(1)亡領の危機

文字数 13,928文字

永禄元年(1570年)
陸奥国(むつのくに)南部
 諏訪領『羽倉城』――


「――妙だな」

 冷え切った寝床を背に、夜着一枚きりの寒々しい姿の若き当主――諏訪弦矢(すわ げんや)が低く唸った。

「開戦の報せが遅すぎる」

 誰もが(まぶた)を重くする夜更けになお、ひとり爛々と瞳を輝かせる様は“危険を嗅ぎ取った獣”を彷彿(ほうふつ)とさせる。
 事実、弦矢には“餓狼”と畏怖されし血塗られた過去があり、それを重々承知の臣下ならばこそ、あるじの獣じみた“勘働き”に疑義を唱える者は一人もいない。それどころか。

「兄上の仰るとおり」

 いの一番に追従するのは、弦矢からみて左手に座す怒り眉も特徴的な近習の長。
 若くして父母を亡くし、ふたつ違いの兄を献身的に支えてきた者故に、率先して同意の声を挙げるのだろう。

「“東の林野”へ兵を送り出してから、すでに一刻(約二時間)あまり。敵進軍の速さも踏まえれば、とうに一戦交えてもおかしくない頃合いかと」

 たくましい体躯に相応しき張りのある声で断言すれば、下座にて控える細面の美丈夫が、逆に異議ありと発する。

「さりとて、この城を覆う樹林の奥深さ――諏訪(われら)が得手とする林野に、敵が無策で踏み込むとも思えませぬ」
「そのくらい、兄上も承知しておる」

 怒り眉を不快げに歪ませ、近習長はいつもと事情が異なるのだと苦々しく説く。
 
「これまでのような領地境のせめぎ合いとは訳が違う。今回、領内に踏み入った者共は『白山四家』に挙げられし『白縫(しらぬい)』に『犬豪』とが手を組む同盟軍――兵数にして五千は下らぬ軍勢ぞ。
 これに抗する刻を我らに与えず、奇襲を成し遂げた奴らからすれば、もはや伏兵の有無など気にもすまい。
 ただ数に物を言わせ、力押しで攻めるだけで容易く決着(けり)がつくのだからな。つまり、我らを警戒する理由など、どこにもない」
「じゃが、現に攻めて来ぬ(・・・・・・・)

 そこが気になると、力強く呟いたのは弦矢だ。したり顔で大きく頷く近習長を横目に弦矢は持論を語る。

「迅速を旨とすべき奇襲の策。なのに常道から外れた軍のもたつきぶり(・・・・・・)。この後に及んで夜襲を躊躇うとも思えぬし、さらなる増援を待つ必要もない。
 となれば、何か敵にあったのか(・・・・・・・・・)? あるいは納得できる意図がそこにあるのか。のう、ぬしはこれだけの情報で、何と読み解いた――」

 探るような弦矢の黒瞳は、凪いだ湖面のごとき美丈夫の横顔をしっかと捉えていた。そこにいくばくかの期待を込めて。

「別に大した推察でもありませぬが……」

 果たして、薄い唇をゆるりと開く美丈夫が前置きしながら簡潔に述べる。

「まず肝心なことは、この羽倉城までほんの一里先(約四㎞)――ここまで我らに気取られず、大軍を領内深くに侵攻させた知謀の主は、『犬豪』に非ず『白縫』以外に考えられぬということ。
 あの商人上がりの『白狐』が、此度の絵図らを描いたとするならば、力押しで失う兵の消耗すら惜しみ、別の策(・・・)を講じても不思議はないと愚考したまで」
「その策とは?」
「例えば、そう……大軍を二つに別ける(・・・・・・)とか」

 それは策というのも烏滸がましい、実に単純な発想であったが、弦矢の虚を突くには十分な効果があった。いや、事情を知る諏訪の者ならば、不安を覚え、焦燥に顔色を変えさせるだけの強い効果が。
 眉根を寄せる近習長が「まさか」と懐疑の目を向けるのにも十分な理由があった。

「この羽倉城を覆う樹林は濃く深く、人の踏み入れる余地などどこにもない。いや、そのように我らが(・・・・・・・・)拵えた(・・・)。――違うか?」
「いかにも」
「仮に奴らが物見を放ち、進入できる場所を探ったところで、あえて植生を薄くした“東の林野”を見出すのみ――結局は“力押しの一手”しか奴らには道がないっ」

 そう。
 この城に大人数を通せる本道などどこにもない。
 あるのは馬一頭通せるだけのつづら折りとなっている細道と北側河川を小舟で遡上する搬送路のみ。
 故に軍勢で城まで押しかけるには、近習長の指摘通り、『虎口』と呼ばれる扇状のまばらに植林されて下草を刈り込まれた“東の林野”へ踏み入るしかない。
 だが、そこれこそが諏訪の誇る『防御林』の狙い。
 深入りするほどに樹木は密生し下生えが兵の足を捉える植生に作り込まれている。やがて『虎口』の喉元深くで多勢の運用が覚束なくなり、そこで敵将は気付くのだ――これが罠なのだと。

「初見の同盟軍に、あの大仕掛けの狙いどころか存在すら、気づけるはずがない。おぬしも我らが築き上げた『防御林』に自信を持っていたはず」
「その念いの強さが、我らの目を曇らせたのやも」

 美丈夫が初めて、その玲瓏たる白面に感情のさざ波を立てる。否定するほどに、林野戦への自信と誇りに傷を付けることになるのだ。心穏やかでいられるはずもない。 
 それでも彼は退かぬ。

「相手はあの白狐。あの者が詰めを誤るなど想像できませぬ。いえ、すべて見抜いていればこそ、手勢の半分を南口に向かわせたと(・・・・・・・・・)、そうは思われませぬか」

 余人が知り得ぬことも知る。陰者(かげもの)の組織を幾つも束ねると噂される『白縫家』には、そういう厄介さがある。
 美丈夫の思わせぶりな言い回しに、「奴らが『尾口』の存在を知っていると?」そう近習長は声に不安をまぎらせる。
 その答えは是。

「本来ならば、こちらが挟撃を仕掛けるために設けた秘密の抜け道――敵からすれば、我らの虚を突くに、これほど格好の仕掛けはございますまい」
「元商人だけに、その辺は抜かりなし、か」

 そこで納得げに呟いたのは、当主たる弦矢。逆に不満を露わにするのは近習長だ。いつものように追従できぬ理由が「兄上」と口にする、悔しさが滲む言葉に表れる。

「あの『防御林』は、祖父が考え、父と共に皆で育て上げた“林野を得手とする諏訪”の象徴とでも申すべきもの――その仕掛けを逆手に取られたなど、このような屈辱……っ」
「落ち着け、弦之助。それが『四家』との(いくさ)というもの。親父殿ならそう云うぞ?」

 歯噛みする実弟を弦矢は鋭く叱咤する。

「我らは教えられたはずだ。そしてこの身で味わってもおる」
「浦尻で嵌められた奇策に、川房で受けた奇襲、ですか」
「そうだ」

 在りし日の、『四家』との激戦を思い起こす実弟に弦矢は力を込めて頷く。共に戦場で辛酸を舐めたではないかと。

「思い出したか。相手の得手すら奇策で弱点に変える――そのくらいやってみせるのが『白縫』よ。そして、そこに武力随一の『犬豪』も加わっておるのが、此度の同盟軍。
 利用されたがどうした。奴らが裏を突くなら、我らはさらにその裏を突くまで。肉どころか骨すら断たせて勝ちを得る――そういう覚悟が、この戦いには必要だ。今一度肝に命じよ、弦之助っ」
「――はっ」

 近習長とて愚かではない。自負が心の隙を作るというのなら、それは慢心であったと自省するのみ。呑み込むべき感情を胸奥に仕舞い込み、ぐっと顎を引く。

「とはいえ、肝心の裏をかこうにも、奴らの初手があまりに効き過ぎては、な」

 唸る弦矢は、ここで初めて眉間に苦悩を刻み込む。なにしろ居城付近にまで、敵に攻め寄せられた状況からの開戦だ。
 打てる手などほぼ無きに等しい。

「虎の子の戦力は、すでに東の護りに当ててしまっておる。想定される敵の“搦め手”は半数でも二千は下るまい。それだけの兵力を抑える手駒は――」
「我らに残されておりません」
 
 どこか他人事のように美丈夫が悲観すべき現実を突きつける。それが癇に障ったか、じろりと近習長が睨みつつ、

「ならば、今から帰城を命じては――」

 思いつきを口にするものの、美丈夫が「間に合いますまい」と冷めた口調で否決する。

「では、我らの軍も二つにすれば――」
「間に合いませぬ」

 今一度、小憎らしいほど丁寧に告げた上で「それに」と美丈夫は付け加えた。

「かき集めた兵数は千にも満たぬもの。それを割いてしまっては、もはや兵力と申しませぬ」
「大将があの――『軍神』でもか?」

 篠ノ女(しののめ) 万雷(ばんらい)――。
 その昔、諏訪領統一の最大の障壁であった難敵は、今では諏訪の守神として『支柱』の一画を為している。
 その白山地域一帯に武名を轟かせる猛将の存在をほのめかされても、「一人で(いくさ)はできぬものなれば」と美丈夫の答えは冷ややかだ。

「では、どうせよと?!」

 業を煮やした近習長が、怒り眉を吊り上げ声を張り上げた。
 このままでは諏訪家が潰える。内心の苛立ちが膝上で握りしめられた拳の震えに表れる。

「退くも駄目。割くも駄目。今さら領内より増援なぞ望むべくもなければ、我らに何の手立てが残されておる? 何でもよいっ。どうすれば兄上を、諏訪を守れるのだっ」
「それは――」

 手などないはずであった。
 だが、美丈夫の視線が対面の上座へと向けられ、受けて白髪隻眼の初老が「畏れながら――」とあらたまった態度で口上を切る。
 真行寺(しんぎょうじ) 無庵(むあん)――。
 先々代から諏訪家に仕える智恵袋のひとり。その彼が懐に忍ばせていた切り札とも云うべき一手を開陳する。
 使うべきでないからこそ、これまで成り行きを見守り、伏せていた遺憾の策(・・・・)を。

「事ここに至っては、若に“城落ち”していただくほか、道はありませぬ」
「何と――?!」

 突然の上申に驚いたのは近習長。そして「叔父上――」と弦矢も真偽を図りかねて目を細める。
 両者の睨み合いは長く続かず。

「それが『慧眼』と称えられし其方(そなた)の策と申すか」
「遺憾ながら」

 深々と上半身を折る知恵者の姿に、どれほど進退窮まった状況かが、あらためて浮き彫りとなる。同じく美丈夫もまた、賛意の声で後押しを図ってくるのが忌々しいほどに。

()。勝ちへの(しるべ)がないのなら、戦そのものを避ける手はむしろ常道かと」
「それ即ち、万雷を“捨て駒”にすることぞ? それでおぬしは良いと申すかっ」

 間髪置かずに弦矢が詰問調で質すのは、美丈夫が諏訪に居つく切っ掛けをくれたのが、他ならぬ万雷と知るが故。
 それが本心かと睨まずにはおれぬ弦矢を「良いはずがありませぬ」と叔父である隻眼が、憮然たる面持ちで(たしな)める。

「ここ十年、諏訪を災禍から遠ざけられたのも万雷の力あってこそ。今やあの男なくして、諏訪の軍は語れませぬ」
「なら――」
「なればこそ。万雷なればこそ、敵軍の足止めを成し得るのです。軍を退かせることも、あの男だけ退かせることも、許されませぬっ」

 その胸中にいかなる情感が渦巻こうとも、石を磨り潰すがごとき声音で、隻眼は旧知の命を切り捨てる。

「それに万雷であれば気にもしませぬ。むしろ、敵の追っ手を半減させてやったわと、己の戦果を誇る(おとこ)
「それに付き従う兵らもか――?」
「無論」

 まるで我が事のように、隻眼は自信を持って大きく頷いた。あまりに確信めいた肯定ぶりに、痛打したつもりの弦矢もわずかに鼻白むほど。

「あの者が率いし兵の大方が、自らが『雷四つ』と名乗る万雷子飼いの精兵共。骨の髄まで万雷に心酔し、また、諏訪者である幸せを噛みしめ、誇りとする者達。その心意気は、正に諏訪侍の体現者。
 奴らは己が何のために死するかを、とくと理解しておりまする」

 篠ノ女のため、諏訪のため。
 そこに暮らす妻や子らのため。
 すべてを戦火に焼かれた忌まわしき過去を繰り返さぬため、彼らは死兵となることを覚悟した。
 諏訪の侍は、兵となる者達は知っているのだ。

「何より肝心なのは諏訪の将来(さき)。それを途絶えさせぬのが己の務めと、皆、承知しておりまするっ」

 初老と思えぬ滾る眼光に、諏訪の侍としての矜持が強く宿っていた。
 その背に透かして見えるは、この場にいぬ兵らの姿。
 これまで感じたことのない熱気に当てられ、若き当主がぶるりと震えた。
 わずかの間、目をつぶり、一千弱の念いをひとり噛みしめて。



「――――(たわ)けがっ」



 漏れた言葉は叱責。
 だが、そこに込められるのは怒りではない。何かの決意を秘めた弦矢の黒瞳が隻眼に向けられる。

「そこまで分かっておきながら、なぜに儂を護ろう(・・・・・)とするっ(・・・・)
「は? ――いや」

 驚き戸惑うのは、隻眼ばかりでない。近習長はもちろん、酷薄とも取られかねない美丈夫でさえ、唇を薄く開いて唖然と当主を見やる。その臣下らの狼狽ぶりを無視して弦矢は話し続ける。

「儂は領をまとめあげた祖父の教えを受け、領の平穏を護り続けた父の背を目にしてきた。なればこそ言える――」

 当主として何を為すべきか。
 膝上の拳を強く握り込んで、弦矢は咽を震わせた。

「侵略者に背を向ける無様を、民にだけは見せられぬ。見せるべきは、民を護る姿(・・・・・)。諏訪の当主が為すべきは、槍持てぬ民の代わりに、血を流し肉を裂き、命を燃やし尽くすことぞっ」

 民の盾となり、剣となる。
 不条理が(まか)り通る乱世において、青臭すぎる志だからこそ、それはまばゆく光る。

「儂とて、その志に惚れた者のひとり。民を庇い死した親父殿の背が、今もこの目の奥に焼き付いておる――」

 父の死に無念や悔しさがないではない。
 だがそれよりも奮わされたのは、あの姿(・・・)

「死に瀕した老婆を庇う父を、敵は“愚か”と嘲笑い斬り伏せた。じゃが儂はそんな父の姿に――心底憧れた」
「……」

 憧れ続けて十年余。
 届いたか否かは、弦矢の意志漲る黒瞳を目にすれば自ずと窺えよう。


「叔父上。儂も――――諏訪の侍だ」


 決然と発する言葉にありったけの気概を込めて。それを感じたであろう隻眼が、感銘と焦燥をない混ぜにしながらも、苦しげに言い募る。

「それでは、諏訪の将来(さき)は――」
「無論、城の女子供は逃がす。だが誤るな。護るべきは血に非ず、諏訪の志をこそ護るべし」

 その言葉に、隻眼の身がわずかに震える。

「その志は其方にも、民のひとりひとりにも、この地に住むすべての者に根付いておる」

 そうして拳を胸に当てる若き当主に、「(しか)り」と声を響かせて応じるは、実弟の近習長。

「例え諏訪家(われら)が斃れても――」

 晴れやかに告げる言葉は単なる追従ではない。同じ念いを抱くひとりとして、澄んだ面持ちで遠くを見つめている。
 彼もまた、諏訪家次子である前に“諏訪の侍”であった。その独白に弦矢は静かに首肯する。

「家は焼けても、その焼け跡に草花は芽吹くもの。殊に、この地に芽吹く草花は格別だ(・・・)。そうであろう……?」

 向けられたのは両膝に手を付き、前のめりで若き当主を見つめる隻眼だ。“城落ち”の策が断たれたと知り、眉間に深い皺を寄せ、静かに瞑目する。

「……それが、現当主の念いと申されるか」
 
 自家の存続に拘らず、理想郷の実現こそを願う。
 それは侍だけでは成し得ず、民も望み励まねば果たせないもの。その志を根付かせるために費やされた労苦は、弦矢よりも長く諏訪家と共に歩んできた隻眼の方が熟知していよう。その成果もまた。
 隻眼が目を閉じてしばし。
 再び開いた目には、静謐だけを湛えていた。

「……恥ずかしながら、かつてない非常時に、少し我を忘れていたようです。先の進言は、すべて忘れてくだされ。
 この先はどうぞ、若の御心のままに、我らをお導きいただきたい」

 不満など微も感じさせず、深々と平身低頭する隻眼を弦矢は満足げに見つめる。

「ならばまず、“若”と呼ぶのはやめてもらおうか。威厳が薄れるでな」

 そう皆の笑いを誘いながら、「ちなみに“兄上”もなしだ」と人前で呼ぶ近習長を諫めることも忘れない。
 「それは別によいでしょう」となぜか不平を漏らす実弟を無視して、弦矢は小気味よく膝を叩いた。


「然らば叔父上、出陣の支度を頼むっ」

 
 凜と響く若き当主の命に一同が居住まいを正したところで。
 それまで隻眼の下座でじっと黙り込んでいた小柄な影が、初めて言葉を発した。



「――ひとつ、よろしいか」



 これから戦との、昂揚感もなければ緊張感も感じさせぬ落ち着き払ったその物腰。
 この場で最年長というだけでない、小柄に合わぬ堂々たる佇まいには、誰もが認める“ご意見番”としての風格が漂っていた。
 だがよく見れば、その禿頭に滲む汗、首筋を伝う汗の滴に気づけるだろう。浅いが小刻みな息づかいにも。
 それにいつもながら、水を向けなければ進んで口を開くこともなかった気質を知るだけに、一体何事かと誰もが不審げに目を向ければ。

「やはり、ぬしらには視えぬのか(・・・・・)――」

 下座にいながら、不遜とも言える物言いで小柄な影――禿頭の老人が独り勝手に得心する。それも()眼を閉じた(・・・・・)状態で。
 その異様さを気にも留めず質すのは、対面の美丈夫。

「御坊。何が見えると?」
「云うても分かるまい。ならば論より証拠――」

 そこで初めて瞼を上げた禿頭が音もなく立ち上がり、廊下に面する襖をするりと開け放つ。

「む、これは――?!」
「若!」

 困惑と驚きと、そして(あるじ)を案じる誰かの声。
 禿頭の老人が何を云わんとしていたのかを、その瞬間、誰もがはっきりと理解した。理解したところで、為す術などなかったが。



 ――――……



 堰を切ったように大量の白き靄が室内へと雪崩れ込み、瞬く間にその場にいる全員を呑み込んでしまう。
 救いは視界を遮るほどの濃度がないことか。辛うじて室内の様子程度なら透けて見え、それより離れた範囲は乳白色の海に溶けて判然としなかった。

「どうなっておる?!」
「誰か――」

 見えぬは抑えきれぬ恐怖を生み、恐怖は人を容易く混乱に至らしめ、その混乱も極まれば自滅さえ招いてしまう。
 

「皆、狼狽えるでない――っ」


 靄の中、弦矢の清冽なる声が響き渡り、場が混乱の荒波に呑まれんとするのを抑えつける。居並ぶ四名も俗人と異なり肝の据わった者達だ。それ以上、取り乱すこともないまま、すぐに落ち着きを取り戻していた。

「無庵、これはどうしたわけじゃ?」

 弦矢に詰問調で質されたのは、靄を室内に招き入れた禿頭の老人だ。彼もまた、隻眼と同じ名を持つ奇妙さを誰も指摘することはなく。
 「さて」と変わらぬ落ち着き振りで応じる当人は、惚けた台詞とは裏腹に、しごく真面目に状況を分析していたらしい。

月が翳るに合わせて(・・・・・・・・・)出てきたようだが……条件が合わぬ」

 それは靄の発生する気象条件を差してのものか?
 いやそれ以前に、行灯(あんどん)に照らされた室内にいながら、どうして月の翳りを知り、それに合致して靄が出たと知ったのか。それも閉ざしていた両の(まなこ)で。
 まるで狂人の戯言としか思えぬ発言に、しかし、疑いの声を上げる者はいない。それ故別の不審点に注意は向けられる。

「これは(まこと)に靄なのか……?」

 そんな疑念も切り口のひとつ。
 弦矢の呟きに、「(すす)の臭いはありませぬ」とは美丈夫。すぐに、

「惣一朗――」
「――ここに」

 美丈夫の求めに応じて、気付けば開け放たれた障子向こうの廊下側に孤影がひとつ。
 はじめからそこにいたかのように座り込み、見事な低頭姿勢を保つのは、当主を陰から護持する『影衛士』。

「率直に聞こう。忍びの術に(・・・・・)斯様(かよう)な幻術の類いはあるものか?」

 今ひとつの可能性を美丈夫が探れば、「ございます」と望んでいた回答を得ることになる。

「幻術とは異なりますが、相似する術であれば、思い当たるものがひとつ。ですが、日ノ本広しといえど、これほどの規模で術を成し得る遣い手はただひとり――」
「誰だ?」
天雨(あもう)才蔵(さいぞう)――その者以外におりませぬ」

 その瞬間、皆が息を呑むのが分かった。

 『霧陰の才蔵』――。
 日ノ本『七忍』に数えられし、伝説の伊賀者。
 霧に雨にその身を紛らせ、誰にも足音や気配を掴ませず狙った獲物を静かに仕留め、あるいは秘めやかに奪い去る。
 戦いよりも、隠密行動にこそ真価を発揮する才蔵は、誰よりも忍びらしき忍びであると評される。隠密特化にありがちな、その素顔は組織的に秘匿され、例え同朋の伊賀者でさえ、一握りの上忍を除いて知る者はいないという。
 そんな彼の存在を有名にしたのは、天下の大泥棒『五右衛門』との隠し財宝を巡る競演だ。当時、大物大名を巻き込んで、熾烈な争いが繰り広げられたという噂はどれも眉唾なものばかりであったが、それでも人々の胸を熱くさせたのは間違いなく、それ故に彼の伝説を盤石なものにした。

 その生きた伝説が、この状況を生み出した元凶だとするならば。

「お前はどう思うのだ?」

 思わず問いかけたのは近習長。当主を守る役目柄、己の腕にいかなる自負があろうとも、“伝説”が相手ともなれば確かめずにはおれないのだろう。その意を汲んだわけでもあるまいが。

「その可能性は低いかと」
「なぜだ? 明らかに、この靄はおかしいぞっ」
「真に」

 そう認めておきながら影衛士――惣一朗は「しかしながら」と反意する。

「これを才蔵の仕業とするならば、敵方に雇われたと考えるのが妥当でしょう。しかし、敵方からすれば城攻めは間もなく、勝利は目前。ここまで策を順調に進めている者が、“最後の締め”を忍びに譲る心情がどうにも解せませぬ。いえ、それではあまりに旨味がなさすぎます(・・・・・・・・・)
「うむ……確かに。それはそうだ」

 惣一朗の話しには説得力があり、近習長も思わず感心の声を洩らす。むしろ武士である自分達こそが誰よりも納得できる理屈だと。その一方で、「ならば何だ」と現状に呑み込めぬ疑念が残るのも事実。
 だから惣一朗も禿頭の老人へ視線を向けるのか。

「少なくとも、『観世眼』にて捉えられるのであれば――」

 そこで言葉がふつりと切れた。
 (いぶか)しむのは隻眼と近習長のふたりのみ。
 遅れて近習長も気がつく。ついには隻眼さえも。
 逆に鋭敏なる知覚を有する者達の眼は、すでに()()を捉えていた。
 風が掃いたせいなのか、いつの間にか外庭の靄がかすれており、そこに信じがたい光景が映じているのを。


「――城壁が(・・・)


 なくなっていた。
 正しくは、廊下を越えた庭先のさらに奥――城壁の透けた向こうに(・・・・・・・)樹林が見えていた。
 その上、

「なんだ? 誰か――」
「いるのか?」

 近習長の当惑げな声に隻眼のそれが重なる。
 月明かりの下、白き靄に紛れるように幾つもの黒い影が形を変え、大きく小さく伸び縮みする様に、よっくと目を凝らせばそれが人影であると気付く。

「!」
「――!」

 幾人もの人影が激しく踊り狂いながら、こちらに向かって駆けてくる。
 夜気を切り裂く金切り声はその人影の叫びであったか。悲痛な叫びには激しい動揺が感じられ、何かに慌てふためく状況が誰の目にも明らかであった。

「***っ」
「**!!」

 さらに声が明瞭になるも、なぜかその意味が分からない。
 緊張感を孕む怒鳴り声だと察しても、それが理解できぬ言語であったなら、当然のこと。
 すぐに城壁があった場所(・・・・・・・・)を駆け抜け、庭先まで近づいてきたところで、ようやく人影の正体がはっきりとする。
 誰もが目をしばたたかせた。

「異人か、あれは」
「なぜ、ここに――?!」

 噂に聞く紅毛とは異なり、月夜の下で輝くような銀の髪と彫りの深い整った顔立ちが目につく。
 相反するように灰色にくすんだ肌の色合いは、埃でも被ったせいなのか。
 それよりも、どこか禍々しさを感じる赤みがかった異形の瞳が、その場にいる数名に腰の物へ手を掛けさせた。
 実際、やけに殺気立つ異人達は、手に手に長大な針のごとき不可思議な剣を握りしめている。この場合、相手の臨戦態勢にこちらは遅れをとったとも言えようか。

「***、**っ」

 先頭に立ち、恐るべき速さで庭先まで乗り込んできた異人が切っ先を向けてくる。すぐにその両脇を固める二人の異人。
 その戦い慣れた身のこなしと肌斬るような殺意の切れ味に、即座に反応していたのはふたりの男達。

「何者だ――」

 部屋を抜け、廊下に毅然と立つ美丈夫が、一段高見から不遜なる侵入者共を睥睨(へいげい)する。
 それが普段着かと驚かされる異質な白小袖に、肩に触れんばかりの黒髪姿が月下に映える。
 一見して芸妓を匂わす柳身で、滑らかに抜き放った刀身を先頭の異人にぴたりと突きつける様は、(いっ)(ぷく)の画を目にする美しさがあった。
 だがその実態は、剣呑そのものだ。

「「「…………っ」」」
 
 大して力が入っていると見えぬのに、まるで切っ先から迸る剣気にでも当てられたかのように、異人達は身動きひとつできなくなっていた。

 そして今ひとり、廊下から下り立つは影衛士。

 美丈夫と共に並ぶを不遜と辞したかのごとく、一段低い位置で不埒な訪問者に対峙する。
 この者もまた、非凡なる武を潜めていたらしい。


「「「――!!」」」


 異人達が一斉に彼へ向きを変えたのは、惣一朗の身より不可視の殺気が放射されたがため。それもあえて自身に注意を向けさせた献身(・・)を美丈夫のみが承知する。
 惣一朗の殺気に反応した異人が両腕を構えた。

「?」

 かすかに眉をひそめたのは、惣一朗だけでなく美丈夫も同じ。
 異人が剣持つ右手で、二本指を突き出し、左で何かを摘まむようにして、右の肩口から胸元を通して左脇まで一直線に引き絞った。それはどこか見覚えのある仕草。
 
「月ノ丞――」

 ただひとり察したらしき若者の声が部屋奥から掛けられるも、刻既に遅く。
 異人の突き出した指先に目に見えぬ“殺意”が凝集したところで、何か(・・)が放たれた。

「――っ」

 美丈夫――月ノ丞自身、それは無意識の反応だったに違いない。
 惣一朗へと疾駆する不可視の何か(・・・・・・)を、肌感覚を頼りに横合いから斬りつけ、合わせて惣一朗が、座り込みながらクナイの刃を拝み打ちに斬りつけていた。

 手応えあり――。

 惣一朗の頭上で空気が爆ぜ、突風が逆巻き、煽られた黒髪が乱れ散る。

「***?!」
「**っ」

 何かを放った異人だけでなく、愕然と口を開けたのは他の異人達も同様だ。
 よほど信じがたい出来事だったのか、あからさまに狼狽え、呻きながらも、他の二人に協調を促し一斉に第二射を放たんとする。だが、それを黙って見守る月ノ丞と惣一朗ではなかった。


 ――――たんっ


 すでに月ノ丞が間際まで踏み込んでおり、逆に迂回行動をとる惣一朗がクナイを飛ばして巧みに牽制する。
 二手に分かれたことで異人達の狙いに迷いが生まれ、その隙に一歩詰め寄る月ノ丞が剣の間合いに捉えていた。
 抜き放たれる剣の一閃。


 ――キ――
   ――ヒュバンッ


 針剣の反応が間に合ったひとりを除き、二人目の異人が血風を巻いて崩れ落ちる。
 一度に二人。
 卓越した剣筋を夜気に残して、月ノ丞は怜悧な瞳を偶然か否か、見事に受けきった異人へとゆるりと向けた。

「――その細腕で、いい“反応”と“力”だ」
「***、****」 
 
 馬鹿にするな、とでも云ったのか。
 命のやりとりをする最中に、平然と敵の技倆を吟味する月ノ丞の態度は、言葉など理解できずとも鼻につくに違いない。
 だが月ノ丞こそは、武名高し七名を差す『白山七刀』の有力候補に挙げられし、新進気鋭の武人。奢りでなく、積み上げた実績に支えられし自負が、言わしめただけ。
 片や惣一朗の方も、すでに勝負の行方を決していた。

「もはや儂には当たらぬ」

 月ノ丞が状況を打破した段階で、惣一朗もまた、こちらへ向けて迫っていた。それも難なく敵の“不可視の攻撃”を避けながら。

「**っ」
「無駄だ。例え仕掛け(・・・)を見抜けなくとも、“見えない刃”を飛ばすだけならば、無芸と同じ」

 一度目より二度目。
 二度目より三度目。
 次第に避ける動作が少なくなってゆき、最後には悠然と頬をかすらせて歩み寄り、異人の眼前に立ちはだかった。

「――っ」

 異人が息を呑んだのは束の間。
 苛立ち紛れの美貌にいかなる秘策を隠していたのか、意気込んで突き出した掌を、だが惣一朗は手首から斬り飛ばし、懐に入り様に左胸へとクナイを突き立てた。
 異人の赤き瞳が光を失う。
 それで終わり。
 驚くほどあっさりとした結末に影衛士の表情は某かの感慨さえ浮かべることはない。
 ただ油断なく、そして音もなく、事切れた異人を横倒しにさせ、挟撃の形を完遂させる。
 その状況を察した生き残りの異人が惣一朗を睨みつけ、すぐに泰然と構える月ノ丞へ視線を戻すと、あからさまな焦燥を滲ませて後退りはじめる。
 奇怪な術を操る異人も、さすがに痛感したのだろう。
 力量が違いすぎると。
 だが自分達の城へ土足で踏み込み、刃まで振るった輩を見逃す二人ではない。

「何のつもりか知らぬが――」

 月ノ丞が詰問しかけたところで、異人の目が城壁のあった方へと向けられたことに気付く。
 びくついた反応に険しい目付き。
 何があったと考えるまでもなく、背筋をぞろりと撫でる耳障りな鳴き声に月ノ丞は気付いていた。


 ごりゅごらびゅぅ
 ぶるごぶら
 ごぶるごぶるぶ


 咄嗟に半身に構えて、月ノ丞も惣一朗も奇怪な音のする方へ一瞥をくれた。
 一瞬だがはっきりと捉える。
 銀髪の異人が数名こちらへ駆けてくる姿を。
 問題はそれに纏わりつく小柄な何か(・・・・・)だ。
 いや、後からわらわら(・・・・)とたくさんの影が群れを成して迫ってきていた。

「むっ――」

 ぎょっとして視線を貼り付ける月ノ丞。
 突然の、見知らぬ異人達による襲撃――だが、変事はそれで終わりではない。むしろ、これからが本番であったのだ。

「月ノ丞様――」
「待て。まずは見極める」

 切迫した惣一朗の声に、月ノ丞は視線を反らさず目を凝らす。
 だが、それが何かを承知しているのであろう異人は静観できずに針剣を震わせて喚き出す。

「****――!!」

 それは仲間への警告か叱咤だったのか。
 あるいは悲鳴であったのかもしれない。
 影にたかられた(・・・・・)異人のひとりが苦鳴を上げ、足を(もつ)れさせて倒れた。
 ひとり、またひとり。
 影に飛びつかれた別の異人が背中をやられ、足に齧り付かれ、鈍化したところで瞬く間に多数の影達にたかられ藁山(わらやま)と為す。
 くぐもった苦鳴が藁山の内から洩れ聞こえても仲間を助ける異人は誰一人いない。
 次は自分だと理解し恐慌をきたしているからだ。

あれ(・・)は――」
「餓鬼だ」

 それが惣一朗の呻きと気付いて月ノ丞が横目で見やる。

「腹は膨れ手足は短く、決して満たされることのない飢えに苦しみ、苛まれ続けるだけの小さき鬼……あれは正しく、“餓鬼道の住人”そのもの」
「戯言を。その餓鬼が六道輪廻から外れて彷徨い出たと申すか」
「……」

 無言は肯定の意。
 少なくとも彼はそう信じた。
 これまで何事にも動じず、無表情を通してのけていた一線級の影衛士が、はっきりと畏怖を覗かせていた。それほどの悪夢が現実に繰り広げられ、しかもその災いがこちらに向かって近づいているのだ。
 早く、何かしないと。
 だが、何をどうする――?



「敵襲じゃ――――!!」



 背中を激しく打ち鳴らすその声で、月ノ丞達は我に返った。
 そうとも。
 まずは味方に警鐘を鳴らし、戦力を整える。
 人智を越える事態に思考が凍り付いていた月ノ丞は、頼もしきあるじの行動力に心から安堵を覚える。

「若――」

 ああ、だが。
 思わず振り返るその眼に、またしても、信じがたいものが映る。

「者共、出遭え、出遭え――い!!」

 真っ直ぐ前を向き、あらん限りの力で危機の到来を訴える若き当主の姿よりも、月ノ丞が目を奪われたのは別の景色(・・・・)

 それもまた悪夢に溶けたかのように、城内の建物どころか目に映るすべてが輪郭をぼやけさせ、当主が出てきた部屋の入口のみが(・・・・・・・・)、くっきりと際立って見えた。

 透かして見えるのは夜陰に沈む樹林のみ。
 気のせいか、日頃より手入れしている植生と違って見え、そんな馬鹿なと目を凝らすもさすがに月明かり程度では判然としない。
 周りを見渡せば、蔵も塀も透かし絵のごとく朧となり、現実感さえ失いそうになる。
 まるで当主の寝室が、突如として異界への扉と化し、自分達はそこから迷い込んでしまったのではと、倒錯に身を委ねてしまいたくなる奇々怪々なる悪夢的状況。

「これは、一体――?」

 あり得ない。いくら何でも。
 諏訪の窮地に心労が祟ったのか。
 あるいは、自分で気付かぬうちに寝入ってしまったのではないか?

「おい、月ノ丞っ」

 ただならぬ二人の様子に庭へ下り立った弦矢も異変を体感する。

「む、どうしたことじゃ?!」
「どうされました、兄上」

 警護に付いていた近習長も兄の視線を追って愕然と動きを止めた。

「これ……は……?」

 肩幅広い肉厚な胸と太い首。
 石塊を思わすごろりとした拳に“技”より“力”の武人を匂わす豪傑漢が、ぽかんと口を開け、驚きに目を剥いていた。
 だが、誰もが耳にした唸り声のようなものは、その太い唇から洩れたわけではない。


 ごぶるるるるぅがあ
 ぶごるごぶ
 ぎあぶるごぶ


 間近に迫る異形の気配。
 はっとしたように全員が振り返るのは、乱世の武士ならば当然の反応。
 生存の危機に、常識に囚われた頭よりも、戦いが染みつく肉体が先に反応する。
 そこで目に付く光景に、躊躇を覚えるのは致し方あるまい。

「兄上、あのケダモノは――?」
「さて。『犬豪』の物好き当主めが、またぞろ厄介なヤツを山奥から引っ張り出しよった、というのはどうじゃ?」

 弦矢が皮肉げに唇を歪ませるのは、苦い実例があるからだ。
 犬豪 (るい)――これまで何度も煮え湯を飲まされた敵将は、元は西の霊峰『大白山』に人知れず棲みつく狩猟族の族長であった。それをいかなる経緯があったのか、犬豪の現当主が一族ごと山より降ろし、味方に引き入れ一軍を担わせたのだ。当然ながら死傷者数は段違いに跳ね上がり、諏訪を苦しませる元凶となっていた。

「まさか、あれ(・・)も『犬豪』が誇る『四爪四牙(しそう しが)』の一軍と?」 
「そこまでは。じゃが、白山に息づくモノならば、人であれ獣であれ、尋常ならざる能力を発揮するのは間違いない。ならば、軍と云わず“兵具”と見立て用いるのも有りかもしれぬ」
「そのようなこと」

 非常識な弦矢の見解に、反射的に否定しかけた近習長も、一度食い入るように観察した上で、最もな懸念を洩らす。

「しかし兄上。とてもあのようなモノ(・・・・・・・)の手綱をとれるとは……」

 (おぞ)ましい食欲を見せつける餓鬼の群れに、下手をすれば飼い犬に噛まれる危惧は拭えない。むしろ手を出すべきモノではないと、誰もが直感で判じれよう。
 さすがに弦矢も頷いた。

「同感だ。じゃが『犬豪』でも、同盟軍の仕業でないとすれば、いよいよもってこの状況は、儂らに理解しがたいものになってくる……」

 あるいは本当に悪夢が現実になったとか。
 馬鹿げた妄想に首を振り、弦矢は表情を引き締めた。それよりも今は、皆に活を入れる時。
 窮地に当主が為すべきことを、弦矢は体現してみせる。

「これが悪夢であろうとなかろうと……攻め入れられて黙する道理は何もない。よいか、皆っ。亡者共に諏訪の力を見せつけてやれっ」
「「「御意」」」

 侍達が呼応する。
 例え相手が物の怪であろうとも。
 城攻めする者あらば、ただ返り討ちにするのみ。
 あまりにも唐突に、諏訪の侍達と異形との熾烈な戦いが、始まった――。
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