(5)ほのかな灯火

文字数 4,129文字

公都郊外
 秘されし岩窟の根城
      『岩牢』――




 ふ、ふふ……ふふふ


 蝋燭片手に男が立ち去り、岩牢に再び真の闇が舞い戻ったところで、止めどもなく零れ出していた女の低い嗤い声がぴたりと止んだ。
 代わりに、咽奥から溢れる感情を懸命に抑え込もうとするかのような嗚咽が、わずかに鼻を啜る音までもが、はっきりと牢内に響いていたのに初めて気付く。

「ふ、ぐっ……」

 暗闇に独り。
 屈した姿勢で立つこともできず、さりとて地べたに倒れ込むのを両腕を突っ張ることで辛うじて凌いでみせて――それが最後に示せる女の矜持だとでもいうかのように。
 固い地面に爪を立て、肩震わせて必死に涙を堪える理由をその女自身、もはやよく分かっていないのかもしれない。
 だが、まわりにいる物言わぬ女達もはじめは(・・・・)そうであった。
 泣き、喚き、どうしてこんな目に遭わねばならぬかと叫んで暴れて。
 それが次第に媚び、へつらい……命乞いして。

 やがてはただ、疲れ果て、擦り切れて――……

 そうでなければ放棄する。
 感じることを、考えることを放棄して、請われるままに従うのだ。
 辿り着く先はいずれも同じ。
 嗚咽する女もその過程を少しづつ歩んでいるだけにすぎない。
 闇の中、少しづつ抗う気力を削がれ、奪われ、やがては自分自身を支えきれなくなり、心が深い水底に沈み込んでゆくのだ。
 ゆっくりと。

 だが、そんな女へ手を差し伸べる者はいない。

 ここにいるのは女の行き着く先を(・・・・・・・・)示す者(・・・)。絶望を感じさせることはあっても、励まし助け合える者などいようはずもない。
 自分であることを諦め手放した、“人形”だけなのだから。
 いや。
 闇の中、背中を震わせすすり泣く女の下へ這い寄るひとつの気配があった。それがつい今し方まで、気が触れたように嗤い声を上げていた女の気配と気付く者はいない。


 ぅ……ぐっ……


 聴き取りにくい嗚咽を頼りに、それでも辿り着けたのは慣れのせい(・・・・・)とも考えられよう。だがこの状況下で、いまだ己を保ち続ける事実には、説明の付けられぬ驚きしかない。

 ただそっと――冷たい手が、幼子のように震える背中に添えられた。
 
 かける言葉がないのを承知だからこそ、優しく触れられた掌にその者の思いが込められているようだ。
 その掌が痛みを和らげようとするのかのように、ゆっくり背中をさすりはじめる。

 子をあやす母のように。
 妹を慰める姉のように。

 身も心も冷えさせるだけの岩牢で、冷たい手が与える唯一のぬくもりに(・・・・・)、嗚咽を堪える女も何かを感じ取ったのだろうか。
 次第に背中の震えが収まっていき、気付けば嗚咽も消えていた。

「……すまな、い」

 意外に明朗たる感謝の言葉を返されて、慰めていた女の方がびくりと驚き震えるが、闇の(とばり)にまぎれて気付く者はいない。
 逆に明かりがなくても、この場で感情を発露させるのが新入り(・・・)だけということは、この岩牢では分かりきったことであり、当然、慰めた女も承知していることだろう。
 ただ、謝罪の意志を示せるほど意識がはっきりしているのは驚くべきことである。連れてこられたばかりの新人は、薬漬けにされているらしく、酷いときには数日ほど意識が朦朧としているものなのだ。それだけに彼女の精神力が卓越したものであることが窺える一事であった。
 背をさする手を止めずに女が名乗る。

「私はジーリ。あなたは……?」
「レイアナ……だ」
「レイアナ、あなた何者?」

 少し唐突すぎた問いかけに、さする背中を通してレイアナの戸惑いを感じ、ジーリは足りなかった言葉を付け加える。

「こうしてみても、あなたの、その……強さ(・・)を感じるわ」

 夫に比べれば細くとも、確かな広背筋のうねりを掌に感じる。だが、さすがに「逞しい」とは口にできぬジーリの気遣いをレイアナは気にするなと言葉に込めて返す。どこか自虐めいたものを感じさせながら。

「私は『槍術士』だ。それなりに(・・・・・)鍛えてはいるさ」
「『探索者』ということ……?」
「ちがう。ただ路銀を稼ぐため数日街に滞在し、仕事を請け負うこともある」

 「今回はしくじってしまったがな」と続けられた自嘲にジーリは何となく経緯を察したようだ。「おかげで救われたわ」とおかしな慰め方をする。

「どういう意味だ?」
ご覧のとおり(・・・・・・)、ここは望みのない場所。ここに囚われてしまったら、それでお終い。ジ・エンド」

 淡々と感情のこもらぬ声でジーリはここが“行き止まり”であることを告げる。

「だから早めに希望を棄てるの。棄てて何も考えないようにし、感じないようにして、ただ状況に身を委ねれば苦しみも恥辱も、痛い思いさえもしなくてすむから」
「それでみんな、人形(・・)になっているのか」

 そうよ、とジーリは無感情に口を動かした。何かの感情が沸き上がるのを堪えるように。
 少しでも周囲に視線を――いや意識を向け、同情や哀れみを抱いてしまえば、溢れる感情に呑み込まれてしまうと畏れるが故か。そうしてひとりまたひとりと自我を手放していく先達たる女達を、何度も見てきたせいも多分にあったろう。

「“希望がある”と信じるだけでも、ここではとても難しいことなの。……特にひとりでは」

 それはつまり、彼女だけが。
 あのような(・・・・・)歪んだ嗜好に何度も付き合わされてなお、彼女だけが。

「なぜ(すが)る……? もう“終わりだ”と自分で云ったろう。もはや希望がないと知っているんだろ?」

 いつの間にかレイアナの声はしっかりとしていて、まるで責めるように語気強くジーリに答えを促す。もちろん、そこにあるのは単なる好奇心ではない。
 そこにこそ、一縷の希望があるのでは、とのわずかな期待をこめているのだ。
 だが、レイアナの期待はあっさり裏切られる。
 “根拠”ではなく、ただ“想い”だけを示されて。

「私は帰りたいの。帰って家族の顔を見たい。近所の娘も気になるし」

 エレン婆さんの肩を揉んであげたり、村の子供達に創作童話を語って聞かせなければならない。それに共同畑の雑草むしりもそろそろ手伝わなければならない時期のはず――
 出てくる出てくるあまりに平凡で他愛のないジーリの望みに、はじめ「そんなこと」と零しそうになっていたレイアナの表情は、いつしか真摯なものに変わっていた。

 理不尽な力で囚われて。
 この真っ暗な闇に閉じ込められて。

 ただ男に隷属させられるだけの毎日を、ジーリがその望みを胸に自我を保ってきたというのなら、どうして他者になじることができようか。
 その望みに価値を与えるのは、決して他人などではなく、ジーリ本人以外あり得ないのだから。
 そうしてジーリがジーリであったからこそ、レイアナもこうして今、手を差し伸べてもらえたのではなかったか?
 誰かがいることのぬくもりと安心感をこれ以上なく味わったばかりではなかったか――。
 そう思い直したからこそ、レイアナは真剣に耳を傾けるのだろう。ジーリの凡庸な望みに込められた、その強い想いに。

「だから、希望があるかないかなんて関係ない。なくても棄てる(・・・・・・・)わけにはいかないの(・・・・・・・・・)
「……」

 ただの田舎娘にすぎないジーリの言葉には、戦士であるレイアナを圧倒する“力”が込められていた。 それは熱量であり、気迫であり、何よりも実感(・・)であることを、ここに来てまだ日の浅いレイアナでは、さすがに気づけることはない。
 当たり前であるほどに(・・・・・・・・・・)、その日常は身に染みついているものだ。それがどれほど己の身に馴染んでいるのか――なくてはならないものなのかに気づくのは、得てして失ってからのことになる。

 つまり、今のジーリのように――。

 それは暗闇で震える時間を重ねるほどに、屈辱なる痴態を強いられるたびに、あの他愛のない日常を思い出し、懐かしみ、そして狂おしいほどに焦がれた末に思い知るのだ。

 日常というものが、どれほど掛け替えのないものであったのかを。

 あんなちっぽけな行為が。
 他愛のない会話が。
 ささやすぎて、平穏という何もない(・・・・)毎日の繰り返しが、これほどに大切であったとは。

 ジーリの言葉にならぬ痛切が、漆黒に塗り込まれた岩牢の中でもひしひしと伝わってきて。
 だからレイアナは沈黙せざるを得ない。ここでは新入りにすぎない自分では、堪え忍んだ日数の長いジーリの絶望など分かって上げようもないのだから。
 ならばレイアナにできることはなんなのか。

「私より、あんたの方が強いな」
「そんな――」
「いくら腕っ節が強くても、この状況じゃ役に立たなさそうだ。必要なのは屈することのない意志の強さ」
「それを保つにも、想像だけでは(・・・・・・)心細いわ。現実に誰かが(・・・)いてくれないと」

 だから救われたのだとジーリは先ほどの真意を語る。

「それに私も励まされた口――“あんなクズ男に負けちゃダメ”ってヤルカさんに」
「なら、その人にも礼を言わなきゃならないな」

 そう冗談めかしたレイアナの言葉に、背中をさする手が動きを止める。それだけで何があったか分かろうものだ。

「いい? 何よりも“生き残ること”が大事と思って他のすべてを捨てることさえできれば――自分を保つことは可能よ」

 何事もなかったようにジーリが真剣な声でこれからの心構えを伝えてくる。

「悪いが――」
「あの男は女が屈服するのを見たがってる。でも舐めるのが屈服じゃなく、“諦めること”があの変態にとっての屈服を意味するの」
「でも、言いなりになれば、あいつは屈服したと思うだろう。そう思われただけでも」
「どうでもいいじゃない?」

 熱を帯びていたジーリの声が、途端に冷ややかになる。突き放すような声音で「勝手に勘違いさせればいいでしょ、あんな変態」と暴言を放つ。

「あいつのペースにハマってはダメ。あの変態がどう思うかじゃない、あなたがどう思うかよ(・・・・・・・・・・)
「――――やはりジーリは強いな」

 称賛のこもる声にジーリの沈黙は明らかな照れを感じさせるものだ。

「……知ってる限りでいい。ここのことをもっと教えてくれ、ジーリ」

 やはり独りより二人。
 言葉を交わし合うだけでも、不安定だった心に落ち着きが取り戻され、今やはっきりと力強い声でレイアナが教えを請う。
 それはあわよくば脱出法さえ探ろうとするレイアナの意図が感じられ、応じるジーリの声も心なしか弾んでいるように聞こえるのだった。
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