(2)“魔境の森”を抜けて

文字数 9,224文字

「――秋水様」

 押し殺したような捨丸の声に何を云わんとしているのかは秋水にも分かっていた。
 視界を塞ぐ木々の先――がさ藪を掻き分けこちらへ向かってくる何者かの気配が、増えたり消えたり判然としないからだ。
 だが、それは今に始まったことではない。
 秋水の感覚では、昨夜この森に布陣したあたりから、時折、気配が“現れては消え”を繰り返している。
 それも左手に感じたかと思えば、次の瞬間には右手に移っていたこともあり、あまりの不規則さに付き合いきれぬと、秋水はあっさり様子見を決め込んだ。

 一晩過ごして出した結論は――放置すべし。

 害意あるならいざ知らず、まるで蛍火のごとくその存在を明滅するだけの怪異に、「これも異変のひとつ」と受け入れてしまえばそれだけのこと。必然、対処の術も単純になる。

「気配に頼るな――“音”に集中しろ」

 ありし日の苦行とは真逆の心得――それを指示する珍妙さに内心苦笑しつつ、秋水自身も半眼に閉じて、耳に意識を集中させた。
 すぐに際立つ三つの音――それらを捉えるだけで良しとせず、集中力を保ちながら、意識をさらに肌全体へと広げてゆく。
 鳥や虫の鳴き声、あるいは葉ずれの音に至るまで、ささいな物音も洩らすことなく己の全身で感じとらんとして。
 そう。

 “音”とは“震え”なればこそ――。

 それは秋水がその道を究めんとした際、実感し体得した真理のひとつ(・・・・・・)。その極意を胸に、

「“音”は聴くだけに非ず、感じるもの……」

 これまで幾度となく繰り返した文脈が、一種の暗号鍵となって、秋水の集中力を飛躍的に高める。

 『独唱術』――
 ありし日に、心を操る術のひとつとして、秋水が学び体得した技術であり、現代でいうところの強力な自己催眠のことである。
 いかなる特殊技術であろうとも、高い集中力が起点となって行使するのはひとつの真理であり、その重要性を看破した秋水は誰よりも習熟に時間を掛けた。
 それが他者と秋水とを隔てる“大いなる壁”となっていることに気づき理解できた者はあまりに少なく、事実、その当時彼に追随できた者は片手で事足りた。
 あの苦行の日々は、決して自ら求めたものではなかったが、今こうして己を支えている事実に痛烈な皮肉を感じずにはいられない。

 『独唱術』によって研ぎ澄まされた集中力が、肌に伝わる微細な空気の震えさえ鋭敏に感じ取らせ、周辺で発生した音の発現点の位置とその状態を秋水に知らせる。
 例えば、犬猫のような速さと軽やかさ。
 そして、大まかな体躯の大きさまで。
 迷いのない足取りに、こちらの位置を明確に捉えているのだと知り、やはりこの場で決着つけねばと秋水は腹を決めた。
 ちなみに、秋水が極意を声に出した理由にはもうひとつ――。
 師である隊頭の言葉を耳にして、身構えていた捨丸と拾丸がはっとしたように、本人も気づかぬうちに上げていた肩を落とし、全身の不要な力みをほぐしにかかる。
 拾丸はあえて聞こえるほどに大きく息を吐き、捨丸はあえて瞼を閉じる。その様子をわざわざ視線を向けることなく雰囲気として秋水は感じ取る。

「拾丸」
「――三つ」

 求めに応じて拾丸が答えたのは相手の数(・・・・)

「捨丸」
「四つ足から、二足へと」

 捨丸が付け加えたのは迫る相手の動きの変化(・・・・・)
 素早い移動は四つ足で、戦う際は二足歩行で両手を攻撃に用いる――どうやら、相手は己の特性を理解し、使いこなすだけの智恵を持つ者らしい。
 二人の自信を持った返答に、「不安なし」と秋水は判じる。この後に及んで「修行の一環」とばかりに二人を試すのは、平常心を促すことが狙いであり、こういう戦い(・・・・・・)の経験が豊富な先達者としての、言わば餞別代わり(・・・・・)というやつだ。

「! ――お前達、左は任せた」

 “音”のひとつが“搦め手”のつもりか左に別れ、秋水は躊躇うことなく二人に委ねた。
 迫る速さを考えれば初見で手を抜くべき相手ではなさそうだ。それを承知での“二人掛かり”という指示ならば、己はどうであったのか。
 まっすぐこちらへ向かってくる音がふたつであるのに対し、秋水はただ一人きりで構えすらとらず、一見して棒立ちのまま、まだ見ぬ強敵を迎え撃つ。

 ザザァ――ッ!!

 ほぼ同時にふたつの影が、背丈ほどもある下生えを掻き分け飛び出してきた。

 それは一見して等身大の大鼠――。
 つぶらな黒瞳に愛嬌さえ感じるが、発達した前肢は人のように逞しく、爪の一本一本が短刀のような長さと厚みを伴って、両腕が凶器と化したその姿は幻想図画の“鎌鼬(かまいたち)”を彷彿とさせるものがある。
 特に問答無用で襲い掛かってくる凶暴さと相まって、例え鎧のような皮膚持つ生物が相手であっても、こいつの前ではまな板に載せられた単なる肉の塊でしかあるまい。

 ギキィ――!!!!

 甲高い鳴き声を放ち、飢えた獣のごとく競うように秋水の眼前に迫った二匹が、殺ったもの勝ちとばかりに、両腕の凶爪を目にも留まらぬ速さで振るってきた。

 ふ、
   ふ――と。

 一瞬、秋水の身体が右に左に現れては消え、大鼠二匹と交錯して互いに位置を替えたときには、何事もなかったかのように無傷で相対していた。

「?!」
「@*」

 まんまるな黒瞳に変化は見えぬが、明らかな驚愕と動揺が大鼠の声を体躯を震わせる。

 確かに引き裂いたはずだと――。

 これまで幾度も獲物を血祭りに上げたのであろう自負に値する素早い攻撃ではあったのだが、しかし、相手が平然と立っているのもまた事実。
 だが、攻撃が通じなかったという驚きは秋水も同じであったらしい。

「――おいおい。どんな毛皮なんだ?」

 いつの間にか手にした刀をぶらぶらと軽く振るのは、腕に感じる痺れをとるためだ。
 先の瞬間、確かに大鼠の一匹に対し、背中をさっくり斬りつけたはずなのに、まるで刃を合わせたような衝撃が跳ね返ってきたのに驚かされていた。
 よく見れば、額の生え際(?)あたりまで木杭のようなものでびっしりと覆われており、それが秋水の刃を防いだものと知れる。
 ちなみに、協会(ギルド)所蔵の『怪物図鑑』には“異常な発達を遂げた体毛”であるとその正体が記されているのだが、秋水にそこまで見極める知識はなかった。

「まあ、ダメなのは“外側”だけか」

 さらりと攻略手段を見出して、問題ないとばかりに今度は秋水の方から前に出る。
 躊躇いも何もない。
 明らかに死地と言える化け物の間合いへ、知人を訪ねる気安さで何気に足を踏み入れる。
 まさか獲物の方から歩み寄るとは思わなかったのか、反応が遅れた大鼠が一歩踏み出そうとしたときには、すでに秋水がその懐に飛び込んでいた。

「――一匹」

 斬りつけるでなく、踏み込み様の刺突で大鼠の口腔をあっさり貫き延髄を断ち切る。それも大きな前歯を正面から避けるように、軽く斜めに踏み出した上での精妙な一撃で。
 その間、側面から殴りつけられるもう一匹の大鼠の凶爪を横目にしっかと捉え続け、寸でのところまで迫った次の瞬間、軽い地響きと共に大鼠の体躯を地面に叩きつけていた。
 用いたのは剛力に非ず。
 それを鎧組み討ちの“投げ”のひとつと見る者が見れば分かったであろうが、どうすれば片手で成し得たかと教えられる者はごくわずかしかおるまい。

「二匹――」

 大鼠が横倒しになると同時に、その顔面へ秋水が拳を叩き込む。それが単なる拳打でないことは、引いた拳の跡に突き立つ二本の短刃――苦無(クナイ)と呼ばれる忍びの道具でそれをより扱いやすく小型化したもの――を見れば明らかだ。秋水は苦無を拳に挟み込んで必殺の一撃として打ち付けていたのだ。

「¥*っ!!」

 さすがに化け物鼠か、人ならば致命傷の一撃を受けてなお、弱るどころか怒り狂ったように凶爪で反撃に出る。だが、秋水は冷静に横から凶悪な拳(・・・・)を叩きつけて大鼠の片腕を使えぬものにし、返す刀で再び顔面へ二度目の『双刃拳』を叩き込む。
 いや、続けて三度目も。

「*@:!!!」

 びくびくと震える大鼠。まだやれるのか、と秋水がわずかに目を見開いたのも束の間、口腔に刀を生やした大鼠から得物を奪い返し、振り返り様に逆手に持った刀を体重を預けるようにして深々と突き刺した。

「参った――なんてしぶといんだ」

 ようやく断末魔の痙攣が止まった大鼠を見やって秋水は大げさに息を吐いた。いかなる相手であろうとも、油断なく、手早く決めるつもりでいたのに。まさかこれほどに生命力が強く、致命傷以外であれば反撃してくるとはさすがに想定外。
 「ならば」と二人の孫弟子を気に掛ければ、まるで狙っていたかのように「秋水様!!」切迫した声が向けられる。

「な――?!」

 「に」と口にする前に、迫るそれ(・・)を秋水は身を投げるようにして横っ飛びに避けていた。
 即座に身体を丸めて衝撃をいなし、片膝立てた時には通り過ぎたそれ(・・)の動きを必死で補足する。
 辛うじて秋水が目にしたのは、宙を飛んで着地した大玉から四肢がにゅっと飛び出て急停止したその姿。そこでようやく、大鼠が体躯を丸めて体当たりをかけてきたのだと気づく。
 おそらくは捨丸達を狙ったのが、偶然、こちらに飛んできただけであろうが、危なく巻き込まれるところだったのは確かだ。

「お怪我は、秋水様?!」
「申し訳ありませぬっ」

 血相を変えてるだろう捨丸の声に、片手を上げて問題ないと示す。こちらへ向き直った大鼠に気を散らす余裕がないからだ。
 初手のやりとりで秋水が感じたものは、化け物の反応速度が人を凌駕しているという事実――先の攻防は決して余裕のあるものではなく、紙一重で躱せたにすぎない。

「手を出すな――」

 助太刀でも考えたか、背後の動きを察して機先を制す。
 気持ちは分かる。
 拾丸も止めれなかったことを詫びているが、あんな無茶苦茶な技(?)を出されては、手の出しようもあるまい。
 恐らくは、この森における生存競争で紛れもなく上位に食い込めるだけの強さを持っているのだろう。気のせいかもしれないが、大鼠の佇まいには大技による手応えを相応に感じとったような余裕が窺えた。これこそが捕食者の態度というものか。

「……それがお前の切り札か?」

 大鼠の全身を覆う杭の本当の役目を知って、秋水はようやく合点がいったものの、当然、嬉しいわけではない。攻防一体の見事な“針玉”の大技に、完成度が高いからこそ、秋水の声には渋いものが混じる。
 だが、それでもその精悍な顔から切羽詰まった緊張感を感じることはない。

「目を回さぬのは立派だが、見えるわけではあるまい?」

 またしても攻略を見出したかのように秋水は不遜な言葉を口にする。さらに、骸となった方の大鼠二体を交互に刀で差して、どちらが捕食側かと口端を軽く吊り上げ挑発した。

「来ぬならいくぞ?」

 まるでもう一度やれとばかりに誘いを掛け、秋水が足を踏み出す。
 懐に飛び込めばこちらのもの。
 殺意と自信を大鼠に誇示し、化け物といえ動物の本能を刺激する。

 だが、再度の“針玉”にどう対処する?

 激しい回転が伴えど、秋水の眼力なれば間を縫って刺すは容易い。あくまで刺されば(・・・・)の話しだが。獣の皮膚が強靱なのを知るだけに、己の技倆をもってしても成功の程が五分五分と秋水は判じる。
 ならば、他の者はいざ知らず、己ならばとるべき手法がひとつある。

 秋水が二歩目を踏み出したとき、大鼠が助走もわずかに“針玉”を仕掛けてきた。

(獣の脚力というやつは――)

 誘っておきながら、ほとんど予備動作もなく繰り出された大技に驚きを懸命に抑え込み、秋水がギリギリまで“針玉”を懐に引き付け、躱した。

 シャッ――
「――くおっ?!」

 すれ違い様を狙っていたのは大鼠も同じであったらしい。出し抜けに“針玉”から延びた凶爪に秋水が反射的に片腕を立てたのは暁光にすぎない。
 金属同士がぶつかり合うような音が響き、凄い勢いで身体を独楽(こま)のように捻りながら秋水の長身が弾き飛ばされる。
 だが、それ以上の決定的な手傷を負ったのは――“針玉”が地面に着地したあたりで「ズン」と鈍い音と共に丸まった大鼠の内側から火花が散った。
 見守る捨丸や拾丸よりも、その猛烈な衝撃を一身に受けた大鼠の方が驚き混乱したであろう。それがどれほどの一撃であったのか、玉の形が崩れて大鼠の四肢がだらしなく伸び、そのままぴくりともせず横たわる。
 しみ出してくる血だまりが破壊力の凄さを物語っていた。 

「……何ですか、今のは?」

 呆然としながらも歩み寄ってきた拾丸が、息絶えた大鼠を見ながら秋水に問いかける。声に含まれる思いには「それは教えられていない」という拗ねた感情も見え隠れする。だが、秋水は悪びれることなく軽く肩をすくめるだけだ。

「儂にも、隠し球のひとつやふたつはある」
「……」

 それを「ずるい」とは言えないが。代わりに“不満”はたっぷりとその地黒な顔に表れている。

「前に云ったな? 『中伝』を会得するまでは教えられぬものがある。それもこれも――」
「我らのため、ですね」

 捨丸が承知とばかりに頷いて、拾丸の肩に手をやる。意地悪や不信感でそうしているわけではないのだと。それは承知しているはずだと。 

「結局、三匹とも任せてしまい、申し訳ありませぬ」
「いや、ある程度手傷を負わせておいたからこそ、儂のやすい挑発にも乗ってきた。働きとしては十分だ」

 隊頭の労いに捨丸だけでなく拾丸も感謝する。

「素直に受け取らせていただきます」
「それにしても、あれ(・・)を同時に二体とか……さすがは秋水様」

 二人の声は平静だが、「及ばぬ自身のもどかしさ」もあってか、さすがに疲労が表情に出ている。
 だが、いまだ“未熟”といえ、それはあくまで秋水と比べた場合の話しにすぎない。
 すでに『中伝』を使いこなしはじめた二人の実力は、戦力としても期待ができるからこそ、共の者として選ばれているのだが、物の怪相手となればさすがに勝手も違うというもの。
 秋水とて、これ以上の道草を食えぬという事情があったにせよ、隠し球の『爆雷丸』を使う羽目になったのは、大鼠の手強さ故である。
 だからこそ、この件で秋水が気にすることはなく、すでに関心は別のことに向けられていた。

「この爪、伸縮自在だな」

 苦無の回収も兼ねて遺骸を検めながら秋水が唸る。これならば四つ足で動くときに邪魔にはなるまいと。それに、体躯をびっしりと覆う杭のような針も手にすれば軽く、うまく加工すれば武器か何かにでも使えそうだ。

「全身凶器――忍びもかくや(・・・・・・)の獣ですな」

 捨丸の感慨に「否」と意外に語気強く秋水の訂正が入る。

「忍びの武器はその五体にある」 

 何気ない口ぶりに込められた“実感”を感じ取り、耳にした捨丸が無言で目礼した。失言したとの意ではなく、むしろ“至言を賜った”と感じ入ったために。
 だが、秋水の胸内でさらに続けられた言葉を耳にすることまでは能わなかったが。

 忍びの武器はその五体にある。
 されど、忍びの深奥(・・・・・)はその五感にある――と。

 実際、捨丸と拾丸が学んだものは、秋水が歩んだ道のりにおいては、ほんの入口にすぎない。ただ、二人とも薄々察するものはあるのだが、明確にいかなる系統の技術かを実は一度も説明を受けてはいない。
 秋水自身、語るつもりはないらしく、思い起こせば「戦場で生き抜くために」というのが技を授ける理由であった。
 だから最小限度しか教えぬと。
 その割に、いつの間にか『初伝』を終えて『中伝』も半ばに入っていたが。先の口ぶりからすると、時期が来れば『奥伝』さえも伝授してくれるのであろうか――?
 『抜刀隊』の者達が歩む兵法とは明らかに異なる道であることは理解できる。だが、そうでなければ何なのかが分からない。以前、修験道に通じるものだと秋水が洩らしたことがあったがそれも定かではない。

「どうやら――」

 苦無を抜き取り、丁寧に血を拭ったあと、秋水はまわりを窺うような素振りを見せてから「一難去ったか」と呟いた。

「血の臭いで嗅ぎつけられましたか?」
「だろうな」
「来るのが犬顔の仲間とは限らん、ということですか。血の臭いなどに誘われる場合(・・・・・・)もあると」

 捨丸と秋水のやりとりに、拾丸が得たりと頷く。どうやら、今この森では、弱き者を強き者が食らう自然の理が恐ろしいほどに強まっているらしい。
 何故そうなったのかなど、考えても始まらない。
 言えるのは、他にも凶悪な生き物がひそんでいても、もはや不思議ではないということだ。

「とにかく先を急ぐぞ」
「「はっ」」
 
 留まるほどに危険が高まるのは自明の理。恐るべき化け物鼠の検分を早々に切り上げて、休息もとらずに秋水達は先を急ぐのであった。

          *****

 城外周辺の森は、戦略的な観点から杉や檜などを密生させ、草木の群生が活きぬよう意図的に抑え込んでいた。
 そうすることで、森林内での移動を容易とし、逆に侵入を阻害したい区域は、鬱蒼たる原生林を手つかずにして残し、さらには倒木させたり茨を植え付けたりして自然の城壁を設けることで城への進入路を限定させていた。
 諏訪の先人達が長い時をかけて造り上げた要害は、侵入者にとっては難所であっても、地元の人間にとっては歩くのが多少面倒な森林にすぎない。
 だが、秋水が見つめる先どころか、周囲を見渡したところで針葉を繁らせる樹木はまばらにしか見つけられず、これまで目にしたことのない種類の草木が多く見受けられた。
 挙げ句に犬顔の物の怪や巨大化した鼠の化け物との戦いだ――もはや“魔境”と化した森林を進むことは、それだけで命を危うくさせる危険な行為と成り果てていた。

「……とうに森を抜けているはずですが」

 痺れを切らしたようにぽつりと洩らすのは拾丸だ。感覚的に森の端にあたる頃合いを過ぎてから、すでに半刻近くが過ぎている。
 もちろん、これ以上化け物と関わり合いになりたくないと、気配を殺して慎重な歩みに切り替えたことから追跡の速さは格段に落ちてもいた。それを考慮してもそれなりの距離を踏破したはずであった。

「だが、やつらの痕跡は続いている」

 秋水のあとからついて歩く捨丸が、自身も『辿り』の技術を活かして確認をとっていた。己の師が間違えるはずもなく、自分の目で見ても、行くべき方向に間違いはない。というか、今では明らかに二列縦隊となって行軍しているらしい敵部隊の跡など技術の有無に関係なく見逃すはずもなかったのだが。

「まさか、これも“森林の結界”ですか?」
「どうかな――待て」

 捨丸がはたと気づけば、言いかけた秋水が片手を挙げる。今度の制止には寸分の狂いもなく二人はぴたりと足を止める。
 理由を問う必要はない。
 すでに陽が天頂を過ぎているのに、朝靄のような霧がうっすらと出始めていたからだ。
 明らかに怪しい状況に、三人は無言で立ち尽くす。

「嫌な感じがする……」

 独白した秋水が前方の靄を避けて、ゆるりと左へ大きく迂回をはじめた。「拙者が――」調べに行こうと自薦しかけた拾丸に「やめておけ」と捨丸が無言で制止する。必要ならば躊躇なく指示が出されると考えれば、「関わるべからず」というのが隊頭の判断なのだと。
 「確かに」と拾丸が身を退き、二人は黙って秋水のあとに付き従う。

「「「?!」」」

 その時、靄の中に大きな影を見た気がして三人が思わず立ち止まっていた。あとから思えば、呻き声ひとつ洩らさなかったのが幸いだったのだと、それが降りかかるはずだった凶事を回避できた最大の理由だと感じるのだが、どうしてそう思ったかは今でも分からない。
 修羅場を何度も潜り抜けてきた己の直感がそうがなり立てる(・・・・・・)のだ。

 やり過ごせ(・・・・・)と。

 きっと間違いないのだろう。
 濃密な存在感を醸し出すその影は、成人男子など比べるべくもない質量を感じさせるのに、音もなくゆっくりと移動している。
 一体何なのかと思うのだが、そちら(・・・)へ過剰に意識を向ければ気づかれる(・・・・・)のではないか(・・・・・・)と確信に近い怖れを抱いて行動に移せない。
 結局はそれで正解だったのかもしれぬ。
 そうこうするうちに、すべては壮大な見間違いか勘違いだったのではと思えるほど、靄がゆるやかに動くと共に、その影は忽然と消え失せてしまった。そこに感じた異様な気配(・・・・・)と共に。
 気づけば靄の残滓が草木に纏わり付いてるのみ。

「……今、“何か”がいたような」
「ああ、間違いない」

 あの圧倒的な気配のぬしは何だったのか。手にかいた汗を感じつつ、聞かれはしないかと怖れるように低く囁き合う二人の緊迫した物言いに、秋水はあえて打ち切るように尻を叩く。

「考えてもはじまらん。さあ、先を急ぐぞ」

 魔境と化したこの森で、いちいち怪異現象に振り回されていては身が保たぬと、きっぱり割り切ってみせる。それが隊頭の勤めだと云わんばかりに。
 あまりに少ない情報で、その判断は間違いなく正しい。ただ、止めどもなく起き続ける怪異に不安は積もるばかりでいっかな解消されずとなれば、そう簡単に割り切れるものではないのだが。
 いや、それを知るからこそ、秋水は多少強引にでも二人を先へと導くのだ。
 念のため、身体に触れぬようにさらに距離をとって靄の発生区域を迂回したところで、鬱蒼たる樹幹と繁茂する下草に挟まれた空間の先の方が明るみを帯びてきた。
 まだ距離はあるが間違いない。

「おお……森の外では?!」
「まったく、ようやく抜けれそうだな」

 二人の声に明るい希望が差し、秋水がすかさず気を引き締めにかかる。

「まだ気を抜くなよ……とりあえず、森の端に着いたらそこで休息を取ろう」

 もしかすれば、先の“靄”が結界の正体であったのかもしれぬ。
 内心、何とか森の外に出られたことを安堵しつつ、秋水はもうひと踏ん張りと足に力を込めるのであった――。
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