怒り眉に険しい表情をした皆の視線が自分の足下に向けられているのにようやく気づく。
板の間に上がるため、マントから延びた細い足がくの字に曲げられ、少女とは思えぬ白く艶めかしい太腿がちょうど露わになっていた。
動きやすい短めのスカートにしたのが
「失礼を――」
頬を赤らめさっとマントで太腿を隠すエルネに、だが、近くの異人が血相を変える。
「
声を震わせるや否や、いきなり抜剣してぬらりと光る抜き身の刃を空気にさらす。
「――え?」
あっけにとられたエルネを他所に、他でも数名が剣の柄に手をかけ、顔を真っ赤に染めるか真っ青に色を失うかの違いはあっても、明らかな憤怒の形相でエルネを睨み付けてくる。
膨れ上がった殺意。
凍り付くエルネ達。
一気に静まり返った場にひとつの影が進み出た。
「どういう了見かな、お客人?」
静かな声に身を
普段からの怒り眉はびくとも動かず、しかし、真一文字に引き結ばれた唇が、より一層固く引き結ばれていることが男の怒りを如実に表していた。
答えによっては叩き切る――激しい気概がそこにはあった。
「え……あの……」
一体何がどうして。
突然のことに訳も分からず、そして眼前にいる男のあまりの迫力に圧倒され、言葉が出ないエルネに
救いの手が差し伸べられる。
「皆、落ち着けぃ」
凜とした発声は確かめるまでもなく弦矢のもの。
「エルネ姫を見よ。戸惑うておるではないか? 邪念をもって為したのではないと分かろうが」
「しかしながら兄上。他のいかなる意図なれば、土足を是とするので? むしろ、内心我らを見下すが故の不遜な振る舞いとしか見えませぬ。しかも、衆目の面前で……生足を
最後は頬をうっすらと赤らめ若干尻すぼみになったものの、納得できぬと声に憤懣を含ませる男に、エルネは「それは誤解よ!」と強く反論したい部分があったが声が出ない。
口が渇き、口腔に貼り付いた舌が動かぬうちに、二人の会話は手前勝手に進んでいく。
「異人の様式美や美徳は我らと違うと聞く。足のひとつやふたつで
そう弦矢が取りなせば、
「しかしながら、女には恥じらいがあって然るべきもの。いくら美麗であっても、晒す限度がございましょう」
「膝下までと……?」
「腿など滅相もござりませんっ」
力強く言い放つ男達に、問題はそこなのだろうかとエルネがぼんやりと考えているところへ、ふいに弦矢の黒い瞳と合ってしまう。
夜のように暗い色合いは、沈んだ気持ちになるどころか、むしろ心を落ち着かせる不思議な魅力に満ちている。
叔父の眼に似た自信に溢れた光。
「姫に他意はない……そうであろう?」
「え……何がです?」
そう、心ここにあらずで答えたエルネが確かに軽率すぎた。それ故、あまりに間の悪い返事に、周囲の者が不敬ととったのも致し方あるまい。
当然の帰結として、先ほど剣を抜き放っていた男が、こめかみの青筋を破れんばかりにして激高することとなる。
「殿のご厚意まで踏みにじるかっ」
そう叫び終える前に。
熟達した技倆で流れるように剣を上段に構えるや、躊躇うことなく振り下ろす。
閃く剣線。
最悪なのは、その動きに乗せられたように、隣の男も抜き様の斬撃をエルネに向かって横殴りに走らせたことだ。
弦矢は眼をわずかに見開き――。
正面の男は冷然と見守り――。
瞬時に閃いたふたつの刃を止める術はなかった。
「――エンセイ様」
目の前に差した影の主を、エルネは呆然と呼ぶ。
その場に落ちるは、先ほどと異なる
何だ――?
いつの間に?!
声にならぬ心の声が周囲から発せられ、すべての答えが斬撃した二人と
誰もがその結果だけを目にしていた。
エルネを
咄嗟に死地としか思えぬ場へ踏み込んで、その上、術理にはない変則手技で受けきってのける――そんな神業としか思えぬ行為を体現しておきながら、壮年剣士の関心は全く別のことにあった。
「恐い思いをさせた」
「……ぃぇ」
さすがに顔色を青白くさせるエルネの声に震えが混じるのを壮年剣士は聴き取ったのだろう。いつもの深みのある声に慈愛を込めて告げる。
「案ずるな……例え『死神』であっても、斬って捨てる」
短く、はっきりと。
妄言としか思えぬ内容を自分なら能うと言ってのける。
その姿影が山のように大きく膨らんだのをエルネは感じとった。無論、包まれるような感覚は、怖さよりも身の強張りをほぐすような安心感が先に立つ。
「うぉっ」
「――っと」
両腕に力を込めたように見えぬのに、ふたつの刃が大きく弾かれ、男達にたたらを踏ませて壮年剣士が居直った。
鞘から剣身を半ば抜いた状態はそのままで、正面に出ていた男をしっかと見据える。
男の怒り眉がわずかに動いたのは、斬撃のような眼光を受け止めたせいであると、当人達にしか分からない事実だ。
「ゲンヤ殿の仰られるとおり、我らとそちらでは普段の慣習からして大きく違いがある。それを念頭に置いて頂き、非礼は詫びるので、どうかお心寛大に願いたい」
「……」
「我らとてこの会談を大事と思っており、破談させたくはない。互いに一歩づつ、歩み寄っていくべきであろう?」
低いが、不思議と場全体に響き渡る壮年剣士の声に身動ぎする者は誰もいない。それは声と眼光に秘められた“覚悟”が、剣身より溢れる凄まじい殺気が、有無を言わせぬ圧力となって決断を迫っているからだ。
戦り合うならば、殲滅を覚悟しろと――
解放してはならぬ“何か”が、自分達の眼前にあるのだと思い知らされるような濃密な殺意に、動けなくなるのは当然のことであった。
事実、一部を除いた全員が額に汗の珠を浮き上がらせ、瞬きもせずに不動像と化した壮年剣士に意識を吸い取られている。
それは仲間であるはずのエルネ達も同様であった。これまで苦労を伴にしてきた人物と別人であるかの如き変わり様に、目を見開き、あるいは大口を開けて呆気にとられている。
森で強敵に遭遇し戦った時も、これほどの“凄み”を見せられることはなかったからだ。
何も知らなかったのだ――自分達は。
これがヨルグ・スタン公国で“雲上に至る者”と畏怖される至高の武人――三剣士の真の姿なのか。
戦闘を囓った程度のエルネでも身震いするほどの“凄み”は背中からでも感じ取ることができる。ましてや、それを正面から受けている人達が抱く恐怖たるや想像すらできやしない。
「ふぅ……まさか万雷の爺様みたいな化け物と、かようなところで出会うとはのう」
大岩の如き重き圧迫感を意にも介さず、深いため息で流したのは城主である弦矢。
「屋敷の中で土足は禁じておる。外の穢れを持ち込まれては困るでな……注意為されよ」
“それで終い”というように、壮年剣士の視線を真っ向から受け止めつつ伝えた後、先の二名を鋭い視線で咎める。
「主らも不用意な行動は慎め」
「殿……」
「他所の侍は知らぬが、諏訪侍は女子供に刃は向けぬ。それは異人が相手でも同じ事」
主の言葉に、まるで雷に打たれたように二人が同時に身を震わせた。
それは侍としての在り様。
新緑の如き青々しい真っ直ぐな道を、ひたすら純真に説いたもの。
何者が相手でも“勝たねば守れぬ”この時代――勝つためには殺しを厭わず、非情に振る舞い、常に殺人技と諜略に磨きをかけねばならぬのが武辺の正道だ。
それがどれだけ嫌であったか。
嫌悪したか。
女子供を手に掛けるたびに心が岩のように固くなっていくのを感じた。それが強さだと己に言い聞かせて――。
腕試しの諸国放浪と称して逃げ出すのは必然であった。
そうして諏訪の地で出会ったのだ――武士ならば嘲弄し唾棄すべき諏訪侍の理念に。
殺伐とした乱世においては茨の道であり、だが、甘く青臭いと嘲笑される信条にこそ、己は憧れ、心酔したのではなかったのか。
己を捧げるに値すると、絶望の暗中に光明を見出していたのではなかったか――。
何のために刀を持ち、ここに立っているのか。
忘れていた初心を思い出し、同時に、いつの間にか“中身”より“殻”に妄信していた己に気づいて深く恥じ入る。
首から上を紅潮させるのは、見当違いの怒りでなく猛省からくる恥辱によるもの。
弦矢はそれをしっかり見て取ったのだろう。
「よいか……次に向ける先を誤れば、儂自ら素っ首切り落とすぞっ」
「「ははっ」」
その場で土下座して平伏する二人から視線を外し、そのまま前へ出るなり、弦矢はエルネに対して頭を垂れた。
「この通りだ。禁則を破るという原因はあっても、姫に刃を向けたことは儂らの落ち度。甚だ勝手ではあるが赦してくれ」
「お顔を上げてください、弦矢様。こちらも知らぬ事とはいえ、大変な失礼をしております。……互いに“水に流す”ということでいかがでしょう?」
「是非に」
弦矢が力強く同意し、エルネも微笑み返した。
「ちなみに、脚が見えたのは不可抗力ですから」
「破廉恥な女じゃありませんから」と重ねて言い募るエルネに「わかっておる」とちっとも分かってない感じで弦矢にあしらわれる。
それともうひとつ。
「もう、その物騒な気を収められよ」と壮年剣士へわざとらしく顔を
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「助かりましたよ、エンセイ様」
「――何よりだ」
短く応じて剣を収める壮年剣士。その姿を横目で見ながら、「月ノ丞には合わせられぬな」と呟く弦矢が再び屋敷の奥へ進み始めると、どこかほっとしたような空気を漂わせながら、皆も支度を始めた。
多少なりと、畏怖混じりの視線が壮年剣士に向けられるのはやむを得まい。
「エルネ様……そろそろお手を」
「ああ……ありがとうミケラン」
「いえ、余計な気遣いをさせてしまい、むしろ申し訳ありません」
鎧に当てられていた小さな手を除けるエルネに鎧騎士――ミケランが申し訳なさそうに謝罪する。
先の一件で、実は真っ先に暴れそうになったミケランの動きを事前に察知し、細腕で制していたエルネが、ある意味“陰の功労者”であったことを知る者はほとんどいない。
無論、細腕一本で本当に封じていたのではなく、そこに込められた思いを察したミケランが歯噛みしながら自制した成果だ。
それでも会談の好機を失うどころか、凄惨な流血沙汰になる未来を避けられた事はとても大きい。
「これを使って」
唇を切ってわずかに血を流すミケランにエルネがそっとハンカチを差し出す。しかし、「もったいない」と固辞してミケランが掌で無造作に拭う。
腹の底ではどうか分からないが、少し落ち着いたのは確かなようだ。
「やべぇ……心臓が口から飛び出しそうになったぜ」
皮鎧の男――トッドが胸の辺りを鷲掴みにするのをすっかりペースを取り戻したエルネが茶化す。
「『探索者』の割に、修羅場をくぐり足りないんじゃない?」
「冗談キツいね……
後ろの定位置につく壮年剣士――エンセイを横目で見ながら、「旦那も人が悪いね」とトッドが恨めしそうに云う。
「何がだね?」
「あのままやり合ったら、俺たちどうなってたか、てことだよ」
まわりを気にして声を潜めるトッドに、エンセイが「心配はない」とさらりと応じてトッドを身震いさせた。
背を伝う冷たい汗を感じながら、トッドはそれが本気で云っているのだと気づく。いや、三剣士であれば可能なのだろう。
(周囲にいるのは凄腕の連中だぞ?)
護衛者らしい男達の腕前は、先の剣術を見ても明らかであり、『探索者』としては一流でもあるトッドの観察眼においても、剣術どころか“戦闘力”という総合的視点からも高いレベルに位置すると評価していた。
それでも、全員を相手に自らの完全勝利を疑っていないのだ――この壮年の剣士は。
(まったく……いよいよもって、とんでもない道行きになっちまったもんだぜ)
頼もしくもあり、正直恐くもある御仁に、お姫様と忠義一徹の護衛騎士……仲間であっても気を許せぬところがある。
ひねくれ過ぎかと思いつつ、トッドが意識を前へ向けたところでそれは起こった。
「エルネ様――っ」
悲鳴に似た声を上げたのは鎧騎士。
振り返って目を
それらの中心に倒れた少女の姿があった。
トッドの心臓が大きくひとつ跳ねる。
「嘘だろ……」
ざわめきが渦のように巻き上がる中、トッドは呆然と立ち尽くしていた――。