(11)“羽倉城の狂宴”(前編)

文字数 11,407文字

【羽倉城】執務之間――

 陽はすでに中天を越え、眠りを誘うような心地よい暖かさが執務之間に満ちていた。
 積もる疲労のせいもあったろうが、気づけば弦矢はうたた寝をしていたらしい。まどろみを邪険にする軽い咳払いに、目を開ければ白髯に理知的な相貌を包み込んだ叔父の無庵が訪れていた。
 ただ、そこに付き従う事務の高官だけでなく近習長である弦之助や忌み子の無庵までが顔を出すとは思いもよらず、何やら畏まった話しがあるようだと気を引き締め、眠りへの甘い欲求を断ち切らねばならなかった。

「――つまり、若は駆け引き無用と考えなさるか」

 白髯の静かな問いかけに言い得ぬ圧力を若干ながら感じつつ弦矢はさらりと応じる。

「繰り返すが“知る事と知らぬ事の量”において、我らとあちらでは差異がありすぎる。殊に我らはこちら(・・・)の世について何も知らぬ身――それで、まっとうな駆け引きなぞ成立するとは思えん」

 例えば交渉する間もこの世界について調べる機会が得られるならまだしも、“魔境”に閉ざされた状況ではそれも不可能事。
 しかも相手の望みが国の一大事に関わるものであれば、その難しい交渉を進めるうちにあまりにも(・・・・・)無知すぎて(・・・・・)某かの襤褸(ぼろ)が出るのは想像に難くない。
 赤子のように無知であること――それは世渡りしたばかりの諏訪の者にとって、致命的な弱点であると弦矢は指摘する。森奥に潜む“田舎者だから”では誤魔化しきれぬと。

「では、我らの実状を話して聞かせ、いっそ諦めてもらった方がよいということですな」
「いや、そうとは云わん」

 どちらともつかぬ弦矢の言い様に無庵が眉をひそませる。それを自認するからこそ、弦矢も面倒がらずに言葉を重ねる。

「ここは誰もが怖れる“魔境”とのこと。だが、昨夜の一件を踏まえれば、我らの力が通じぬわけでもないようじゃ。ならば、我らを知ってもらった上で、エルネ姫達に我らをどう使うか考えてもらった方がいいだろう」
「それでは向こうに都合が良すぎるのでは?」

 すでに申言を許されている無庵の補佐職が、臆せず疑問を呈してくる。
 見事に日焼けした精悍な丸顔は文机より槍が似合うと思われがちだが、これでも『慧眼』の覚えがよい立派な文官である。許されてるとはいえ、重臣達が居並ぶ場で堂々と私見を述べるところなど、無庵が好感を持つのも頷けよう。

「当然の懸念だが、恐らく心配ない。単なる強者が欲しいだけならば、命を賭してこの森に入る必要はなかったはず。“一軍規模での強兵”が必要だからこそ、この森に挑んだのだ――ならば、ひと(いくさ)あるのは間違いなく、戦というものが手ぬるい考えで勝てぬことは姫の従者達であれば分かっておろう」
ぞんざい(・・・・)な扱いなどするはずもなければ、必死に勝ちを模索するがために、むしろ胸襟を開く――ということですか」

 さすがは『慧眼』を補佐する者か、主の云わんとするところを察して的確に言葉とする。丸顔をころりと俯かせるのは、得心した合図でもあり、また、さらに一歩思考を進ませようとする所作でもあるようだ。
 それは他の者も同じらしい。
 弦矢の言に一理あると黙考する。
 奇しくも互いに逼迫している状況だからこそ、利を求めるために必死にならねばならず、ある程度の成果が得られるまでは互いに相手を陥れるような真似をしている余裕はない。
 もっと直裁的に“信じなくても利用し合う”――そう説かれれば話しは早いのだが、弦矢の場合は恐らく異人の姫をその勘働きのようなものもあって、素直に信じるだろう。そのことを前提に、それぞれが、それぞれの考えで弦矢の示す理を吟味せねばならぬのが苦労の所以でもあった。

「我らが相手するのは、姫ばかりではありませぬ」

 白髯の無庵が諫言するものの「とは申せ」と付け加える。

「この城で交渉する限り、余計な邪魔は入りますまい。姫の供で策を弄するような者はおらぬようですし、あの剣士は機転が利くものの腹黒いわけではござらんからな」
「いっそ、すべてを弦矢様に委ねれば姫も素直に話されるのではないですかな? ――我らのように(・・・・・・)

 補佐職の言に皆が苦笑を浮かべる。
 現在の諏訪家には他領のように古くから仕える子飼いの者はいない。それは『白山四家』として大きくなったのが先代からという理由が一番であったが、殊に今城内にいる者達にあっては、ほとんどの者が弦矢を通した“諏訪の信念”に惹かれて集った者ばかりであった。
 そもそも城在していた者は無論のこと、一大侵攻の一件で、何を置いても早急に馳せ参じてみせたのには、それぞれに、強く胸に抱くものがあってのことである。
 “忠臣”という意味でならば、今城在する者達こそ、領内きっての“諏訪侍”と云っても過言ではない。 
 そうした背景を置いても。
 実際、門前でのやりとりを思い起こせば、エルネ達と即座に打ち解けた雰囲気を作り上げているのだ。その流れに任せるのが良いという考えをむしろ真っ向から否定する理由なぞない。
 狙ってるか否かは別にして、人心掌握術で主の右に出る者がいないのは確かであった。

「……結局こうなるか」

 雁首揃(そろ)えて出された結論の虚しさに、白髯の無庵が嘆息さえ吐きそうな感じで洩らしたときだった。
 ふいに、庭の玉石を荒々しく踏みしめる音がその場にいる者達の耳朶(じだ)を打ち始めたかと思いきや、

「お待ち、お待ちを――っ」
「お待ちくだされっ!!」

 悲鳴にも似た守衛の叫びが聞こえてきて、思わず弦矢を含めた皆が互いに視線のみを交わし合う。

 何が――?!

 必死とも悲痛ともいえぬただならぬ叫びだが、取次からの報せは未だなく、一体何事かと皆の顔には困惑だけが広がっている。

こっち(・・・)か――?!」
「や、そちらは――」

 慌てふためく者達の喚きに、聞き覚えのある豪快な怒声――いや、声が大きく無駄に迫力があるためにそう感じれるだけであろう――静まり返る室内にまで響き渡り、はっきりとした警戒心と少しの好奇心が相まって、誰もが身動ぎせず聞き耳を立てることに全神経を集中させる。
 そうする間にも、豪放磊落(ごうほうらいらく)といった感じの足音が意外な速さで近づいてきて、さすがに看過できぬと弦之助が片膝立てた時には、戸外の庭先に玉石を蹴散らして巨躯の影が現れた。

 ざん

 ざん

 ざん

「お待ちを、篠ノ女様(・・・・)!!」
「構うなっ。ちと、異人の面を見たいだけじゃ!」
「その前に、殿にご報告をっ」
ここは(・・・)殿の御前ですぞ!」
「ん? おお――若っ、すまぬが後で顔を出しまするぞ!!」
「いや、それでよいわけがありませぬっ」

 ざん

 ざん

 ざん……

 やいのやいの(・・・・・・)と言い合いながら、数名の守衛らしき者達を纏わり付かせたまま、あっという間に巨躯の影が通り過ぎていく。
 後に残されたのは、毎朝、丁寧に梳かれた玉石敷きの庭が乱雑に散り荒らされた無残な姿のみ。

「……何ですかな、今のは」
「さて……万雷だからな」

 それで片付けようとする城主も城主ならば、「左様ですな」と相づち打って頷く家臣も家臣といったところか。しかし、どちらも心ここに非ずといった感じのまま会話が途切れてしまったのは、もしかすれば夢かも知れぬと、今の出来事を脳裏で何度も反芻(はんすう)しているからに違いない。
 それは二人だけでなく、その場にいる全員が同じであったからこそ、執務之間に再び静寂が舞い戻る。


「「「…………」」」


 異様な静けさの中、すでに(ぬる)くなった茶を忌み子の無庵が啜る音だけがやけに高く響く。

「お赦しをっ。弦矢様、今し方、万雷様が戻られた――」
「それどころではないわ!!!」

 遅きに失した取次の報せを、弦矢が大喝して断ち切った。
 がばり、と血相変えて立ち上がったのは、今も湯呑みを離さぬ無庵を除く全員だ。昨夜の“黄泉渡り”が起きた時でさえ、動じなかった者達が明らかな動揺を示しつつ、口角泡を飛ばして胸中に膨れ上がった不安を迸らせる。

「あの剣士と万雷を会わせてはならんっ」
「万一、城内でちょっかい(・・・・・)でも出された日には……」
「――大惨事(・・・)になりかねんっ」

 それを大仰な、と失笑する者はこの場にいない。
 それが万が一でないと確信するからこそ、誰もが目尻を吊り上げ、頬を引き攣らせて喚くのだ。

 あの男ならば――いや、恐らくは相対するであろう異人の方こそ気掛かりの一端。

 エルネの連れである剣士の実力はいまだ未知数であったが、先の一件で力の片鱗を見せつけられているだけに一層不安を煽る。
 少なくとも、弦矢と弦之助の兄弟には、あの剣士が万雷とまともに(・・・・)戦り合えるだけの剣力を有すると感じているだけに、武に疎い無庵達よりも声にこもる真剣さに段違いの切迫さがある。
 二大戦力の激突が、羽倉城にいかなる余波をまき散らすかなど考えたくもなかった。

「人を呼べっ」
「兄上、数では抑えられますまい」
「ならば『抜刀隊』ではどうだ?」
「それではかえって火に油を注ぐようなもの」
「いや、“毒を以て毒を制す”と思えば(・・・)――」
念じて(・・・)どうなるものでもありませぬ」

 大口を開けて反論する弦矢に、自身も肩で喘ぎながら「落ち着かれよ」と弦之助が懸命に宥めに掛かる。だが今回もまた、弦矢が聞く耳を持つことはない。

「何を云っておる。落ち着くのはこれ(・・)をどうにかしてからじゃ!」

 そうして室外へ飛び出す弦矢を「兄上っ」弦之助をはじめ、他の者達も慌てて追いかけることとなった。

「とにかく人を集めろっ」
「すでに取次を向かわせております」

 廊下を先へと急ぎながら弦矢は必死に頭を巡らし、思いつく限りの指示を出す。それに対し、振り回され方が堂に入っている(?)弦之助も、切り替え早く対応してのける。それをどこか感心した風に見つめる丸顔があることなど二人が気づくことはない。

「万一の場合、まわりで梯子を持たせて壁を作らせろ」
「東の曲輪に導いて、そこに“場”を設けては?」
「うむっ。それはよい考えだ」

 近習としてひとり刀を携えていた弦之助が、兄に付き従いながらも腰帯に刀を差し込んで己の準備にも余念は無い。
 場合によっては兄に向けられる脅威を防ぎ取り除くのが己の役目だからだが、今回ばかりは荷が勝ちすぎて、厳つい相貌には覚悟の悲壮感さえ漂っていた。
 相手が相手だ、身命を賭してできるのは“刻を稼ぐのみ”であると理解しているが故に。

「追いつきましたら、兄上は私の後ろに回ってくだされっ」
「そんな悠長な――」
「是非にっ」

 それだけは譲れぬと語気を強める弟に、思わず弦矢も口を(つぐ)む。近習長として、弟として――そこに秘められた真剣さを無下にしてはならぬと感じたためだ。
 廊下は部屋に添っていくつか角を曲がるため、目的地はここから目にすることはできない。それでも万雷の向かう先は分かっており、迷わず小走りを続け、いかほども経たずに弦矢達は目標の姿を発見するに至った。

「――どうしたことじゃ、これは?」

 異人達が休息してるはずの室外で、二つの影が対峙していた。だが、弦矢が驚きの声を上げたのは、一方が篠ノ女万雷なのは当然として、もう片方が必然の剣士に非ず、まさかの皮鎧に身を包む男であったためだ。

 なぜに、こやつが――?

 肝心の剣士はといえば、皮鎧の後方で他の仲間達と共にまるで他人事のように事の成り行きを見守っている。いや、正確には戸惑いさえその顔に浮かべて、彼だけでなく異人達全員が呆然と立ち尽くしていた。
 どうやらこの状況は彼らにとっても想定の埒外であったらしい。

「万雷、よさぬか」
「これは弦矢様――」

 不敬にも顔を振り向かせることなく、肩越しに万雷が応じるのは、目前に佇む皮鎧の男がやけに殺気立っているが為に、「視線を外せぬ」といったところであろう。
 多少の手練れ程度であれば、歯牙にも掛けぬ万雷であったが、そうさせぬ力量を皮鎧の男は持っているということになる。

「――――」

 実際、普段のゆるんだ口元を引き締め、下げた目尻を凜と張った表情には、やる気の無い台詞を吐いてばかりのいつもの軽薄さは皆無であった。
 軽く腰を落とし、両腕は腰脇の宙に構えたまま、少しでも万雷が隙を見せれば即座に“必殺の何か”を叩き込まんとしている。
 いや、皮鎧にぴたり貼り付けるように縫い付けられた無数の小袋に、小柄(こづか)と見える得物――こちらの世界では投げ短刀(スローイング・ダガー)と呼ぶ――が帯状に差し込まれていれば、彼が何を得手としているかは明白だ。

 よもや手裏剣術で万雷と――?

 万雷を知る者ならばそう訝しみ、逆に皮鎧の男を知る者ならば、別の見方をするだろう。
 弦矢達は知らぬ事だが、彼はまがりなりにも腕に覚えのある『探索者』にあって、『銀翼級』という上座に最も近づいた者の一人であった。そうでなければ、エルネ達から随行役として声も掛けられず、大陸随一の“魔境”に踏み込んで生き残れるはずもないのではあったが。
 『斥候(スカウト)』ととしては一流。ヨルグ・スタン公国において名のある探索隊『銀の五翼』のメンバーにして、今や最後の一人。
 この森より生きて戻ることが、死に別れた隊長に託された最後の使命であり、心の拠り所でもあったはずの彼が、どうして一騎当千の強者の前に立ち塞がるようにして立つに至ったのか――。

「悪いが、あんた(・・・)とエンセイの旦那を会わせるわけにはいかねえよ……て、もうそこ(・・)にいるけどな」

 ばつが悪そうに口の端を歪める皮鎧の男――トッドに万雷は「それでもどかぬのだろう?」と言い当てる。

「まあ、な」
「だが、向こうは(・・・・)満更でもなさそうだぞ?」

 そう何を根拠にしているのか、万雷が明確にエンセイへ目線をつと(・・)向けるが、ぴくりと敏感に反応しかけたトッドが、思い止まりつつ「へっ」と失笑する。今のが万雷の“罠”――彼にしてみれば悪戯にすぎなかったろうが――であると察してのものだろう。

「あぶねえ、あぶねえ……旦那とあんたがやりあうと色々困るんだよ」
「困る?」
「エルネの姫さんが、これから交渉しようとしてるのがぶち壊れるかもしれないし、あんたに怪我でもされちゃあ適わんからな」
「――ほう」

 万雷の吐息に、思わずぶるりと身を震わしたのはその場にいる全員だ。子鹿が捕食者の飢えた視線に気づいたように、産毛がざわりと逆立っているのが分かる。
 万雷の内部で何かが生まれた――それが不快感から生まれたものと知れば、トッドは己の失言を悔やんだかもしれない。
 事実、真っ正面で対峙するトッドの顔面が見る間に血の気を失っていくのが誰の目にも分かった。

「……(たま)ったもんじゃねえ、な」

 顎に伝った冷や汗を拭うこともできず、トッドがかすれた声を洩らす。今やどちらが隙を狙っているのか、いや隙を見せれば誰が喰われるか分からぬ状況に、自身の気持ちが追い込まれていることに気づいているのかいないのか。

「お主は儂が及ばぬ(・・・)と思うておるのだな」
「違うね。俺はただ、“旦那の力”に賭けてるだけさ」

 意外と素直な発言に、一度は膨らんでいた万雷の戦気がすっと収まる。それに応じて、場にいる者達の両肩が安堵でかすかに下がるのを気づく者はいない。

あんたら(・・・・)の力は俺にだって分かる。この城にいる限り、いつも千本の槍に囲まれてる気分さ――まったく生きた心地がしねえよ。だから、旦那といれば大丈夫と思いてえ。……例えあんたみたいな化け物(・・・)が出てきてもな」
「お前は儂らと敵対したいのか?」
「聞いてなかったか? そんなわけないだろう」

 むっとして答えるトッドに万雷は優しげに告げる。

「ならば安心して“交渉”とやらをすればいい。儂はただ、お前達の面を拝みたかったのだが……まあ、そうさな。今となっては強者に(・・・)興味がある――」

 そうして再び視線をエンセイの方へ向けるのをトッドが語気強く引き留めた。

だから(・・・)、それがマズイと云ってる」
「平行線だな」
「いや解決策はあるさ――俺が本気を出せばねっ(・・・・・・・・)

 叫ぶなり、トッドの肘より先の両腕が霞んだ。
 『探索者』の上位に位置する者が有する圧倒的身体能力(ステータス)が生み出す速さは、常人にとっては虫の羽ばたきを視認するに等しい困難さがある――つまりは誰も反応できないということ。
 その腰元より走った銀線はふたつ。
 万雷がゆるやかとさえ見える動きで顔前の宙を撫でると、飛来した銀線が投げ短刀(スローイング・ダガー)の形をとって手指の間に残されていた。
 それへトッドの眼がわずかに見開かれたのは、蚊ほども気にせぬ巨躯の対応に“これほどの差”があるのかと驚いた故だ。

(分かってたつもりだが――こんちくしょうっ)

 トッドは奥歯を軋らせて、自然体で会話を続ける万雷を忌々しげに見つめる。

「お主が代わりになる(・・・・・・)――ということか?」
「ただの“雇われ”なら問題にならないだろ。もちろん、程々に(・・・)満足させてやるぜ?」

 逃げ出したい本音を隠しもせず露骨に嫌そうな顔をしながらも、トッドに退く気はないらしい。その双眸に何を見たのか、万雷は「よかろう」と承諾した。

(お主の心意気は立派な従者だ)

 口にすれば台無しになることくらい、万雷にも分かっている。軽く口元を吊り上げ笑みを洩らし、ずいと前に出た。
 同じ歩幅でトッドが身を退いたのは彼自身気づいていまい。
 さらに一歩。

「――くっ」

 そこで気圧され退く己の動きにトッドは気づいたらしい。万雷の三歩目に、もはや必死の形相で足下を忙しなく動かして地にめり込ませ、何とか踏み止まることに成功した結果、二人の距離がぐいと縮まる。

「――――っ?!」

 肉体が万雷の間合いに呑み込まれた途端、トッドは体内の圧力が高まり、息が詰まるような感覚を覚えた。
 それは熱気とも冷気ともつかぬ濃密な闘気の空間に首を突っ込むようなもの。いや、全身で飛び込んでしまったからこそ、肉体が全霊を挙げて抵抗を始めたのだっ。
 早くも額に汗の珠を無数に浮かべ、歯を食い縛るトッドの姿がどれほどの圧力(プレッシャー)に耐えた結果かは推して知るべし。

(だが、俺とて『探索者』の端くれ――)

 再度、左腕を霞ませて投げ短刀(スローイング・ダガー)を放ち、同時に地を蹴って万雷の懐に向かって飛び込んだ。そこに込められたありったけの勇気がどれほどの分量であったかなど本人にしか分からない。

「ぅおおおぉおおお――っ」

 雄叫びを挙げると同時に、臍下丹田に意識を集中させ、己の身体能力を限界まで引き出しにかかる。

 体術『瞬歩』――。
 壮健の神がいうところの身体の運用は、元来、人が有している身体能力を極限まで引き出された形で行われるという。
 それは崖を飛び越え、大岩を砕き、休まず遠くの島まで泳ぎ切る力を持つと伝承は語る。それが本来の“人の力”であるのだと。
 いかなる理由あってか、今では失われしその能力を、目覚めさせるのが身体の運用法を説く体術と呼ばれる一群のスキルであった。
 それは『探索者』であれば、誰もが使えるものではなく、『秘められし寺院』に辿り着くことで教えを受けることができるという。

 熟練の『探索者』たるトッドなれば、当然スキルは修得しており、己がすべてを行使しなければ、眼前の武人に一矢すら報いることできぬと、先の短いやりとりだけで芯身に刷り込まれていた。

「おおっ」

 だからこそ絞り出す。
 公国トップクラスの『探索者』として有する身体能力のすべてを。
 それでも以前の彼ならば万雷と渡り合うことなど不可能だ。
 だが厳密には、彼が『銀翼級』に届かなかったのは“魔境”に入る前のこと。
 何度も生死の狭間で激闘を繰り返し、魔獣すら喰らった戦闘の数だけ彼は知らず、その心身はさらなる成長を遂げていた。
 故に――
 トッドの銀線を今度は防がず、頭を傾げて躱した万雷は、それでも想像以上に(・・・・・)早く迫った相手の力に思わず笑み崩れた。

「――っ」

 間近で放たれる二投目を万雷は強靱な歯で咬み止めて、さらに飛ばされた()を片目をつむって受け止め、すかさず無造作に左の蹴り足をぶち込んだ。
 両腕を交差させ、馬並みの脚力を防御したトッドの反応は見事だが、対抗するだけの力が伴わないために万雷の視界から消え去る。

「――っのお!!」

 いや、それは周りで傍観していた者達の幻想だ。現実は強烈な万雷の蹴りに振り払われることもなく、トッドが荒馬の背にしがみつくように必死に張り付いていた。

「やるなあ……」

 称える万雷の左足には突き立てられたナイフが。咄嗟にそうすることで弾き飛ばされるのを防いだとすれば、トッドもまた尋常ならざる反射神経の持ち主だ。
 だが、万雷が掴みかかろうとするのを感知したのか、ぱっと跳び下がったトッドがそのままがくりと片膝を地に着ける。
 商売柄、頑丈さ(タフネス)を売りとする彼らが、戦闘中に膝を着ける致命的ともいえる行為をみせる理由はひとつしかない。

「足一本に、しばしの眩暈(めまい)――割に合わぬな」
「よせよ」

 呻くように否定するのはトッドだ。

「あんたなら普通に動けるだろう? 逆にこっちは状態異常(バッド・ステータス)どころか肋骨が悲鳴をあげてやがる」

 「魔獣かよ」と苦痛か心痛か喘鳴(ぜんめい)するトッドに万雷は嬉しげな顔を見せる。どこか子供っぽい双瞳に「こっちは遊びじゃねーんだぜ」と恨めしげに苦情を垂れるトッド。それへ――

「その辺でよかろう」

 取りなすのは城主である弦矢であった。前に立つ弦之助の脇をすり抜け、何気なく二人の傍へ近づいてゆく。

「その者も客人として迎えることになっている。これ以上は“親睦”の範囲で収められぬぞ」
「それは殺生というもの。身体もまだ暖まってはおりませぬ――のう?」

 賛同を求める万雷に、辛うじて顔を俯かせることなく気力を保持するだけのトッドが「やれやれ」と諦観を滲ませたのも束の間、軽く息を吐く。

「いいさ。付き合ってやる――よ!」

 片膝立ちの姿勢から、語尾の発声と共に投げ(スローイング)短刀(・ダガー)をひとつ見舞った。示し合わせたように万雷が両腕を構えて踏み出し、再び二人が激突するかと思えたその時。

「――人の話を聞かぬか、馬鹿者共がっ」

 二人の間にするりと滑り込んだ影が弦矢の形を取るなり双方を叱責する。
 いつの間に、いや、いかなる早さがそれを為さしめたのか。
 弦矢は左手の手指に短刀を挟み込み、もう片方の手で迫る万雷の巨躯を押し留めていた。無論、手加減抜きの万雷の前進をいかなる武人といえど抑え込めるとは思わぬが、それでも弦矢が為した小さな奇蹟に誰もが驚きを露わにする。
 エンセイはじめ異人達はもちろんのこと、諏訪の面々も呆気にとられた表情をしていた。殊に右手を思わず前に伸ばし、大口を開けて凝り固まっていた弦之助なぞ二度とない狼狽え振りであったかもしれない。それほどに想定外で驚愕の一事であったのだ。
 ただひとり、万雷のみを除いては。

「久しぶりに“餓狼”に会えましたな」
「……わざと(・・・)か?」

 万雷の瞳を見つめて、そこに何を察したか弦矢が咎めるように語尾を強くする。
 だが、後に“羽倉城の狂宴”と酒の肴――いや語り継がれることになるのは、ここで事が収まらぬからこそのもの。

「失礼――取り込み中でございましたか」

 低いが場の隅まで響き渡る声に視線を向ければ、弦矢達が訪れたのとは別の方――着流しの一団が庭先に佇んでいた。
 まるで昼間に月が出たかと勘違いしかねぬ玲瓏たる相貌に、浅葱(あさぎ)色の着物がよく似合う。剣より筆か扇子を持たせたいその人物は――

「月ノ丞――?」

 それは誰の声であったか。どこか間の抜けた感じの呟きに「まさかこんなときに……」天を仰ぐような濃い疲労を滲ませる誰かの声が後を継ぐ。
 万雷と共に、いやある意味万雷以上に“強者を好む”彼の気質を知るだけに、これから先の展開を想像して暗澹たる気持ちが胸に湧き上がり、あるいは絶句するのも無理はなかった。
 それが気のせいではないと確信させるように、視点の定まらなかった月ノ丞の双眸が、気づけばエンセイのそれ(・・)と絡まり合っている。

(まさに強者は強者を知る――か)

 それどころではないと思いつつ、武を嗜む者であれば同じ感慨を抱いたに違いない。

「よいか、月ノ丞――」

 この状況で、誰よりも必死であった弦矢が、正直何を云えばよいのか分からぬものの、何とか事を収めようと言葉を探す。
 その行為を無駄だと嘲笑うかのように、まさか新たな訪問者が加えられようとは、まさに“羽倉城の狂宴”たる所以。

「これはこれは――」
「お待ちくだされ、碓氷様(・・・)っ」
「貴方様まで……って、へ?」

 何やら既視感を伴う騒々しい一団が、月ノ丞達とは反対の方面からぞろぞろと現れる。
 「これはよいところに居合わせたようですね」と嬉しげに顔を綻ばせる血に汚れた童顔の若武者よりも、その場にいる全員が――新たに参じた月ノ丞達も含めて――視線の集中矢雨を浴びせたのは、別の影達にであった。
 そう――それは言葉通り“影”というに相応しき者達。
 濃い灰色の毛皮を用いたのか、肌にぴったりとした毛皮の衣服で身を覆い、その上に、同じ暗色系の獣皮と思しき皮鎧を重ねて護りを固める独特の出で立ち。だが、それよりも目を奪われるのは、波打つ太線が描かれた面長の奇異な仮面の方だ。
 これこそ、黄泉の奥底から這い出してきた妖異ではないかと誰もが息を呑む。

「……ああ、紹介が遅れましたね」

 すぐに皆の様子を察したのだろう。碓氷と呼ばれていた若武者が傍にいる影達へ親しげに顔を向けて「私も門前で会ったばかりでして」と朗らかに前置きを入れる。

「ええと。なんとお呼びすれば――」
「“闇墜ち”」
「はい?」

 答えたのはその者達ではなく別の正反対側から洩れた声だ。思わぬ返事に若武者碓氷が振り返れば、今度ははっきりと絶叫で応じられた。

「「「“闇墜ち”よ(だ)――っっ」」」

 居並ぶ面々に叩きつけられた絶叫は数名のもの。
 耳にするだけで怖気を震うような絶叫に、皆の視線が影達から強引に引き剥がされ、目を剥き動揺する異人達に向けさせられる。
 特にひときわ狼狽えをみせるのは、これまで城内に入ってから一度も口を開くことがなかった新緑の貫頭衣に身を包んだ者であった。

「なんで、なんでこんな処に……」

 か細い声ではじめてその者が女であることに気づく。(おこり)のように声は震え、その瞳で何を見てしまったのか、どす黒い恐怖にまみれた瞳が、“絶望”を知る者だけが宿す翳りにはっきりと縁取られていた。

「だめよ、だめ……」

 抑えられぬ魂の震えが全身に伝わっているがごとく、衣ごと震わせ、まだ若いとみえる女はありったけの勇気を振り絞るようにもう一度叫ぶ。

「に、逃げて――皆殺しにされるわっ」

 女の身命を賭したかのごとき悲痛な叫びが抜けるような蒼穹に響き渡った。
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